EP90
264:勝利の余韻
地響きと共に倒れ伏した騎士団長の巨体は、ピクリとも動かなくなった。彼が手放した魔法剣からは、すでに青白い雷光の明滅が消え失せ、ただの分厚い鉄の塊となって冷たい石床の上に転がっている。
圧倒的な静寂。外から響くパニックの喧騒や、炎が木材を爆ぜさせる音すらも、今はなぜか遠くの出来事のように感じられた。私の耳の奥では、自分の激しい心音だけがドクンドクンと鳴り響いている。
「信じられない。私たち、本当に勝ったのね」
私は呆然と呟きながら、ペタンと座り込んだまま自身の震える両手を見下ろした。泥と血と、煤に塗れた手。マナの残滓すら感じられない、からっぽの体。王都の魔法アカデミーの教師たちが見れば、正気を疑うような戦果だった。呪文の詠唱も、複雑な魔法陣の構築もなしに、たった一匹のゴブリンとの連携だけで完全武装の精鋭部隊を壊滅させたのだから。
「へへっ……言ってただろ。武器なんてそこら辺の枝でいいし、魔法だって気合とタイミングがあれば十分だってな」
ガブはへし折れた樫の枝を未練なく放り捨てると、ドカッと床に大の字になって寝転がった。強がって笑ってはいるが、その小さな胸はかつてないほど激しく上下している。限界を超えた肉体を無理やり稼働させた代償は大きく、彼の全身には目も当てられないほどの新しい打撲傷と切り傷が刻まれていた。
「気合とタイミングって……あなたは本当に無茶苦茶なんだから」
私は苦笑しながら、彼に這うようにして近づいた。無造作に転がっている騎士団長の兜を避け、ガブの隣に腰を下ろす。冷たい石の床が、火照りきった体には妙に心地よかった。
「でも、悪くない気分だろ?」
ガブが横目で私を見て、ニヤリと歯を見せた。
「ええ。なんだかすごく生きているって感じがするわ」
私は彼に倣って、石床の上に仰向けに寝転がった。上を見上げれば、倉庫の天井板の隙間から、館を包む炎の赤い光がチカチカと瞬いているのが見えた。極上のワインも、豪華な食事もない。体中が痛くて、息をするのも辛い。それでも、この冷たい床の上で味わう「生き延びた」という実感は、私がこれまでの人生で知るどんな美酒よりも深く、甘美な勝利の余韻だった。
「リゼ、お前、さっきの足払い……最高にえげつなかったぞ。あんな凶悪な魔女、世界中探してもいない」
「あなたに言われたくないわ。それに、えげつないのは私じゃなくて、この杖の重さよ。次はもっとちゃんとした金属の杖を買わなきゃね。殴るために」
「ははっ!違いない。お前、もうアカデミーには戻れないな」
私たちは顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。傷だらけで、ボロボロで、指名手配犯。何一つ笑える状況ではないのに、なぜか笑いが止まらなかった。死の淵を共に乗り越えたことで、私たちの魂は、以前よりもずっと強固で、絶対的な絆で結びついていた。
「さて」
しばらく笑った後、ガブはふぅと長い息を吐いて体を起こした。
「名残惜しいが、そろそろずらかるぞ。このバカでかい缶詰野郎が戻らないとなれば、すぐにまた次の部隊が押し寄せてくる」
「そうね。この館とも今度こそ本当にお別れよ」
私も気力を振り絞って立ち上がり、自分の命を繋いでくれた水晶の杖をしっかりと握り直した。
265:館からの離脱
倉庫の外に出ると、夜風が火災の熱気を孕んで生温かく頬を撫でた。本館の方角を見やれば、かつて豚のように太った領主がふんぞり返っていた豪奢な三階建ての館は、今や完全に火の海に包まれ、無惨な骨組みを晒していた。屋根の一部が轟音を立てて崩れ落ち、無数の火の粉が夜空に向かって舞い上がっていく。まるで、悪趣味な権力の象徴が浄化されていくかのようだった。
「ひどい有様だな。お前がやったんだろ、これ」
ガブが呆れたように館を見上げて言う。
「結果的にそうなるように仕向けただけよ。あんな悪趣味な剥製コレクションがある家なんて、燃えてなくなってしまった方が世のためだわ」
私は冷たく言い放ち、背を向けた。
私たちが目指すのは、館の敷地を囲む最も高い外壁だ。先ほど忍び込んだ低い裏壁と違い、こちら側は堀の外の森へと直接繋がっているが、その分、壁の高さは三メートル近くある。普段のガブの身体能力なら造作もなく飛び越えられる高さだが、今の彼のボロボロの体では厳しいだろう。
「ガブ、壁を登るわよ。私が先に行くから、あなたを引き上げるわ」
「ばーか、オレを誰だと思ってんだ。こんな壁くらい」
言いながら壁に手をかけたガブだったが、その腕はプルプルと震え、自重を支えきれずにズルズルと滑り落ちてしまった。彼は悔しそうに舌打ちをする。
