EP92
270:新たな装備調達
夜明けの光が、境界の森を白く染め上げていく。私たちは領主の館の追跡を振り切るため、街道を大きく外れ、湿った獣道を数時間歩き続けていた。辿り着いたのは、地図にも載っていないような小さな集落だ。切り立った崖の麓にへばりつくように建つその村は、国境を越えようとする密輸業者や、訳ありの旅人が身を潜める「吹き溜まり」だった。
「リゼ、あそこのボロ屋だ。あそこに潜り込むぞ」
ガブが迷いのない足取りで、村の端にある一際薄汚れた建物を指差した。屋根は半分腐りかけ、看板すら出ていないその店に、私は首を傾げた。
「ガブ、どうしてこんな場所を知っているの?あなた、ずっと地下牢にいたはずでしょう?」
「牢屋の中は退屈でな。暇を持て余した看守どもが、酒を持ち込んでは自慢話をしてたんだ。ここの村のガラクタ屋には、盗品や横流し品が安く並ぶってな。騎士団の備品をくすねて小遣い稼ぎをしてる奴らの『御用達』だ。奴らの話に出てきた『崖下の三本足の椅子が置いてある店』って特徴に、あそこはピッタリだろ」
拷問と空腹に耐えながら、彼は脱出後のことを見据えて情報の欠片を拾い集めていたのだ。その執念と逞しさに、私は改めて驚かされた。
「納得したわ。でも、私たちは一銭も持っていないけれど、どうするつもり?」
私が尋ねると、ガブはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、腰のボロ布の隙間から、ジャラリと重みのある革袋を取り出した。
「倉庫で暴れてた時、転がってた騎士の腰から拝借したんだ。他にも、あの傲慢な騎士団長が持ってた金細工の嗅ぎ煙草入れとか、いくつか『拾った』」
さすがはゴブリンの生存本能だ。
「泥棒は褒められたことじゃないけれど……今回ばかりは、あなたのその『手癖』に救われたわね」
「戦利品って言えよ。さあ行くぞ。まずはそのボロボロの杖をどうにかしないとな」
私たちは人目を避けるようにボロ布を深く被り、店へと足を踏み入れた。店内はカビと錆の臭いが立ち込め、天井からは出所不明の鎖や壊れた防具が吊り下げられている。カウンターの奥から、片目を眼帯で覆ったドワーフ崩れの老人が顔を出した。
「何か入り用かい?」
「ああ。丈夫な杖と、こいつが使える防具だ。できれば、足がつかないやつを」
ガブが金貨を一枚、カウンターに放り出す。老人はそれを素早く噛んで確かめると、顎で店の奥を指し示した。
私はまず、自分の杖を探した。魔導士が使うような装飾過多な杖もいくつかあったが、今の私が求めているのはそんな「贅沢品」ではない。私の目に留まったのは、棚の隅に無造作に置かれた、一見ただの鉄の棒に見える古びた黒い杖だった。
(この中に眠る、寡黙な鉄の精霊たち。そして、かつてこの杖を支えた使い手の記憶よ。もし許されるなら、再びこの世の風を感じてはいただけないでしょうか)
私がそっと語りかけるように触れると、杖の芯から微かな、けれど力強い振動が伝わってきた。それは、マナを流し込むための繊細な回路を持ちながらも、物理的な衝撃にも耐えうる実戦的な代物だった。
「これにするわ。今の私には、これくらいの頑丈さが必要みたい」
私はその黒い杖を握りしめた。次は、ガブの番だ。
271:もっと良い盾を
ガブは店中の防具をひっくり返さんばかりの勢いで物色していた。彼は体格が小さいため、人間用の鎧や盾はどれも重すぎてバランスが悪い。かといって、間に合わせの革製の盾では、先日のような精鋭騎士の重い一撃をまともに防ぐことなど到底できない。
「どれもこれもなまくらだ。重いだけで中身が詰まってない」
ガブが不機嫌そうに小さな丸盾を放り投げる。彼が求めているのは、機動力を殺さず、かつ相手の強力な物理攻撃や魔法攻撃を「受け流せる」特殊な盾だった。自分の命を守るためだけではない。彼は、私が魔法の「お願い」をするための時間を稼ぐ『盾』としての役割を自覚していたのだ。
「これなんかどう?鉄木で補強された盾よ。あなたのサイズにも合うと思うけど」
私が差し出した盾を、ガブは一度手に取って重さを確かめたが、すぐに首を振った。
「悪くないけど、強度が足りない。あの大剣の一撃を至近距離で受けたら、腕ごとひん曲がる。リゼ、オレは『守られる』のはもう御免だが、お前を守るための『盾』は、妥協したくないんだ」
