二
本作はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。
「魚住さんにもね、そろそろ現場出てもらおうかと思って」
部長はにこにこと笑いながらそう言った。私も当然喜ぶだろうと言わんばかりだった。
半期に一度行われる面談では、「キャリアアップシート」を元に行われていた。上半期の売上実績と取組実績、下半期の売上目標と取組予定内容、取得した資格と取得予定の資格、自主的に参加したセミナー、日々の自分に点数をつけるなら。その他にも部長が用意した項目がA4サイズ二枚分に窮屈そうに並んでいた。毎日を指で押しつぶすように過ごしていた私は、当然のことながらこのシートの記入に苦しめられた。兎に角部長からの突っ込みが少なくなるように、と思いながら必死の思いで書き上げたが、まさか現場に出てもらおうか、とくるとは思っていなかった。現場に出る、ということは、技術部門の仕事を担う、ということだった。
確かに自社の採用ページには「未経験歓迎」と記載しているが、未経験にもほどがあった。大学受験では、半ば理数科目から逃げるように文学部を受け、アルバイトは飲食一本で、情報技術とは無縁の生活だった。ノートパソコンを持っていたが、レポートやプレゼンテーションの資料作成のために使う程度だった。IT会社に入社したと言っても、担当している業務は事務仕事で、文書作成や表計算のソフトウェアが人並みに使えるようになった程度だった。自社サイトの運用を任されてはいたが、昨今の優れたサービスのおかげで、特別に専門知識を持たなくても容易に扱うことができた。社員との会話の中で辛うじてプログラミング言語の片鱗に触れることもあったが、いくつかの名称を覚えた程度で、実践では微塵も役に立つものではなかった。近隣にある情報系の専門学校の一年生を捕まえてきたほうが、まだ使えるだろうと思った。部長は採用時に履歴書を見ているはずだし、毎日送っている業務日報も見ているはずだから、情報技術に関しては、私がずぶの素人であることを分かっているはずだった。何かの思い違いか、本当に無謀な賭けでもしたくなったのか、あるいはいつもの急な思い付きなのか。部長の心の内を私が知る由もなかったし、知れたところで対処できるというものでもなかった。
「いつまでも売上に数字入らないのもきついでしょ。下半期の報告は笑顔で迎えたいよね」
そう言ってソファに深く腰掛けなおす部長に、ただ「頑張ります」と返すしか、私にできることはなかった。
その夜、私は結香子をご飯に誘った。面談の話は一人で抱えておき難い問題だった。結香子のおすすめの韓国居酒屋で、韓国焼酎とジンジャーエール、大根キムチ、ほうれん草のナムル、プルコギキンパ、それにサムギョプサルセットを注文するやいなや、結香子が口を開いた。
「面談何言われたん?」
「いやあ、それがさあ、現場出て言われたわ」
「ええ、うそやん」
それは結香子にも予想外の内容だったらしく、「やば、めっちゃ声出た」と半笑いで口元を抑えた。
「がち?」
「がち、がち」
「やっぱなし、とかないん?」
「それやったら嬉しいけど、入社してから部長に嬉しいことしてもらったこと一回もなくない?」
私が神妙な顔をしてみせると、結香子は運ばれてきた大根キムチに箸を伸ばしながら、
「確かに。余計なことしかせんもんな」
と愉快そうに笑った。金属でできた銀色の箸とチヂミを乗せた生成色の平皿の端がぶつかって、キン、と小さく音を立てた。
「でも現場って、どこまでのことすんの?」
「とりあえず最初は宮治さんに同行して、ゆくゆくは開発グループのお手伝い、って話やったと思うけど」
「宮治さんに同行。それもいややなあ」
結香子はわざとらしく口を歪ませた。
「結香子、宮治さんNGやもんな」
「NGっていうかあんま絡みたくないねん。最近宮治さんからしゃべりかけられても、はいかいいえで答えられること以外基本無視してる」
「それはおもろい」
結香子に向かっていつもの調子でガンダムシリーズの歴史について語る宮治さんと、それを無視して無表情のままキーボードを叩く結香子がありありと想像できて、私はゲラゲラと笑い、結香子も「おもろないで」と言いながら一緒に笑った。
「でもまあ真面目な話、ほんまにそうなるんやったら、最低限、基本情報技術者レベルの知識は持っておいた方がええやろな。まあ実際やってみて分かることとかはもちろんあるんやけど。宮治さんとの同行から、ってことは、最初っからいきなり構築やってどうぞ、みたいなことには流石にならんから、同行期間にできるだけ勉強したほうがいいかもな。私が使ってる情報系の学習サイト何個か送るわ」
「ありがとう。めっちゃ助かる」
「あと同行中はどっちかっていうとお客さんの要望聞いたり提案したりがメインやろから、普通にしゃべりがんばるのと、提案用の資料作成がんばるのやろな。まあでもその辺は今でもやってるやろから大丈夫やろけど」
