EP94
276:荒野を行く
国境を越えた先にあるのは、見渡す限りの赤茶けた大地だった。道と呼べるような平坦な場所はなく、ただ風に削られた鋭い岩場と、乾いた土に根を張る刺だらけの低木が点在している。王国の手厚く保護された森や街道とは、何もかもが違っていた。
「はぁ、はぁ……。本当に、終わりが見えないわね」
私は新調した黒い鉄の杖を支えに、一歩ずつ重い足取りで進んでいた。新しいブーツは確かに頑丈だが、この不規則な岩場を歩くには私の足はまだ軟弱すぎた。一歩踏み出すたびに、足の裏から鋭い痛みが脳天に突き抜ける。それでも、私は弱音を吐いて立ち止まるわけにはいかなかった。
私の前を歩くガブは、時折左腕のミスリルの「鍋のふた」を岩にぶつけ、金属音を響かせながら進んでいる。その音は、この静まり返った荒野において唯一の、私を現実へと繋ぎ止める標識だった。
「おいリゼ。足元に気をつけろ。その岩、見た目より脆いぞ」
ガブが振り返らずに注意を促す。
「わかってるわ。でも、この杖が意外と重くて……」
「その重さは『命の重さ』だと思って我慢しろ。水晶の杖みたいに華奢なもんじゃ、この荒野の風には耐えられないからな」
ガブの言う通りだった。吹き抜ける風は湿り気を一切含まず、肌を刺すような熱気と砂を運んでくる。精霊たちの気配も、王国の肥沃な土地にいた頃の穏やかなものとは異なり、もっと荒々しく、どこか飢えたような響きを帯びていた。
私は立ち止まり、深く呼吸を整えた。そして、鉄の杖の先端をカツンと地面に当てる。
(この乾いた地を統べる、古の熱き精霊たちよ。そして、岩の隙間で眠る静かなる魂たちよ。私たちはあなたたちの静寂を乱す意図はありません。ただ、この過酷な道を行くための、わずかな涼風と確かな足場を、私たちに許していただけないでしょうか)
呪文を唱えるのではなく、あくまでこの地の「主」に対する謙虚な挨拶を心掛ける。魔力なき私の言葉が届くか不安だったが、精霊たちは意外にも寛大だった。私の周囲に、ふわりと微かな冷たい大気の渦が生まれた。それは砂塵を押し戻し、私の痛む足を優しく包み込む。
「ありがとう」
私が呟くと、ガブが驚いたように足を止めた。
「お前、さっきから何してるんだ?」
「精霊たちにご挨拶をしていたの。この荒野に受け入れてもらうために」
「律儀だな。けど少し空気がマシになった気がする」
私たちは再び歩き出した。陽炎が揺れる地平線を見つめながら、私は自分の内に芽生えた確かな変化を感じていた。アカデミーで学んだ、術式で精霊を縛る傲慢な魔法ではない。世界の一部として、精霊たちと共に歩むこと。この荒野を行く過酷な旅路は、私を「貴族の娘」から、一人の真なる「魔女」へと変えようとしていた。
277:追手はもういない
太陽が地平線の向こうに沈み、荒野に急速な闇と冷気が訪れた頃。私たちは大きな岩の影に身を寄せ、小さな焚き火を囲んでいた。夜の荒野は、昼間の熱気が嘘のように冷え込む。しかし、その寒さ以上に私たちの心を占めていたのは、これまで感じたことのない奇妙な「静寂」だった。
「静かね」
私が膝を抱えて呟くと、ガブは焚き火に乾いた枝を放り込みながら、小さく鼻を鳴らした。
「馬の蹄の音も、金属鎧が擦れ合う嫌な音も、これっぽっちもしない。どうやら、ようやく自由になれたらしい」
ガブは岩の影から、私たちが歩いてきた東の方角を見やった。そこにはかつて私たちを縛り、追い回していた王国の山脈が、黒い巨影となって夜空を切り裂いている。しかし、その影からこちらへ向かってくる松明の光も、魔力探知の残滓も、今や何一つ存在しなかった。
「本当に、追手はもういないのね」
私は確信を得るために、改めて周囲の精霊たちの声に耳を澄ませた。
(夜の影を司る精霊たち、そして遠くの音を運ぶ風の眷属よ。私たちの背後に、鋼の刃を持つ者や、殺気を帯びた意志が近づいてはいませんか?)
