EP95
279:伝説の「魔女とゴブリン」
国境を越え、峻烈な岩場が続く「名もなき荒野」へと足を踏み入れてから三日が経過した。
背後にそびえる王国の山脈はもはや霞んで見えなくなり、視界を占めるのは乾いた赤茶土と、風に削られた奇怪な形の奇岩ばかりだ。しかし、この人跡稀な荒野にあって、私たちの「名前」だけは風よりも速く、そしておぞましい形に変貌して駆け抜けていた。
「ねえ、ガブ。これ、本当に私のことだと思う?」
私は、岩の影に打ち捨てられていた一枚の羊皮紙を拾い上げ、顔を引き攣らせた。それは王国の追手がばら撒いた「手配書」の残骸のようだったが、そこに描かれた似顔絵はもはや人間ですらない。
「ええっと……『絶望を振り撒く黒曜の魔女。その瞳は魔界の炎を宿し、一瞥で屈強な騎士を灰に変える。常に付き従うは、ミスリルを喰らい巨大化した伝説の緑鬼。一振りで城壁を砕く鋼の盾を操る』。ガブ、あなた、いつの間にオーガになったの?」
ガブは私の横から覗き込み、ゲラゲラと腹を抱えて笑い転げた。
「ひっ、ひひっ!『一振りで城壁を砕く』か!この鍋のふたで?そいつは傑作だ!リゼ、お前もたいしたもんだ。『一瞥で灰に変える』なんて、アカデミーの学長だってできやしない」
笑い事ではない。手配書の似顔絵に描かれた私は、髪を蛇のように逆立て、牙を剥き出しにした化け物のような老婆として描かれている。かつて鏡の前で淑やかな微笑みの練習をさせられていた日々を思うと、眩暈がしそうだった。
だがこのデタラメな「伝説」は、私たちの預かり知らぬところで急速に真実味を帯び始めていた。
荒野で細々と商売を営む商人たちの噂によれば、私たちは「滅亡した領主一族の怨念が生んだ復讐鬼」であり、従えるゴブリンは「失われた古代魔法の実験体」なのだという。事実は、ただの落ちこぼれ魔女と、生存本能の塊のような一匹のゴブリンが、自由を求めて必死に逃げ出しただけだというのに。
「悪名は、勝手に膨らんでいくもんだ。特にこの荒野みたいに娯楽がない場所じゃ、旅人のホラ話が一番の酒の肴になるからな」
ガブは岩場に座り込み、ミスリルの鍋のふたを布で磨きながら言った。
「でも、これじゃあ『楽園』に着く前に、賞金稼ぎや正義感の強い騎士たちが押し寄せてくるんじゃないかしら」
私が不安げに呟くと、ガブはふんと鼻を鳴らした。
「逆だリゼ。これだけ『化け物』扱いされてたら、並の腰抜けは近づいてこない。むしろ、この悪名こそがオレたちを守る最大の障壁になる。お前もだんだん魔女らしい貫禄が出てきたし。その煤けた顔、なかなかもんだ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
私は鉄の杖を握りしめ、ため息をついた。
かつての私は、他人の評価こそが自分の価値だと信じ込まされていた。父に認められず、教師に貶められるたびに、自分の存在が消えていくような恐怖を感じていた。
けれど今、この荒唐無稽な「伝説」を耳にしても、腹が立つより先に可笑しさが込み上げてくるのは、私が本当の意味で「自分」を取り戻し始めているからなのだろうか。
私は虚像の魔女。そして彼は、架空の怪物。
私たちは、世間が勝手に作り上げた「魔女とゴブリン」という不気味な着ぐるみを着て、誰もいない荒野を堂々と歩いていく。
太陽が天頂で燃え盛り、私たちの影を短く足元に縫い付けていた。
280:本人たちは焚き火で芋を焼いている
伝説の魔女と怪物は、今、絶体絶命の危機に瀕していた。
というのはもちろん冗談で、実際のところ、私たちは猛烈な「空腹」と戦っていた。
「ガブ、まだ?もういいんじゃないかしら」
私は焚き火の傍らで、じっと灰の中に埋められた「塊」を見つめていた。
「早まるな。芋を焼くのは魔術より繊細な作業なんだ。表面だけ焦げて中が芯残りだったら、それこそ地獄だ」
ガブは火の粉を散らさないよう、木の枝で慎重に灰の温度を調整している。
周囲の岩場は、夜の帳が下りると同時に、凍えるような冷気に包まれていた。かつての館での生活なら、暖かい暖炉と、焼きたてのパンにバターをたっぷり塗った食事が用意されていた時間だ。
しかし、今の私たちの晩餐は、昼間に立ち寄った干からびた村で、ガブが「交渉(という名の脅しに近い値切り)」で手に入れた数個の痩せた芋だけだった。
私は寒さを凌ぐため、焚き火の精霊たちへそっと語りかける。
(赤く踊る火の精霊たちよ。小さな種火から生まれた温かな命よ。どうかこの凍てつく夜の間、私たちのささやかな休息を守っていただけないでしょうか。あなたの温もりを、もう少しだけ、この冷えた岩影に留めておいてはいただけないでしょうか)
私の祈りに応えるように、焚き火の炎がふわりと一際大きく爆ぜ、心地よい熱を周囲に広げた。魔力を持たない今の私にとって、精霊たちとのこうした対話は、生存のための唯一無二の術だった。
「おっ、いい感じだ。リゼ、準備しろ」
ガブが灰の中から、真っ黒に焦げた芋を転がし出した。