「無理しないで。私たちは二人で一つなんでしょ?」
私は彼に微笑みかけると、壁の表面に生えているツタにそっと手を触れた。
(夜露を吸い、静かに上へと伸びゆく緑の精霊たち。私たちの逃避行に、少しだけあなたの強靭な腕を貸していただけないでしょうか)
魔力は使わない。ただ、心からの感謝と共にお願いをするだけだ。すると壁面に張り付いていたツタが微かにうごめき、まるで自然の階段のように太く、頑丈に絡み合いながら、私たちが登りやすい足場を作ってくれたのだ。
「相変わらず、便利で不思議な魔法だな」
ガブが目を丸くしてツタの階段を見上げる。
「魔法じゃないわ、ただの『お願い』よ。さあ、行くわよ」
私はツタに足をかけ、慎重に壁を登り始めた。ガブも私のすぐ後ろを、ツタの蔓を命綱にするようにして付いてくる。壁の頂上にたどり着き、外側へと飛び降りる。着地した先は、館の敷地を外界から隔てる深い森の入り口だった。柔らかな土と腐葉土の感触が、足の裏に心地よく伝わってくる。
「抜けたな」
ガブが壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。背後からは相変わらず怒号と崩落の音が聞こえてくるが、分厚い石壁がその喧騒を半減させていた。兵士たちは消火活動と領主の避難に手一杯で、こちらまで追撃をかけてくる気配はない。
「ええ。でもここはまだ近すぎるわ。もう少し森の奥へ入って、安全な場所を探しましょう」
私は彼に手を差し伸べた。ガブはその手を取り、再び立ち上がる。振り返ることなく、私たちは暗く深い森の奥へと足を踏み入れた。火の粉が舞う地獄のような光景を背に、真の自由を求めて。
266:星空の下の再会
森を小一時間ほど歩き続け、私たちは木々が丸く開けた小さな空き地にたどり着いた。館からの騒音はもう完全に聞こえず、周囲を包むのは風が木の葉を揺らす音と、秋の虫たちの穏やかな鳴き声だけだ。私は安全を確認すると、その場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「はぁ……もう、一歩も動けないわ……」
「オレもだ。腹減りすぎて、背中と腹がくっつきそうだ」
二人して柔らかい草の上に仰向けに寝転がる。見上げると、そこには息を呑むほどの絶景が広がっていた。森の木々の隙間から切り取られた夜空には、数え切れないほどの星々が、まるで砕けた宝石を散りばめたように煌いていたのだ。煙に巻かれた地下牢でもなく、炎に照らされた館の裏庭でもない。どこまでも澄み切った、本物の夜空。
「綺麗ね」
「ああ。久しぶりに見た気がする、こんな星空」
ガブの声は、いつものような棘が抜け落ち、とても穏やかだった。思えば、彼が領主の罠にかかって捕縛されてから数日間。私たちは、互いが生きているのか死んでいるのかすらわからない、絶望的な暗闇の中にいたのだ。地下牢で再会した時は、彼が鎖に繋がれていて、ゆっくりと顔を見る余裕なんてなかった。続く脱出劇と戦闘の連続で、互いの無事を噛み締める時間すら与えられなかった。
だから、今この瞬間が、私たちにとっての「本当の再会」だった。
私は首だけを巡らせて、隣に寝転がる彼の横顔を見た。月明かりと星明かりに照らされたその顔は、頬がこけ、無数の傷に覆われて痛々しい。けれどその瞳の奥には、どんな困難にも屈しない強靭な生命の光が宿っていた。
「ガブ。本当に、生きててくれてよかった」
私は胸の奥から込み上げてくる熱いものを必死に堪えながら、静かに言った。もし、私が少しでも遅れていたら。もし、彼があの拷問に耐えきれずに命を落としていたら。そう考えると、今でも背筋が凍るような恐怖に襲われる。
「当たり前だ。オレがこんなとこで死ぬわけないだろ」
ガブは私の視線に気づくと、照れ隠しのように顔を背け、夜空の星を指差した。
「オレは、お前と一緒にあの『楽園』に行くって決めたんだ。お前がどんなにどんくさくても、オレが最後まで付き合ってやる」
「誰がどんくさいですって?」
私はわざとらしく頬を膨らませてみせたが、自然と口角が上がってしまった。彼はいつだってこうだ。どれだけ自分が傷ついていても、絶対に弱音を吐かず、不器用な言葉で私を安心させてくれる。
私はそっと手を伸ばし、草の上を這わせて、彼の小さな手に触れた。ひんやりと冷たくて、ゴツゴツとした手。ガブは一瞬ビクッと肩を震わせたが、振り払うことはせず、そのままギュッと私の手を握り返してくれた。
言葉はもう必要なかった。果てしなく広がる星空の下。脈打つ互いの体温だけが、私たちがこうして共に生きて、同じ夜空を見上げているという紛れもない事実を証明していた。