返ってきたのは、穏やかな風の囁きだけだった。
『誰もいない。ただ、夜が深まっていくだけだ……』
精霊たちの声は透明で、嘘を吐かない。
私はふぅ、と長い溜息を吐き、背中を岩に預けた。これまでの日々は、常に背後に死神の気配を感じるような、緊迫した連続だった。眠っていても、わずかな物音で跳ね起き、杖を構えるのが当たり前になっていた。だが今この瞬間、私の全身からじわりと力が抜けていく。
「リゼ、お前、顔色が随分マシになった。今までは、いつ倒れてもおかしくない幽霊みたいな面してたからな」
「失礼ね。あなただって、さっきから左耳をピクピクさせて、後ろを気にする癖が治っていないじゃない」
私が指摘すると、ガブはバツが悪そうに耳を押さえた。
「これは職業病だ。ゴブリンの習性は、そう簡単には抜けないんだよ」
私たちは、焚き火の爆ぜる音を聞きながら、しばらく黙って夜空を見上げた。王都で見上げる星空とも、故郷の館の窓から見ていた星空とも違う。遮るもののない荒野の星々は、まるで今にも降り注いでくるかのような迫力で、私たちの頭上に輝いていた。
「追手がいないってのは、いいもんだな。でもこれからは自分で自分のケツを拭かないとな。誰かが敷いたレールの端を歩いてたお嬢様には、ここからの『本当の自由』は、ちょっとばかり荷が重いかもしれないぞ」
「わかってるわ。自由っていうのは、頼れるものが自分たちしかいないっていう、冷酷な言葉でもあるのでしょう?」
私は黒い杖のひんやりとした感触を確かめた。
「でも、怖くはないわ。だって隣にはあなたがいて、私の声に応えてくれる精霊たちがいるもの。むしろ、ようやく『自分の人生』が始まった気がする」
私の言葉に、ガブはフンと笑い、鍋のふたを枕代わりにして横になった。
「ならいい。しっかり休め。明日はさらに過酷になる。自由を謳歌するにも、まずは生き延びる体力がないと始まらないからな」
焚き火の光に照らされた彼の横顔は、不器用だが確かな信頼を感じさせた。私たちは今、本当の意味で自由になった。誰に追われることもなく、ただ自分たちが決めた「楽園」を目指して歩む権利を手に入れたのだ。
278:二人の悪名と名声
翌朝、荒野の端にある小さな「中継所」に辿り着いた。そこは、国境を越えた商人や冒険者が一時的に立ち寄る、岩壁をくり抜いたような簡素な宿場だ。私たちは素性を隠すためにボロ布を深く被り、隅っこの席で乾いたパンと水を注文した。
離れた席から聞こえてきた会話に、私はパンを噛む手を止めた。
「聞いたか?隣の王国の領主館が、一晩で焼け落ちたらしいぞ」
「ああ、それなら俺も聞いた。なんでも、地方領主の娘が恐ろしい闇魔法に手を染めて、一族を皆殺しにした挙げ句、一匹の凶悪な人喰いゴブリンを従えて国境を越えたって話だ」
私は思わずパンを喉に詰まらせ、激しくむせた。ガブはガブで、水筒の水を噴き出しそうになっている。
「ゲホッ、ゲホッ!闇魔法?皆殺し?」
私が小声で呟くと、隣の席の話はさらにエスカレートしていった。
「それだけじゃないぜ。その『魔女リゼ』は、自分の杖の一振りで重武装の騎士団をなぎ倒し、ゴブリンはミスリルを喰らって巨大化した怪物で、魔法の大剣をも素手で叩き折るらしい」
「恐ろしいな。その魔女とゴブリンが、今この荒野のどこかに潜んでいるっていうのか……。懸賞金も跳ね上がってるらしいが、ありゃ人間が相手にできる化け物じゃないな」
ガブが私の袖を引っ張り、小さな声でささやいた。
「おい、リゼ。聞いたか?オレ、いつの間にかミスリル喰って巨大化したことになってるぞ。あと、お前は一族皆殺しの稀代の悪女だそうだ」
「冗談じゃないわ。父様も親戚も、今頃は豪華な食事をしながら私の悪口を言っているはずよ。皆殺しになんてしていないわ。それに、闇魔法なんて使えないし……!」
驚いたのは、その噂の広まりの速さと、「悪名」としての名声の凄まじさだった。私たちはただ生き延びるために必死で戦っただけだ。領主館の火災も、騎士団との衝突も、すべては正当防衛の結果だったはずなのに。世間の噂というものは、事実の欠片に尾ひれをつけ、勝手に巨大な怪物を作り上げてしまうらしい。
「でも、おかげで良いこともある」
ガブが口角を歪めてニヤリと笑った。
「悪名が響き渡れば、並の野盗や魔物は近づいてこない。オレたちの名前を聞いただけで、腰を抜かして逃げ出してくれるなら、戦わずに済む」
「確かにそうかもしれないけど。でもなんだか複雑だわ。私たちが伝説の『魔女とゴブリン』だなんて」
周囲の客たちは、隅っこでボロ布を被って震えている(実際はむせていただけだが)貧相な二人組が、その「化け物」の正体だとは露とも思っていないようだった。
「二人の悪名と名声、か。いいんじゃない?どうせ私たちは、元の世界には戻れない異端児なんだもの。悪党の看板を掲げて歩くのも、自由の代償としては安いものよ」
私は鉄の杖を握り直した。噂の中の「恐ろしい魔女」は、杖を一振りで軍隊を滅ぼす。ならば私は、その虚像すらも利用して、この荒野を生き抜いてやろう。
「そうこなくっちゃ。さあ、行こう『魔女様』。芋を焼くための薪を探しにな」
ガブの皮肉めいた言葉に、私は苦笑しながら立ち上がった。伝説の二人組の正体は、腹を空かせ、足の豆の痛みに耐えながら、次の休息地で食べる焼き芋のことばかり考えている、ただの旅人。そのギャップが可笑しくて、私は荒野の風の中で、小さく声を上げて笑った。




