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本作はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。
「いつまで黙ってるつもりやねん」
だらりとうなだれた頭は、ピクリとも動かない。焦りが声に出ているのが自分でも分かった。
弱々しい、それが最初の印象だった。踵が斜めに擦り減ったサンダルを、ズルズルと引きずりながら歩いてきた女は、とても十人近くの男たちを刺して回ったとは思えなかった。その十人の中には、年寄りだけではなく、健康な成人男性も含まれていたというから信じられない話だった。着用しているグレーのスウェットは、上下ともダボダボだったが、それでも体の線が細いことは分かった。記録によれば、この女の身長は一七〇センチ近くはあるらしかった。だが、酷い猫背も手伝って、せいぜい一六〇センチ前半にしか見えなかった。さらには、かなりの近眼なようで、眼鏡の奥に見える瞳はレンズの厚みのせいで歪んで縮こまっていて見えた。自分はラグビー経験者であるから余計にかもしれないが、ちょっと小突けば、よたよたと転びそうに見えた。犯行時は凶器のナイフに加え、催涙スプレーなんかも持っていたようだが、多少の怪我覚悟で背中からタックルでもすれば、すぐに倒れてしまいそうにみえた。もちろん、被害者やその場にいた乗客を非難する気は毛頭ないが。
簡単に崩れてくれそうだ、そう思ってからどれほどの時間が過ぎたことだろうか。この女は、ずっと黙秘を続けていた。
二七歳。関西の公立大学を卒業しているが、就職はうまくいかなかったようだ。新卒で勤めていた飲食店を半年足らずで辞め、約一年間、空白期間がある。その後今勤めているIT会社に就職したようだが、そこもお気に召さなかったらしい。半年程前には転職活動をしていたと報告にあったが、それから事件発生までの二、三ヵ月の間は特にこれといった転職活動の形跡は見られなかった。この経歴の人間を拾ってくれる会社で、この女が満足できるようなところはなかったようだ。嫌になってやめたのだろう。
意志とか精神とかいったものが弱いのだろう。ここぞという時に踏ん張れない、一度打たれたらもう立ち上がれない。ゲームのリセットボタンが、現実世界にも存在していると思っている。そういう類の人間だ。自慢ではないが、仕事柄、幾多の人間と対話を重ねてきたからこそ分かることだ。そうだ、何も焦ることはない。
捜査によれば、この女は両親も健在だという。ご両親が泣くぞ、とありきたりな言葉をかけるつもりはないが、親の気持ちを考えずにはいられなかった。自分にも今年で大学四回生になる娘がいた。このところは就職活動だなんだと忙しくしているようだが、月に一度は必ず家族全員で外食に出かけるようにしていた。月一の食事会と年一の旅行は娘が生まれてすぐに決めたことだった。仕事柄、毎日一緒にいてやることはできそうになかったが、せめてできることを、と思い自分に課したことだった。先月の食事会では地元で就職先を探していて、まだ実家を出るつもりがないと、まだ幼さが残る顔で笑いながら話していた。「はよ独り立ちせえよ」と冗談で返したが、娘が同居の祖父母の介護を気遣っていることは分かっていた。本当にいい子に育ってくれた、と思った。そんな愛情を込めて育てた娘が、人を殺すなんてことが万が一にでもあれば。ましてこんな身勝手な事件を起こされた日には。腹立たしい。情けない。申し訳が立たない。どんな言葉でも言い表すことはできないだろう。
数時間ぶりの煙草にありつこうと外に出ると、冷たい風が強く吹き付けた。自分がまだ若手と呼ばれていた頃と比べると、喫煙者への待遇はかなり厳しいものになった。敷地内全面禁煙を掲げられ、最後の砦だった二階の小さな屋内喫煙所も、今は薄茶けた「使用禁止」の紙が貼りつけられていた。そもそも昨今の若い者で煙草を吸っている者自体あまり見かけなくなったように思う。吸っていてもたいていが電子タバコで、奇妙な臭いを発していることが多かった。時代の流れと一言で片づけてしまえばそれまでだが、どこか寂しさを感じずにはいられなかった。胸ポケットからしわくちゃになった赤いラークの箱を取り出すと、風は一層鋭く吹き付けた。カチカチと何度かライターを鳴らし、やっと点いた小さな火に、すがるように煙草の先を押し付けた。白い煙が風に流されて消えていく。煙草の煙を肺深くに吸い込むと、先ほどまで頭の中を覆っていたモヤモヤとした何かが一掃されるようだった。
二口ほど煙草を吸ったところで、「お疲れ様です」と声を掛けられた。声のした方向に顔を向けると、二回り下の後輩である佐々木が立っていた。「おう」と軽く手を挙げて佐々木の挨拶に応えると、五分刈りの頭が遠慮がちに傾いた。
若手の中では珍しく、佐々木は紙の煙草をよく吸っていた。佐々木は今年度の四月から俺の所属に配置されたばかりだ。仕事ぶりは申し分ないと言ってもいいだろう。早合点になりがちで、時々詰めが甘いところはあるが、概ね素直で物分かりの良い青年だ。挨拶の声が大きくはきはきしているところが、とりわけ気に入っていた。
「まだまだ寒いですね。去年の今頃はもっと暖かかった気がしますよ」
「そうか。去年も似たようなもんだっただろ」
「そうでしたっけ。なんにせよ早く暖かくなってほしいもんですね」
「そんなこと言って、春は花粉だ、夏は暑いだ、って、どの季節でも満足しないだろ、君は」
佐々木は決まりの悪いような苦笑いをうかべ、ゆっくりと煙を吸っては吐き、吸っては吐いて、
「どうですか」
とだけ言った。何が、と言わなくても、それが何を指しているのかは明白だった。
「まあ、ぼちぼちやな」
「浮かない顔ですね」
「仕事中に浮かれた顔してる方がおかしいやろ」
「まあそうですね」
「俺らのやってる仕事は、どうしたって誰かの不幸の上にあるってことを、忘れたらあかんぞ」
煙草の先を灰皿の淵に押し付け、チリチリと静かに燃えていた火を潰し、銀色の網目の間の穴に落とした。佐々木が生真面目な声ではい、と返事をした。分かっていると思ってて敢えて言うけど、返事だけ良くてもあかんぞ、と念押しすると、佐々木は一呼吸置き、先ほどより少し低い声ではい、と返した。