私は熱さに悲鳴を上げそうになりながら、ボロ布を介してその芋を受け取る。半分に割ると、中から黄金色の湯気が立ち上り、甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「おいしい。信じられないくらい、甘いわ」
ハフハフと息を吹きかけながら頬張ると、熱い塊が食道を通って、冷え切った体に生命の灯をともしていくのがわかった。
「だろ?王都の高級レストランのフルコースより、荒野の泥付き芋の方が価値があるって、これでわかったか?」
「ええ。でも、バターがあったらもっと最高だったわね」
「欲張りすぎだ、魔女様」
私たちは岩を背に並んで座り、黙々と芋を咀嚼した。
世間では、私たちが騎士の肉を喰らい、血の酒を飲んでいるという恐ろしい噂が広まっている。だが、実際の私たちは、煤で顔を汚し、たった一つの芋を分け合って喜んでいる、ただの腹を空かせた二人組に過ぎない。
ガブは左腕のミスリルの鍋のふたを、今度は食事を置くための盆代わりに使っている。
「伝説の防具が、今や芋置き場ね」
「いいじゃないか。こいつは丈夫なんだ。熱いもんを置いたって平気だ」
ガブは満足げに、鍋のふたの上に乗せた芋の皮を剥いている。
ふと、私は夜空を見上げた。
「楽園」を目指す旅は、決して華やかなものではない。むしろ、こうした泥臭い日常の積み重ねだ。
けれど、誰かに命令されることもなく、自分の意志で芋を焼き、相棒と笑い合うこの時間は、かつてのどんな華やかな晩餐会よりも自由で、満ち足りたものに感じられた。
「ガブ。私、今のほうがずっと幸せよ」
「芋一つで幸せになれるなら、安上がりな魔女だな。ほら、最後の一つだ。お前にやる」
ガブが差し出した、少しだけ大きい方の芋。
私たちは焚き火の火が消えるまで、自分たちの作り上げた「伝説」のことなどすっかり忘れ、ただの旅人として、静かな夜のひとときを共有した。
281:吟遊詩人の歌
数日後。荒野のオアシスにある交易拠点へと辿り着いた私たちは、人混みに紛れて情報を集めることにした。
そこは砂漠エリアへと突入する前の最後の補給地点であり、多種多様な種族が入り混じる混沌とした場所だった。
中央の広場では、派手な羽飾りのついた帽子を被った吟遊詩人が、リュートを掻き鳴らしながら声を張り上げていた。その周囲には、興味津々の様子で旅人や商人が集まっている。
「さあさあ、お立ち会い!今、王国を揺るがしている驚天動地の物語をお聞かせしましょう!闇に堕ちた貴婦人と、地獄から這い出た緑の悪魔!その名も『魔女リゼと、鉄砕のゴブリン』!」
私たちは顔を見合わせ、反射的に身を隠した。
「ガブ。また私たちの話よ」
「おいおい、今度は歌になったのか。印税でも請求したくなるな」
私たちはフードを深く被り、群衆の後ろからその歌に耳を傾けた。
詩人は劇的な身振り手振りで、弦を激しく弾く。
♪~~~
月のない夜紅蓮の炎
麗しき娘は魂を売り
死者の杖を振り回し
領主の首を一撃で跳ねた!
従うは三つの目を持つ異形の影
鋼を噛み砕く猛き牙
ミスリルの山を盾に変え
十の軍勢瞬く間に屠る!
~~~♪
聴衆からは「おおおっ!」という驚嘆の声が上がる。
私はあまりのデタラメっぷりに、めまいがした。
「領主の首を一撃で跳ねた?父様は、火災の時に真っ先に逃げ出したって聞いたけど」
「それより、オレの『三つの目』ってのはどこにあるんだ。鋼を噛み砕く牙?芋を噛むので精一杯だって」
ガブが肩を震わせて、笑いを堪えている。
歌はさらにエスカレートしていった。
♪~~~
彼女が歩けば草は枯れ果て
彼が叫べば大地は割れる
砂漠の果ての禁忌の地
『楽園』を穢しに二人は向かう!
~~~♪
「草は枯れないわよ。むしろ私は、精霊たちにお花が咲くようにお願いすることだってあるのに」
私は不満げに鉄の杖を握りしめた。
「それに、私たちは楽園を穢しに行くんじゃないわ。居場所を探しに行くだけよ」
しかし、目の前の人々は、このドラマチックで血なまぐさい歌を「真実」として受け入れ、恐怖と興奮に瞳を輝かせている。皮肉なことに、詩人の歌が上手ければ上手いほど、私たちの実像から「魔女リゼ」と「ゴブリン」は遠ざかっていく。
詩人が歌い終わり、帽子を差し出すと、観客たちは次々と銅貨や銀貨を投げ入れた。私たちの悪名が、詩人の懐を潤しているのだ。
「なんだか、損をした気分ね」
「気にするな。あいつのおかげで、ますます誰もオレたちに手を出そうとしなくなる。最高の護身術だろ?」
ガブはそう言って私の肩を叩いたが、次の瞬間、詩人が放ったフレーズに、私は再び硬直することになった。
「さて、次の曲は……魔女がゴブリンに恋をした、禁断の悲恋歌『深緑の檻で抱きしめて』です!」
「え?」
私は絶句した。
「ぶははははっ!おいリゼ、悲恋歌だぞ!抱きしめてだって!ひーっ、腹が痛い!」
ガブはついに我慢できず、地面に転がって大笑いし始めた。
私は真っ赤になって、ガブの頭を鉄の杖の柄で軽く小突いた。
「笑いすぎよ、ガブ!あんなの、歌詞がめちゃくちゃじゃない!」
私たちの「伝説」は、もはや制御不能な方向へと突き進んでいた。けれど、その可笑しな歌の旋律は、これから突入する死の砂漠への不安を、束の間だけ忘れさせてくれた。