結香子はガラスの御猪口に残った焼酎を飲み干し、緑色の瓶からまた焼酎を注いでいると、店員が小さなコンロを運んできた。店員はコンロをテーブルの中央に置いて店の奥に戻り、それから少しして今度はサムギョプサル用の豚肉とサンチュとサムジャンが乗った皿を持ってきて、テーブルの端に置いた。結香子は勝手知ったる様子でコンロに火をつけ、長方形に切りそろえられた豚肉を何枚か鉄板の上に並べた。
「いや、でもさ、いや、言われたからにはできる範囲でやるけどさ。さすがにキツイな」
「いやそりゃそうよな。事務の採用で入ったのにな」
「そうなんよ。なんかこのまま技術部門にスライドしていく感じやったらいややなあ、と思って」
結香子は肉をひっくり返しながら分かる分かると頷いた。鉄板の上ではいい焼き色がついた豚肉がパチパチと音を立て、食欲をそそる肉の脂の匂いが漂ってきた。私は肉が焼きあがっていく様を見つめながら、
「もう転職したいわ」
と呟いた。結香子は焼酎を一口飲み、
「え、いいやん。あり。転職したら」
と言った。愚痴半分、冗談半分で出た言葉だったが、結香子の賛同を得ると、それは途端に現実味を帯びるようだった。
「転職しよかな。ほんまに」
「ほんまにええと思う。ずっと定年まで働くような会社ちゃうしな」
「十年おったら超ベテラン扱いやもんな」
「そうそう。ほんで変に先延ばしして三十五とかで転職、ってなっても難しいって言うしな。肉ええんちゃう、はい」
こんがり焼けた肉を結香子が私の皿の上に乗せてくれた。
「ありがと」
焼けた肉をサムジャンと一緒にサンチュで包み、一口で頬張ると、脂の重さはサンチュで緩和され、肉の旨味と味噌の辛味が口の中いっぱいに広がり、心までもが満たされるようだった。
帰りの電車に乗り込むと、すぐに転職者向けの合同企業説明会の案内サイトを開いた。大手人材会社が運営する転職フェアのサイトには全国各地の地名が並んでいた。一番直近の開催日は来週の土曜日で、幸いなことに、場所は自宅からそう遠くない場所だった。自宅の最寄駅に着くまでに、事前登録まで完了させた。面談後にはあんなにも鬱々とした気分だったのに、今は不思議と何でもできるような、そんな万能感さえ覚えた。
転職フェアの会場は、想像よりも小じんまりとしていた。外部研修の時に訪れた会議室くらいの広さに、小さなブースが規則正しく並び、スーツに身を包んだ私と同年代くらいであろう人々が数人ずつのかたまりになってそこここに点在していた。ブース内で採用担当と一対一で説明を受ける形式の企業が多いようで、何人かは既に採用担当者と熱心に話し込んでいた。他の参加者が着ている紺やグレーのスーツに居心地が悪くなり、そっと前髪をなでてパンプスの先を見つめた。新卒用の真っ黒なスーツを着ているのは私くらいのものだった。久しぶりの雰囲気に、私は喉元がキュッと締め付けられ、息がうまく吸えなくなるようだった。思えば、こういうイベントに足を運ぶのは新卒の合同説明会ぶりだった。その時は、いよいよ就活が始まる、という解禁時期で、私には手の届かないような大企業もこぞってブースを広げていた。六号棟もある大きな展示場に所狭しと企業のブースが並べられ、真っ黒なスーツに斜めに流した前髪の学生がその隙間を埋めるように歩き回っていた。均一に整えられた服装と髪型は、むしろ個々の差を浮き彫りにし、私の劣等性を全面に押し出しているように思えた。私はそこでもやっぱり居心地が悪くなり、数カ所見て回り、結局一時間ほどで帰ってしまった。
今日はそれじゃ駄目だ。自分を奮い立たせるように下腹に力を入れた。新卒の失敗が今の私をつくっているのであれば、ここでやり直さなければならない。今ここで、踏ん張らなければない。今の会社にあと十年も耐えれる気がしなかった。このままじゃいけない。それは入社してから心の中で毎日毎日唱えていたことだった。
壁に掲示されていた会場の位置図を見上げ、事前に確認していた目当ての会社を探し出し、ブースに向かうと、そこには既に先客がいた。私が後ろに並ぶと、ブースの脇に控えていた男性がすかさず資料を渡してきた。
「ご興味持っていただきありがとうございます。先にお待ちの方がいらっしゃいますので、少しお待ちのお時間いただくかと思うのですが、いかがされますか?整理券お渡しすることもできますので、お待ちの間別のところに行かれてても構いませんよ。もちろんこちらでお待ちいただいても良いのですが」
どうするのが正解なのか、と一瞬思案し、ここで待ってます、と答えた。時間に余裕があったし、前の人がどんなことを話しているかも気になった。
「お気遣いありがとうございます」
と言葉を続け、頭を少し下げた。口角、はっきりとした発音、感じの良い笑顔。今度こそうまく出来ているだろうか。
十五分程経ち、私の番が回ってきた。どうぞ、と採用担当者の女性に促され、失礼いたします、とパイプ椅子に座った。背筋を伸ばし、よろしくお願いいたします、と改めて笑顔をつくり、受付でもらった面談用紙を手渡した。目の前の女性は用紙はちらりと目を向けただけで、ついさっきまで後ろで聞いていた説明を繰り返した。