その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。彼は自分の身を案じているのではない。私が安全に魔法に集中できるよう、より完璧な壁になろうとしてくれているのだ。
私はもう一度、店の隅々に意識を集中した。魔力がない今、私の「目」となるのは精霊たちのささやきだ。彼らはキラキラした高価な宝石よりも、時として忘れ去られた古い金属の塊に集まることがある。
(輝きを失った金属の精霊たちよ。重なり合ったガラクタの中で、静かに牙を研いでいる『意志』があるなら、その居場所を教えて下さい……)
すると、店の一番奥、埃を被った台所用品の山の中から、キィィィン……という微かな、耳鳴りのような高い金属音が響いた。私は迷わずその山へ向かい、積み重なった古びた大釜や歪んだ鍋をかき分けていった。
「おいおい、リゼ。晩飯の支度にはまだ早いぞ?」
ガブが茶化すが、私は構わずに手を伸ばす。そしてその山の最下層、他の鉄クズに押し潰されるようにして眠っていた一つの「円盤」を引き抜いた。
それは、直径三十センチメートルほどの、灰色に薄汚れた金属板だった。表面には無数の傷があり、取っ手のようなものが裏側についている。どう見ても、使い古された「鍋のふた」にしか見えなかった。
「鍋のふた?リゼ、冗談だろ」
ガブが呆れたように笑う。だが、私はその「ふた」をしっかりと握り、彼に差し出した。
「いいえ。触ってみて、ガブ。これ、ただの鉄じゃないわ。精霊たちが、この中でとても静かに、深く息づいているの。まるで、何かが目覚めるのを待っているみたいに」
272:ミスリルの鍋のふた?
ガブは半信半疑のまま、私が差し出した鍋のふたを受け取った。その瞬間、彼の表情が一変した。
「なんだこれ。見た目よりずっと軽い。なのに、この密度の高さは何だ?」
ガブはふたの縁を爪で弾いた。チィィィィン……。驚くほど長く、澄んだ残響が店内に広がった。老店主がその音を聞きつけ、眼帯の下の目を大きく見開いてこちらを凝視している。
「おい、小娘……お前、それをどこから……」
「この山の中にあったわ。これは一体、何なの?」
私が尋ねると、老人はよろよろと近づいてきて、震える手でそのふたを撫でた。
「そいつは、数十年前に死んだ変わり者の魔導鍛冶師が、最期に残した失敗作だ。魔法耐性が最も高い貴金属『ミスリル』。それを究極まで精錬して作った盾になるはずだった。だが、精錬の過程で何かが混ざり、魔法の付与が一切受け付けられない『ただの硬い板』になっちまったのさ。職人はヤケクソになって、そいつに取っ手をつけて鍋のふたとして使いやがった」
ミスリル。私ですら、教科書の中でしか見たことがない伝説の金属だ。それがこれほど贅沢に、しかも厚みを持って鋳造されている。
「魔法を受け付けない……。つまり、強化魔法はかけられないけれど、相手の魔法攻撃も、物理的な衝撃も、すべて『無効化』して跳ね返すってこと?」
「ああ。そいつを盾にする奴なんてこれまでいなかった。重さは羽のように軽く、硬さはドラゴンの鱗をも凌ぐ。だが、魔法を誇る魔導士にとっては、自分の魔法すら通さない役立たずの鉄クズだったんだよ。魔法がすべてだった職人には耐えられなかったんだろうさ」
ガブはそのふたを左腕に装着し、鋭く振ってみせた。風を切る音が違う。彼の小さな体格には、これ以上の盾はないだろう。
「気に入った。魔法を通さない?最高じゃないか。オレには魔法なんて最初からないし、魔法使いの鼻柱を叩き折るには最高の『鍋のふた』だ」
「お値段は?」
私が問うと、老人はふっと自嘲気味に笑った。
「その金貨一枚でいい。長年、俺の飯を炊く鍋のふただったんだ。そいつが戦場で踊る姿を見られるなら、安いもんだよ」
こうして私たちは、奇妙な装備を手に入れた。黒い鉄の杖を握る魔女と、ミスリルの鍋のふたを構えるゴブリン。見た目は不格好で、およそ伝説の英雄には程遠い。けれど私たちの手には、かつての窮屈な教育では決して得られなかった、自分たちだけの「生きるための武器」が握られていた。
「準備は整ったな、リゼ」
「ええ。行きましょう。砂漠を越え、その先にある『楽園』へ」
私たちは集落を後にし、乾いた風が吹き抜ける荒野の方角へと足を踏み出した。追手の足音はまだ遠い。だが私たちの旅の目的は、この騒乱の中でより鮮明に、より揺るぎないものへと変化していた。




