EP93
273:旅の目的の再確認
境界の集落を抜け、私たちは西へと続く緩やかな上り坂を歩いていた。新しく手に入れた黒い鉄の杖が、一歩ごとにコツコツと硬い土を叩く。かつて持っていた繊細な水晶の杖とは違い、この杖には「質量」という確かな安心感があった。ガブの左腕には、薄汚れているがどこか神秘的な輝きを秘めたミスリルの「鍋のふた」が、特注の厚手の革紐でしっかりと固定されている。そのふたが、彼の歩調に合わせてカチャリ、カチャリと小気味よい音を立てていた。
「ねえ、ガブ。少し話をしてもいい?」
私は、前を行く小さな背中に呼びかけた。
「なんだ、急にしおらしくなって。また足が痛いとか、お腹が空いたとかいう泣き言か?」
ガブが振り返らずに、茶化すような声を出す。その口調はいつも通り乱暴だが、歩幅をわずかに緩めて私に合わせているのを知っている。
「違うわよ。ただ少し考えていたの。私たちがどうして、あの『楽園』を目指しているのかってことを。改めて、ね」
私は杖を握り直し、足元の小石を避けて歩みを進める。思えば、この旅の始まりはあまりに唐突で、そして切実な逃走劇だった。厳格な作法と、実戦とは程遠い限定的な魔術教育を押し付けられていた日々。父にとって私は、領地を拡大するための駒か、有力な貴族への嫁ぎ先を探すための道具でしかなかった。アカデミーに送られたのも、その「価値」を高めるため。けれど、私はそこで「落ちこぼれ」の烙印を押された。
そんな窮屈な世界、色彩を失ったような毎日から私を連れ出してくれたのが、ガブだった。
「最初は、ただここじゃないどこかへ行きたかっただけ。父の目も、アカデミーの教師たちの嘲笑も届かない場所なら、どこでもよかった。でも……」
私は言葉を切り、頭上に広がる空を見上げた。館を焼き、騎士団を退け、国境の村でガラクタ同然の「武器」を手にした今。私の心にあるのは、かつての逃避願望とは別の、もっと熱く、重みのある感情だった。
「あの領主の館での戦いで、私、気づいたの。私はもう、誰かに守られたり、誰かの言いなりになって歩く『お嬢様』には戻りたくない。魔法が以前のように使えなくても、精霊たちの力を借り、あなたの背中を支えながら、自分の足で荒野を歩く今のほうが、ずっと誇らしいのよ」
ガブはしばらく黙っていたが、ようやく鼻を鳴らして足を止めた。彼は道の脇にある大きな岩に腰を下ろし、左腕の鍋のふたをそっと撫でた。
「今更だな。オレだって同じだ。ゴブリンとして群れの中で序列を争い、強い奴に媚び、汚ない洞窟で一生を終える…そんなのが『運命』だって言われるのが我慢ならなかった」
ガブの瞳が、沈みゆく太陽の光を反射して鋭く光る。
「お前という奇特な魔女に出会って、この世界の広さを知った。オレたちが目指す『楽園』が、どんな場所なのかは正直わからない。だけどそこに行けば、人間だの魔物だの、落ちこぼれだのって枠組みが、全部無意味になるって信じてる。伝説の地が本当にあるかどうか、この目で確かめるまでは、死んでも死にきれない」
目的地を再確認する。それは単なる場所の特定ではない。私たちが、互いの魂を対等に預け合う唯一無二のパートナーとして生きていくための「宣誓」だった。
(ああ、移ろいゆく風の精霊たち。私たちのこの不器用な決意を、どうか行く先々へと運んでください。時に迷い、時に立ち止まることがあっても、あなたの囁きで、私たちが選んだこの道こそが正しいのだと教えていただけませんか)
私は心の中で、空を舞う目に見えない隣人たちへ、精一杯の敬意と親愛を込めて語りかけた。魔力という強引な力ではない、純粋な祈り。すると、返事をするかのように微かなそよ風が吹き抜け、私の煤けた髪を優しく撫でた。その涼やかさが、私の心に新たな決意の炎を灯してくれた。