「説明は以上となりますが、何かご質問等ありますでしょうか?」
「はい、私は将来的に、責任のあるポジションを目指していきたいと考えているのですが、そのために特に求められる能力があればご教示いただけますでしょうか」
自信がなさそうだと駄目。自信過剰でも駄目。下調べ不足が露見するような内容でも駄目。まして残業時間や休暇制度のことを聞くなんてもってのほか。だからといって特にありませんと言うのも悪印象。ありふれた質問かもしれないが、それでも最低限合格ラインにはのっているだろうと、心の中で自分を励ましながら言葉を口にした。
その後、目星をつけていたブースを三つほどまわった。説明を受け、質問を返し、少し談笑なんかもしながら、これといって収穫はなかったけど、下腹に入れた力は緩んでいた。来場特典のギフトカードで何を買おうかと考えながら出口に向かっていると、唐突に声をかけられた。縦に長く、横幅は薄っぺらい男性が、眼鏡の奥の細長い瞳を更に細めて立っていた。
「こんにちは。よければ弊社のブースにお立ち寄りいただけませんか」
ブースの看板を確認すると会社名の下の募集職種に「営業職」と書かれていた。
「あ、すみません、今のところ事務職で検討しておりまして、」
「ああ、そうなんですね。今回は、うち、営業職で出してるんですけど、事務職でも採用枠ありますので、よろしければ、少しお話だけでも」
「あ、えっと、じゃあ、はい、お願いします」
男性の早口に押され、どうぞどうぞと差し出されたパイプ椅子に座ってしまった。株式会社GrowLinkLab。聞いたことのない会社だ。手渡された会社説明のチラシを見ると、どうやら人材サービスを主とした会社のようだった。チラシの一番下には「異業種からの転職歓迎!」と太字で書かれていた。
「はい、じゃあ用紙、見せてくれる?」
チラシから顔を上げると、先程の男性とは正反対の恰幅の良い男性が「あのお、受付でもらったでしょ、ほら」と手をひらひらさせていた。首から下げたネームプレートには達筆な時で徳田と書かれていた。慌てて面談用紙を手渡し、お願いします、と口角を上げた。徳田さんは「はいはい、どうもね」と受け取ると用紙をじっと眺めた。用紙を持った指はでっぷりとしており、私の親指よりもこの人の小指の方が太いんじゃないかと思えた。日焼けした浅黒い肌にはくっきりと皺が刻まれていて、部長でも、なんだったら社長でも違和感のない貫禄があった。
「魚住さんね、ああ大阪市に住んでるの。じゃあうちの会社からはちょっと遠いねえ。まあでも通えないほどじゃないねえ」
徳田さんがねえ、ねえ、と区切るたびに、はいとか、そうですねとか、相槌を打ちながら、私はいつ会社の説明が始まるんだろうと思った。そんな私をよそに、徳田さんはなおも用紙を眺めた。
「それで、今いてる会社はなんの会社なの?」
「はい、ざっくり申し上げるとIT関係ですね。中小企業のお客様を中心にシステムの運用保守や開発をメインにやっているような会社です」
「ふうん、なるほどねえ」
今どんな仕事をしているのか、営業はどんなことをしてるのか、手法は、成果は、ポジションは。質問が飛んでくると同時に濁った白目に縁取られた瞳が私に向けられ、その度に私は短く言葉を返した。
「あ、最初の会社は結構早く辞めちゃったんだね、何で?」
「はい、業務自体にはやりがいを感じていたのですが、深夜の帰宅や休日出勤も多く、それが常態化しているような状態でした。余暇等を利用してスキルアップできるような環境を求めて、自分でも早いとは思ったのですが、退職に至りました。ただ、今考えると環境改善の為に自分が出来ることをもう少し粘ってやればよかったと後悔しています」
事前に準備していた回答を述べると、男性はああ、なるほどねえと顔色を変えずに目線を手元へ移した。
「それでねえ、うちの会社なんだけども、」
それから、説明のような、雑談のような話が二十分程続き、ぜひ受けてよ、の笑顔とともに渡された選考のフロー図が書かれた用紙を受け取り、やっとそこから解放された。結局、事務職の仕事については聞けずじまいだった。
その夜はうまく寝つけず、アプリでずっと動画を眺めていた。アプリ内で投稿されている動画はどれも数十秒と短い尺ばかりで、指で画面を下から上へとなぞる度、次から次へと新しい動画が現れた。賑やかな、もしくは雰囲気のある音楽とともに、若い女の子が入れ替わり立ち替わり、くるくると体を動かし、髪を揺らした。あるいは、女子高生の制服に身を包み、学生時代にいかにも身近にいそうな女子学生を演じた。それは時々、女子大生の設定だったりしたが、結局やっていることは同じだった。「あるある」と名付けられた一人芝居は、全くの想像からの創作か、人づてに聞いた話の再現か、友人の振舞いを模したものか、もしかすると過去の自分自身をそのまま投影したのかもしれない。いずれにせよ、彼女らはみんな、何が善で、何が悪かを熟知しているような顔をしていた。このアプリ特有の動画ばかりであれば、すぐに見るのをやめていたかもしれないが、その中に混じって出てくるアコースティックギターの弾き語りの動画が何となく私を引き留めた。最近リリースされたばかりのポップスだけでなく、時折、十年ほど前に流行した曲も流れてきた。十代の半ばに好んでよく聴いていた曲だった。画面の構成もその当時よく見ていた動画サイトのそれとよく似ていて、言い知れない切なさを覚えた。そうやってダラダラと動画を見続け、結局朝の四時前頃まで時間を溶かした。
目を開けると、いつもの自分の部屋が見えた。カーテンを閉め切った六畳の部屋は日が昇っても真っ暗で、いつまでも夢と現実の境を彷徨っていられるようだった。意識をあっちに飛ばし、こっちに迎え、と繰り返しているうちに、頭の重さが現実のものとして枕に沈み込み、口の中に不快感がありありと広がった。風呂にも入らず眠ったので、髪や顔が脂ぎっている感じがして気持ちが悪かった。今が何時か想像するのも嫌なくらいだったが、枕元に投げ出されたスマートフォンを確認した。画面は15時32分を示していた。燃えるゴミを出すつもりで、8時から10分おきに設定したアラームたちはいつの間にか全て消えていた。こんな目覚めになった日は、今日が「今日」であるという感じがせず、まるで昨日がずっと続いているような、今が9月17日の15時32分ではなく、9月17日の39時32分のような、そんな気分になった。
シャワーを浴びるべく、重たい体を起こした。今日は高校時代に所属していた軽音部の同窓会に参加する予定だった。確か、大学卒業前に集まったのが最後だから、五年ぶりの再会、ということになる。メッセージアプリの『軽音部』のグループトークが久しぶりに動いたのはお盆に入ったばかりの夜遅くだった。当時部長だった彩奈から、グループトークの参加者全員に向けて、同窓会のお知らせが送られた。場所は梅田。日付は9月17日。全て決め打ちだった。恐らく、彩奈と同じバンドグループを組んでいて仲の良かった悠馬、大毅、真莉愛で帰省の時期に集まり、酒の席で決めたのだろう。同窓会と銘打っているが、いつもの四人で集まることが前提で、もし他の人が混じれば、それはそれでいつもと雰囲気が変わっておもしろいとでも思ったのだろう。そう推測しながら流れていくメッセージをしばらく眺めていた。そして三人ほど参加者が出たところで、私は参加する旨を返信した。強く誘われたわけでも、どうしても会いたい人がいたわけでも、誇示したい今があるわけでもなかったが、その日はどうしてか参加してみても良いような気がした。今振り返って考えると、あの日をピークに、行きたい気持ちは急速に萎んでいったように思う。
18時開始の同窓会に間に合うためには、17時には家を出なければいけなかった。シャワーを浴びて着替えるまでで40分、化粧とヘアセットでさらに40分。ギリギリ間に合うかどうかの時間だった。もたもたしてる暇はないが、どうしても急ぐ気になれず、結局マスカラとアイラインは省略し、毛先が乾ききっていない髪はお団子にまとめて家を出た。
彩奈から送られてきた梅田駅すぐのワインバルに着いたのは18時ぴったりだった。時間を確認するためにスマートフォンの画面を開くと、メッセージがいくつか届いていた。
『谷、まりあ、ゆうま、だいき先入ってます!』
『私ももう着く!』
『ごめん10分くらい遅れそう~先始めてて!』
私は既読だけつけて店に入った。祝日の梅田駅は人があふれかえっていてが、店内も同じようにがやがやと大いに賑わっていた。親と同世代くらいの客もいたが、大半は同年代くらいのグループ客だった。いくつかあるグループ客を順に眺めながら見知った顔を探していると、店員が近づいてきた。
「いらっしゃいませ。ご予約はされておりますか」
「あ、はい。多分、谷で、九人で」
「谷様ですね。ご案内します」
ポニーテールを揺らしながら店の奥へと進んでいく店員の後を追った。案内された席はカーテンで区切られた半個室の大テーブルだった。薄いカーテンを引くと、懐かしい顔がちらほらと振り向いた。久しぶり、いつぶりやっけ、と当たり障りのない言葉を交わしながら、「ここ、ここ、」と彩奈に勧められるがままに、空いている席に座った。注文はまだしておらず、近況でも報告し合いながら全員が集まるのを待っているようだった。話の途中から聞き始めたためいまいち要領を得なかったが、皆が笑うのに合わせて小さく笑ったり頷いたりしていた。そのうちに遅れていた人が一人、二人、と集まってきた。
会が進むと、あちこちで大きな声が上がった。皆顔を紅潮させ、笑い声に拍手が混じる。空になったグラスやジョッキは、次々に新しいグラスへと次々に生まれかわっていった。まだ最初のグラスを手にした私は、水で薄まったジンジャーエールをちびちびと喉に流していた。
「お酒飲まへんの」
手洗いから戻ってきた彩奈が右隣に座った。最初の席順はいつの間にか崩れていた。
「飲めへんねん。めっちゃ弱くて」