「さあ、行きましょう。私たちが望む自由は、あの山の向こうにあるはずだわ」
「おう。今度はオレが道を切り拓いてやる。お前のその重たい杖は、オレの背中を押すために使え」
ガブは立ち上がり、誇らしげにふたを掲げた。私たちの歩みは、以前よりもずっと力強く、迷いのないものになっていた。
274:「楽園」は近い
さらに歩みを進め、坂を登り切った瞬間、視界が劇的に開けた。そこには、これまで私たちが歩んできた「文明」の影を完全に振り払うような、圧倒的な大自然のパノラマが広がっていた。起伏の激しい岩場が幾重にも重なり、その先には赤茶けた荒野が水平線の彼方まで続いている。空の色さえも、心なしか深く、鮮やかになっているように感じられた。
「おい、見ろリゼ!あそこだ。あの巨大な山脈の切れ目……」
ガブが指差した先には、雲を突き破るような険しい山々が連なっていた。その中腹、まるで神が巨大な剣で一閃したかのように、深いV字型の渓谷が口を開けている。
「あそこを越えれば、この国の法も、領主の権力も、何一つ届かない『外の世界』だ。そしてその先には……」
「楽園への道が続いているのね」
私は息を呑み、その光景を瞳に焼き付けた。アカデミーの図書室で、色褪せた古文書の隅に見つけた「黄金の門」の記述。地方の古びた館で、窓の外を見つめながら空想に耽っていた「どこにもない場所」。それが今や陽炎の向こう側に、確かな実在感を伴って姿を現そうとしている。
「なんだか夢を見ているみたい。」
「夢じゃない。お前の足の裏の豆が潰れて痛いのは、現実だって証拠だろ?」
ガブがニヤニヤしながら私の足元を指差す。確かに、新調したブーツはまだ馴染んでおらず、歩くたびにじんわりとした痛みが走る。けれどその痛みさえも、自分が生きている実感を補強してくれる愛おしいものに感じられた。
「『楽園』は近い。って言いたいところだけど」
ガブの表情が、ふと真剣なものに変わった。彼は左腕のミスリルのふたの位置を調整し、周囲の岩陰に鋭い視線を送った。
「ここからは、これまでの森や街道とはわけが違う。腹を空かせた野生の化け物や、国境付近をうろつく野盗共……。館の騎士たちみたいに、名乗りを上げてから斬りかかってくるような礼儀正しい奴らはいないぞ」
ガブの言葉を裏付けるように、風に乗って奇妙な鳴き声が聞こえてきた。それは獣の遠吠えというよりは、金属が擦れ合うような、あるいは神経を逆撫でするような低い唸り声だった。私は黒い鉄の杖をしっかりと構え、周囲の精霊たちの気配に意識を集中させた。
(熱を帯びた大地の精霊たち。岩の隙間に潜む、静かなる守護者たちよ。もしよろしければ、私たちの行く先に潜む『悪意』の気配を、影の揺らぎで教えていただけませんか。私たちはただ、山脈を越えたいだけなのです)
私は精霊たちへ、まるで古い友人に相談するように語りかけた。魔導士がマナを消費して放つ「探知の法」とは違い、これは世界そのものに調和をお願いする行為だ。すると、足元の岩影から微かな闇が伸び、特定の方向――北側の岩場の陰を指し示した。そこには獲物を待ち構える何かが潜んでいる。
「ガブ、左斜め前の岩陰。何かがいるわ。殺気というより、純粋な飢えを感じる」
「お前のその『お願い魔法』、随分と精度が上がってきてるな」
ガブは腰を落とし、鍋のふたを顔の高さまで持ち上げた。
「いいぞ。まずはあの国境の砦を拝む前に、新装備の試し斬り……いや、試し叩きだ。リゼ、離れるなよ。お前のその杖、いざとなったら棍棒としてぶん回せ!」
「言われなくてもわかってるわよ」
私たちは背中を預け合い、陽炎が揺れる荒野の入り口へと一歩を踏み出した。楽園は近い。けれど、その門を潜る資格を得るためには、この過酷な試練の連続を乗り越えなければならない。