「えー、そうなんや。てか魚住めっちゃ久しぶりちゃう?」
「ほんまやな。卒業ぶり、ちゃうか、二十歳の会ぶりか」
「えーそうやっけ。大学の卒業ん時の会おらんかったっけ?」
「いけへんかってん。予定合わんくて」
「そうやったっけ。もう前過ぎて全然覚えてへんわ」
彩菜は大きなグラスを傾けて赤ワインを飲んだ。
「職場は?この辺なんやっけ?」
「神戸の方」
「めっちゃいいやん。海近くて」
「まあ、眺めだけはいいかな」
私は笑いながらほとんど水になったジンジャーエールで喉を潤した。
「仕事何系なん?」
「IT系の会社で、って言っても小さいとこやけど、総務系の仕事やってる」
「総務系かあ。採用はやってないん?」
「採用は担当外やねん」
「そっかあ。私結構説明会に駆り出されとってさ、もし採用担当してんねやったら話聞きたいなーって思ってんけど」
「えーそうなんや。ごめんなお役に立てずで」
もし私が採用業務を担当していたとしても、彩奈の役に立つような情報は何も提供できなかっただろう。総従業員数が五十人に満たない私の会社と、全国各地にグループ会社を置き、二百倍近い数の従業員を抱える彩奈の会社とでは、採用活動の何もかもが違っているはずだ。
「この前の説明会で母校凱旋してんけどさ、」
彩菜は身を乗り出して、頬杖をつき、
「大学生みんな若くて焦ったわあ。もう私完全におばちゃんやわ」
と続けた。顔を紅潮させながら喋る彩奈に焦りの色は微塵も感じられず、「おばちゃん」であることを快く受け入れているように見えた。この辺りでは有名な私立大学に現役合格、オーストラリアだかカナダだかに留学後、四年できっちり卒業し、新卒で入社したインフラ会社で、もう六年目を迎える頃だ。彩奈にとって、大学生の「若さ」なんてものは、もう思い出として飾っておけるもの程度のことでしかないのだろうと思った。
彩菜の華々しい仕事の話に相槌を打ちながら、取り皿の上に残されていたマルゲリータピザを齧った。完全に固まったチーズと冷め切ったトマトソースの塩辛さが口の中に張り付いた。それをかき消すように、ジンジャーエールだったものをまた一口飲んだ。
翌朝、目を覚ますと、頭がずきずきと痛んだ。酒は一滴も飲んでいないので二日酔いではないだろう。体が怠く熱っぽいが、もちろん体温計など持っているはずもなく、発熱の真偽を確かめることはできなかった。このままベッドの中に留まっていたいが、明日の仕事のことを考えると、全快とまでは言わなくとも、少しでも症状を緩和しておきたかった。
体を起こすと、頭痛は酷さを増した。頭を少し動かすだけで、頭の中を刺すような痛みが襲ってきた。いつもの倍の時間をかけて服を着替え、財布だけ上着のポケットに突っ込み、のろのろと家を出た。徒歩五分の距離にあるはずのドラッグストアが、あまりにも遠く感じた。バイクや車の通りすぎる音が、道路を横切る小学生のはしゃぎ声が、自動ドアが開いた瞬間に漏れ出るパチンコ屋の店内の音が、二億デシベルもの騒音のように聞こえ、不快感と吐き気に襲われた。
市販の風邪薬コーナーには赤、黄、青、銀、何十種類ものパッケージが所狭しと並んでいた。『つらいのどの痛み・熱かぜに』『鼻水・鼻づまりに』『速攻』『かぜのひきはじめから』。じっくり選んだところでどれが一番効くかなんてどうせ分からないので、耳馴染みのある商品名の、一番内容量が少ないものを選んだ。その後、食料品コーナーでポカリスウェットとフルーツゼリーを二個カゴに入れ、会計の待ち列に並んだ。日曜の午前中だからか店内は少し混んでおり、レジには学生アルバイトと思しき二人の女性店員が次から次へと客をさばいていた。レジは、店員が商品を登録し、客が会計方法を選んで支払いを済ますという半分セルフ方式になっていて、まるで機械のように正確で迅速な動きで商品の登録を済ます店員の前で、高齢の男性客がゆっくりとこげ茶色の財布から札を取り出してレジ台の上に乗せた。店員が「現金でのお支払いでよろしいですか」と聞くと、男性客は黙ったまま、指先で少し札を押し出した。店員は何も言わず身を乗り出し、タッチパネルに触れ、その下の投入口を指さし、「こちらに現金入れてください」と声をかけた。男性客が「え」とも「あ」ともとれるような声を上げると、店員は再度、「こちらに、現金を、入れて、ください」と、今度は一語一語区切るように声を張り上げた。男性客は右手を軽く上げ、「ああ、はいはい」とゆっくりと札を機械に投入した。勢いよく吐き出されたつり銭を、またゆっくりと財布に戻し、商品に目をやり、「袋、入れてくれへんの」と店員に声をかけた。
「お待たせいたしました。どうぞ」
もう一方のレジから声がかかり、私はせかせかとレジ台の上にカゴを置いた。店員がカゴの中を一瞥するとすぐに何かのボタンを押した。店内に薬剤師を呼ぶアナウンスが流れた。
「薬剤師からの説明が必要な商品が含まれておりますので少々お待ちください」
店員がポカリスウェットとゼリーを登録していると、白衣を着た白髪交じりの男性が小走りでやってきた。
「こちらはお客様ご自身が服薬されるということでお間違いなかったですか」
「はい」
「現在風邪の諸症状がみられるんですかね」
「あ、まあ、そうですね」
「他の薬局さんとかで同様の風邪薬購入されてないですか」
「してないです」
薬剤師は成分名らしきカタカナが並んだ用紙を指さしながら、
「こちらの商品にはこちらに記載された依存性のある成分が含まれておりますので、十分にご注意いただき、用法用量を守って適切にご使用ください。継続して服用するようなお薬ではありませんので、症状が続くようでしたら、明日以降、医療機関を受診されることをおすすめします。何かご不明点等ございますか」
と早口で言い終わり、私が大丈夫です、と小さく首を振ると、また小走りで売り場の奥へと消えていった。店員がすかさず商品を登録し、合計金額を読み上げた。痛い出費だが、病院の初診料と処方される薬代に比べれば多少は安くなっただろう。支払いを済ませ終わってレジから抜けると、先ほどの男性客もようやく会計が終わったようで、店員二人は同時に「お待たせしました。次のお客様どうぞ」と声を張り上げた。
家に戻ってゼリーを半分だけ食べ、薬を二錠飲んで、再びベッドにも潜り込んだ。先ほどよりもずっと具合が悪くなっているような気がした。薬剤師は病院に行けと言っていたが、病院が開いている時間は仕事で、もちろん休みなどとれるはずもなかった。労働基準法に則れば、有給休暇を取得できるはずだが、部長の一存で欠勤扱いになる可能性もあった。欠勤になれば、給与から引かれる金額も馬鹿にできない。今月は飲み会にも行って、薬も買った。この出費をフォローするためにも、次の給与支給額が減るようなことはできれば避けたかった。たとえ有給休暇扱いになったところで、部長にどんな説教を受けるか、金曜日に残してきた事務処理やミーティングの準備を考えると、休む気にはならなかった。
それに、病院に行くということ自体、そもそも好きではなかった。病名と治療、あるいは薬を与えてくれさえすればいいものを、やれ貧血が気になるだとか、なんとか腺肥大だとか言ってよく分からない注射や検査を半ば強制的なものとして勧めてくる。なんとか断って診察のみを受けたとして、定期的に通院してくださいと次回の受診日の予約を決めようとしてくる。「検査受けますか?」「次も来られますか?」ではなく「検査いつ受けますか?」「次回の予約日時いつにされますか?」とくる。支払う金額が事前に分からないのも不安だった。病院は世の中の平均的な人間のためにあるもので、私には不向きの場所だった。
カーテンを閉め切り、電気も消した夜のような暗い部屋で、天井をじっと見つめていると、小学生の頃に熱を出した記憶が蘇ってきた。それは小学校を卒業し、中学の入学式を待つ春休みのことだった。正確に覚えてはいないが、三十八度近くは出ていたと思う。気づいた時には父も母も仕事に出ていて、家には私一人だった。一度着替えた服から、再びパジャマに着替えなおして布団に入り、次に目を覚ました時には元気になっていることを祈って目を瞑った。なんせ次の日には母とユニバーサルスタジオジャパンに行く約束だったのだ。
その約束は、小学校の卒業式の夜に、珍しく上機嫌の母としたものだった。お祝いのちらし寿司を食べている私を、母は嬉しそうな顔で見つめていた。
「サーモン美味しいやろ。ちょっといいやつやねんで。いつものスーパーのちゃうくて、お魚屋さんで買うてん」
「うん。めっちゃおいしい。私、サーモンめっちゃすき」
「そうやろ。莉香、サーモンすきやったなあ、おもて」
「うん。ありがとうおかあさん」
「よかったなあ莉香。いっぱい食べや」
いつもは無口で無愛想な父も、遠慮がちに笑って、私の取り皿にサーモンを二切れ乗せてくれた。私は魚屋で買った脂がのったサーモンより、デパートの地下で買ったらしき色鮮やかなサラダより、母が私の名前を呼び、嬉しそうに笑いかけてくれることが、ありきたりかもしれないが、何よりも嬉しかった。
「莉香、あんな」
母は身を乗り出して私の顔を覗き込んだ。
「サーモンよりもっとええことあんねん」
「え~なになに」
私のわくわくした顔が予想以上だったのか、母はふふっと笑った。その笑顔だけで十分すぎるほどだった。私は母の言う「もっとええこと」が近所のスーパーで買った三割引きの紅白饅頭だったとしても、この上なく喜んだだろう。
「来週の水曜日、ユニバ行こう」
「え!ユニバ!ほんま!ええの?」
「ほんま。お母さんお休みとれたし、チケットももう買ってんねん。お父さんはお休みとれへんかったから、お母さんと二人」
「ほんまに残念やわ。でも莉香、お父さんのことは気にせず、お母さんと二人で楽しんできいや」
わーいわーい、と私は分かりやすくはしゃいでいた。
「春休みやけど、水曜日やから待ち時間もちょっとはマシやと思うで。何乗る莉香」
「ジュラシックパーク!」
「えージュラシックパーク?あれ最後めっちゃ落ちるらしいで」
「それがいいねん」
「莉香は強いなあ。お母さん大丈夫かあ」