275:国境を越えて
渓谷へと続く道は、鋭い岩が突き出した険しい獣道だった。標高が上がるにつれて気温は下がり、乾燥した冷たい風が私たちの体温を奪おうと容赦なく吹き付けてくる。背後には、私を「駒」として扱った実家と、私を罪人と見なした王国が、夕闇の中に沈んでいくのが見えた。
「あそこだ。あの石柱が見えるか?」
ガブが、山肌に突き出した巨大な二本の自然石を指差した。それは何百年もの間、風雨に晒されて摩耗した「国境の石柱」だった。かつての大戦の際に、英雄たちが精霊の加護を受けて立てたとされる、不可侵の境界線。
その石柱の間を通り抜けるということは、正式に王国の庇護(あるいは監視)から外れることを意味する。国境警備兵たちが駐屯する古い砦は、ここから少し離れた街道沿いにあったが、ガブが事前に聞き出していた通り、この険しい獣道まで巡回の手が伸びることは稀だ。
「ここを越えたら、もうリゼ、お前は何でもない。ただの家なし、身分なし、職なしの『流れ者の魔女』だ。後悔してないな?」
石柱の数メートル手前で、ガブが立ち止まり、私の目を覗き込んだ。彼の言葉は残酷な現実を突きつけていたが、その瞳には「お前なら大丈夫だ」という確信が宿っていた。
「後悔?そんな贅沢な感情、とうの昔に地下牢に捨ててきたわ」
私は一歩前に出た。
「家柄も身分も、私を縛る鎖でしかなかった。それがなくなるなんて、むしろ清々するわ。これからは、私の価値は私の杖と、あなたの盾で決まるんでしょう?望むところよ」
私は石柱の前に立ち、最後にもう一度だけ東の空を振り返った。そこには、私が生まれてから十八年間過ごした世界のすべてがあった。古びた館の図書室の匂い、父の厳しい叱咤、鏡に映る無機質な自分の顔。
「さようなら。愛してくれなかった私の過去」
私は短く呟くと、迷いを断ち切るように石柱の間を力強くまたいだ。
その瞬間、全身を突き抜けるような、不思議な感覚に襲われた。パチン、と。目に見えない薄い膜を突き破ったような音が耳の奥で響く。国境を越えたのだ。吹き付けてくる風の感触が、劇的に変わった。これまでの国の風が、重苦しく歴史を孕んでいたとするなら、この「外」の風は荒々しく、剥き出しの生命力を運んでいた。
「変わった。空気がまるで違うわ」
「だろ?ここから先は、誰の許可もいらない。どこへ行こうが、何をしようが自由だ。その代わり、死んでも誰も助けてはくれないけどな」
ガブも石柱を飛び越え、私の横に並んだ。
眼下には、見渡す限りの大荒野が広がっていた。道などどこにもない。ただ、太古から続く岩と砂と、わずかな野草が織りなす褐色の海だ。私たちは顔を見合わせ、言葉少なに頷き合った。もう後戻りはできない。追手も、過去も、偽りの名誉も、すべてはあの石柱の向こう側に置いてきた。
(見知らぬ大地の、荒々しき精霊たちよ。初めてこの地に足を踏み入れた私たちを、どうか無謀な侵入者としてではなく、自由を求める旅人として迎えてはいただけないでしょうか。私たちは、あなたたちの支配するこの広大な庭を、敬意を持って通り過ぎることを誓います)
私は新調した黒い杖を地面に突き、まだ見ぬ異国の精霊たちへ丁寧な挨拶を捧げた。精霊たちは、すぐには返事をしなかった。ただ、遠くで砂嵐が巻き起こり、大地がかすかに震えたような気がした。それは拒絶ではなく、この過酷な地に挑む者への「洗礼」のようにも思えた。
「行くぞリゼ。楽園はまだ遠い。けど、道は確かに繋がってる」
「ええ、ガブ。行きましょう。私たちの、本当の物語を始めるために」
夜明けの光が、境界を越えた二人の影を長く荒野へと映し出した。不格好な杖を持つ魔女と、鍋のふたを掲げるゴブリン。その奇妙な二人組の伝説は、この国境を越えた瞬間から、人知れず幕を開けたのである。