「大丈夫ちゃうわあ」
言葉では不平不満を並べていても、声は明るく、その顔には変わらず笑みが湛えられていた。
それがちょうど一週間前の火曜日のことだから、明日がその約束の水曜日だった。バタバタと母が階段を上がってくる音で目を覚ました。起きたての頭はまだ熱っぽくぼーっとしていた。母が扉を開ける音が聞こえた後、少し間があって、「ええ、何、寝てんの」と母の声が聞こえた。
「うん。なんか熱あって」
私は何故かこの時、母が心底心配してくれると思っていた。母は私のことを叩いたり、外に閉め出したりすることはあるけれど、熱が出た時はポカリスウェットやゼリーを買ってきてくれたり、うどんやりんごのすりおろしを用意してくれる時もあった。それに、優しく穏やかな顔を浮かべていた先週の母の残像が、まだ私の中に残っていた。きっと母は、具合の悪くなった私のことを哀れみ、慈しんでくれると、馬鹿みたいに信じていた。
「え?熱?どういうこと?」
母の怒りを含んだ声と、どすどすと私に近づいてくる足音で、私の頭は一気に覚醒した。あんなに熱っぽかった体も、すっと心臓から冷えていくようだった。慌てて体を起こし正座した私に、母の怒号が降り注いだ。
「あんた熱あんの。何してんの。明日ユニバやで。折角周りの人に頭下げて休みとってきたのに。チケットもいくらする思てんの。公民館のプール行くんと訳違うねんで。チケット買ったったのも、休みとったったんも、全部あんたのためにやってあげてんやで。分かってんの。ほんで熱って分かったんやったら朝に連絡しいや。そしたら病院行けたやろ。何のために携帯持たせてやってんねん。遊ぶために持たせてやってんのちゃうねんで。こういう時連絡するためのもんやろ。そんなんも分からんのか、ぼけ。聞いてんのか」
「ごめんなさい」
締まり切った喉から、必死の思いで声を絞り出した私の髪を容赦なく掴み、母は
「ごめんで済んだら警察いらんのじゃ」
と怒鳴った。頭を投げつけるように私の髪から手を離し、階下へと降りて行ったかと思うと、すぐまた上がってきて、
「使えへんのやったら、もうこれいらんな。あんたみたいなアホにはもったいないわ」
と、枕元に置いてあった携帯電話を取り上げ、またどすどすと大きな足音を立てて去っていった。
私は布団にくるまって必死に声を抑えながら泣いた。布団にくるまっていたら、母にまた怒られるかもしれないけど、あふれ出てくる涙を止めることはできなかった。今まで受けたどんな仕打ちよりも堪えた。このまま消えてしまいたいと願った。枕が涙を吸って、しっとりと冷たかった。
次の日、結局ユニバーサルスタジオジャパンには行けたが、「行けた」という事実以外は、何も思い出せなかった。
一ヵ月半ぶりに結香子とご飯を食べたのは、三宮駅すぐ近くの焼き鳥屋だった。こじんまりとした店内で、カウンターの奥ではおじさんというよりむしろおじいさんという年齢の店主が、ニコニコと串をひっくり返していた。結香子は居心地の良い店を探し出すのがうまかった。
「そういやさ、ほんまに転職活動してんねん」
「そうなん。どんな感じなん」
「うーん、なんかやっと雰囲気掴んできたところ、って感じかなあ。とりあえず転職サイト三個、登録して、転職フェアには行ってきた。まあすぐすぐ何か、って感じちゃうけど」
「新卒の時と違って期限とかないもんな。ほんまに納得できるまでやったらええしな」
結香子の声には不思議といつも説得力があった。焦らずやろう、と思った。
「はい、つくね、塩ね」
店主が差し出したつくねを頬張ると、鶏ひき肉が口の中でほろりとほぐれ、塩の旨味が追いかけてきた。結香子に勧められ、タレでなく塩を選んだが、確かに塩にしてよかった。山椒を少しつけてさらに一口頬張ると、その芳しい香りがさらに肉の旨味を引き立てるようだった。私たちはつくねの塩のお替りと、結香子にレモン酎ハイ、それにせせり、しんぞう、鶏の唐揚げを追加で注文した。レモン酎ハイがやってくると、結香子はそれをぐびぐびと飲み、
「あのさあ」
と言って、スライストマトを一口齧った。結香子がトマトを飲み込むまでの数秒間、沈黙が流れた。
「私辞めるつもりやねん」
「えっ、そうなん」
驚きで声が上擦った。急な話だった。結香子もいつまでもこの会社にはいないだろうとは思っていたものの、それは「いつかは」のことだと思っていた。いつ辞めるのか、転職するのか、フリーターに戻るのか、他の社員には言ってあるのか。聞きたいことは山ほどあったけれど、私の口から出てきたのは「おめでとう、なんかな、これは」という頼りのない言葉だった。
「来年にワーホリ行きたいねん。ていうかもう準備とかほぼ終わってて、実質あと仕事辞めるだけー、みたいな感じなんやけど」
前々から、将来は海外で働きたいという話は聞いていた。その為にはまずワーキングホリデーに行っておかなきゃいけないということ、ワーキングホリデーは三十の年齢の壁があるから焦っているということ、大好きな海外旅行を封印してお金を貯めているということ。真剣に考えているのは分かっていた。でもそれは、何となくもっと先のことだと、勝手に思っていた。
「今年いっぱいはおるつもりやけどな。二ヶ月ちょいあれば引継ぎもいけるやろ」
知らんけど、と苦笑いを浮かべる結香子に、私は不思議な誇らしさを覚えた。
「それは、じゃあ、おめでとうやな」
私がグラスを差し出すと、結香子もありがとうと笑みを浮かべた。私達の間にグラスとジョッキが当たった音が、小さく響いた。
結香子の門出を、こんな風に喜べる自分に少し驚いていた。自分ごとのように、とまではさすがにいかなかったが、形式ばかりでない祝いの言葉が口をついたのは、かなり久しぶりのことだった。嫉みや僻みの気持ちはなかった。奇妙な誇らしさすらあった。あのややこしい上司たちに、円滑に退職の話が通ればいい。あわよくば有給休暇の消化の申請も無事に通ればいい。ただただそう願った。
結香子と別れ、終電に乗り込むと、運良く座席が数カ所空いていた。緑のシートに体を預け、鞄を抱えこみ、人の隙間を塗ってわずかに見える夜のビルの光をぼおっと眺めた。金曜日の終電は人が多かった。帰宅ラッシュ時よりも多いんじゃないだろうかと、時折思うくらいだった。顔を赤らめた人々の声が車内に響いていた。イヤホンを耳に突っ込み、窓の外の景色を眺めたり、スマートフォンのいくつかのアプリを開いたり閉じたり、また開いたりしながら電車に揺られているうちに、私はだんだん心細くなっていった。
結香子の退職の話は今日初めて聞いた。ワーキングホリデーに行きたい、と言っていた。もう準備は完了している、と言っていた。ワーキングホリデーの準備というと、一ヵ月や二ヵ月でできるようなものではないはずだ。私が転職活動を始めるずっと前から、準備していたのだろう。私は何も知らなかった。結香子からご飯に誘われる唯一の存在であることに多少なりとも特別感を覚えていたが、実際は、私も結香子が持つ不思議と惹かれる雰囲気にあてられた一人に過ぎなかったのかもしれないと思った。入口近くを占領している中年の男女の笑い声が一際大きく響いた。私はイヤホンの音量を三つ上げたが、それでも賑やかな人々の声が覆い被さってきた。
結香子は宣言通り二ヵ月きっちりで退職した。マニュアルや手順書といった後継用の資料や誰に何をいつ教えるのかといった引継ぎの計画書はすでに作られていたようだった。その資料の出来の良さを前にして、部長も、あるいは直属の上司である宮治さんも引き留めることができなかったのだろう。有給休暇も残っている全日数分を消化するまではいかなかったものの、八割は消化の承認が下りたようだった。
最終出勤日の定時を過ぎた頃、結香子はたくさんの社員に囲まれて、別れを惜しまれていた。知らぬ間に社員が去って行って、いつの間にか新しい人がやってくるこの会社には、珍しいことだった。私はその輪には入らず、一週間後に予定されていた宮治さんとの新規顧客の訪問に合わせ、提案書を作っていた。十九時を少し過ぎた頃、結香子が私の席までやってきた。
「そろそろ帰るわ」
「うん、お疲れ、いろいろと、ほんまに」
「ありがとう。これ」
結香子は緑地に小花柄がプリントされた小さな紙袋を私の机の上に置いた。
「いろいろお世話になったから」
「え、ありがとう。ちょっと待ってな、私からも」
私は鞄から黄色い紙袋を出し、結香子に渡した。
「大したもんじゃないけど」
「ありがとう。めっちゃ使うわ」
「ほんまにいろいろありがとうな」
「いや、こちらこそやわ」
私たちは少しの間、お互いにもらった紙袋の表面を眺めた。
「じゃ、お先に失礼するわ」
結香子はいたずらっぽく笑ってそう言った。私はそれに応えるように笑って、「お疲れさま。ほんまに」と返した。何の未練もなく颯爽と去っていく結香子の後ろ姿が、寂しく、羨ましかった。今後、結香子と会うことも、連絡をとることもないだろう。私は結香子のプライベートの連絡先を知らないままだった。
翌朝、机の上にはいつもより多めにお菓子の箱たちが積まれていた。誰からのものかはすぐに分かったが、それらをサイドデスクに乱雑に突っ込んで、届いたばかりの郵便物の仕分けに取り掛かった。朝の面倒なあれこれを片づけ、給湯室でポットのお湯を補充していると、視界の隅に宮治さんが姿を現した。宮治さんはこちらには声をかけず、出入口の壁に体をもたれて立っていた。私が無視して給湯室のシンクを洗っていると、宮治さんの方から口を開いた。
「辞めちゃったね、芹沢結香子」
「そうですね」
「まあこんな会社、僕みたいに長いこといてんと、はよ辞めた方がいいね」
「そうですね」
「そういや君、芹沢結香子と仲良かったやんな」
「別に、良くはないですよ。普通に、しゃべりはしましたけど」
それは自分でもはっとするほど強い口調だった。
「あ、そうなん」
宮治さんは一瞬、何か言いたげな顔をしたが、「惜しいことしたね、ええ子やったのに」と言い残して給湯室を後にした。自分の子供染みた言動の名残だけがその場に残った。




