EP89
261:領主騎士との対決
ガチャリ、ガチャリと、分厚い鋼の板金鎧が擦れ合う重厚な音が、夜の裏庭を支配していた。先遣隊の敗走を受け、倉庫の周囲を完全に包囲したのは、領主が莫大な富をつぎ込んで編成した精鋭騎士団だった。彼らの装備は、先ほどの一般兵士たちとは根本的に次元が違う。月の光を鈍く反射する兜には一切の隙がなく、手に握られた長剣や斧は、微かな魔力を帯びて青白い光を放っている。
「ネズミが二匹、ずいぶんと派手に暴れてくれたようだな」
群れをかき分け、一際豪奢な装飾の施された鎧を纏う大男が進み出てきた。騎士団長だろう。彼の冷酷な視線が、兜のバイザーの奥から私たちを射抜く。
「見世物の分際で檻を破り、我が主君の館に火を放つとは。その緑色の首、そして魔女の四肢を斬り落とし、広場に晒してくれるわ!」
怒号と共に、騎士団長が剣を振り下ろす。それを合図に、最前列に陣取っていた五人の重装騎士が一斉に倉庫内へと突撃を開始した。地響きを立てて迫る鋼の壁。普通なら、その圧倒的な質量と威圧感だけで足がすくむだろう。だが、私の隣に立つ小さな相棒は、ふてぶてしく鼻を鳴らした。
「四肢を斬り落とすだと?そんな物騒な真似、させてたまるか!」
ガブは低く身を沈め、手にした太い樫の枝を構えて前へと飛び出した。
先頭の騎士が放った、風を切り裂くような大剣の横薙ぎ。ガブはそれを正面から受け止めるような愚行は犯さない。彼は滑り込むように騎士の懐へと潜り込み、大剣の軌道の下をくぐり抜けた。そのまま樫の枝を突き上げ、兜と胸当てのわずかな隙間、首元の関節部を的確に狙い打つ。ゴツンッ!という鈍い音が響き、騎士の巨体が大きく仰け反った。
しかし、相手は精鋭中の精鋭だ。関節部への強烈な一撃を食らいながらも、騎士は倒れることなく即座に体勢を立て直し、裏拳でガブを乱暴に弾き飛ばした。
「チッ……やっぱり、硬いな!」
床を転がりながら体勢を立て直すガブ。彼の膂力は極度の飢餓で衰えており、分厚い鋼鉄の鎧越しに致命傷を与えるには至っていない。
すかさず、別の二人の騎士がガブの左右から挟み撃ちにするように剣を振り下ろしてきた。逃げ場はない。私は水晶の杖を握りしめ、地面の土と、夜露に濡れた草木に意識を向けた。マナを練るのではない。ただ、足元に眠る大地の妖精たちへ、そっと心の中で語りかける。
(静かなる大地の精霊たち、そして夜露を纏う水の精霊たちよ。どうか彼らの踏みしめる土を、ほんの少しだけ緩めてはいただけないでしょうか)
私の祈りに応え、倉庫の入り口付近、騎士たちが力強く踏み込んだ瞬間の土が、まるで底なし沼のようにグチャリと泥状に変化した。
「なっ……足場が!?」
鋼の鎧の自重も相まって、二人の騎士の足が泥に深く沈み込み、振り下ろされた剣の軌道が大きく逸れる。
「隙ありだ!」
ガブはその千載一遇の隙を逃さない。足を取られて前のめりになった騎士の膝関節の裏側、鎧の継ぎ目に向かって、全体重を乗せた樫の枝をフルスイングで叩き込んだ。バキィッ!という生々しい音と共に、一人の騎士が完全に膝から崩れ落ちる。
「魔女の小細工か!後列、あの女から仕留めろ!」
騎士団長の怒声が響く。前衛の混乱を乗り越え、さらに三人の騎士が私を目指して殺到してきた。魔力切れの私一人なら、一瞬で膾切りにされるだろう。だが、私には最高の相棒がいる。
262:コンビネーション
「リゼに指一本触れさせるか!」
ガブが床を蹴り、私に迫る騎士たちの前へと割り込んだ。彼は倉庫内に積まれていた木箱を足場にして跳躍し、空中で身を捻りながら、樫の枝を先頭の騎士の兜へ叩き落とした。強烈な衝撃に騎士がたたらを踏む。
しかし、空中にいるガブは無防備だ。続く二人目の騎士が、冷酷な目でガブの胴体を真っ二つにしようと剣を構えた。
「ガブ!」
私はとっさに前へ飛び出し、手にした水晶の杖の石突き(柄の底)を、剣を振りかぶった騎士の足首に思い切り引っ掛けた。ただの物理的な足払い。だが、重い鎧を着込んだ状態で不意に重心を崩された騎士は、無様な悲鳴を上げて前方に転倒した。
「ナイスサポートだ!」
着地と同時に、ガブは転倒した騎士の背中を容赦なく踏みつけ、それを踏み台にして三人目の騎士の懐へと飛び込む。右からの突きを樫の枝でいなし、左の手刀を騎士の喉元へ叩き込む。相手が怯んだ隙に、ガブは私の方へ視線を投げた。言葉はない。だが、その目で彼が何を求めているのか、私には痛いほどよくわかった。
相手の目を塞げ。私は即座に倉庫の外、炎上する館からもうもうと立ち上る黒煙に意識を飛ばした。
(自由に空を駆ける風の精霊たち。そして熱を孕んだ煙の精霊たちよ。どうか少しだけ、あちらの黒い帳を、彼らの視界へと運んではいただけないでしょうか)
ヒュウッ、と不自然な風が吹き込んだかと思うと、外で燻っていた濃厚な黒煙が、まるで意思を持つ蛇のように倉庫内へと流れ込み、三人の騎士の顔面をピンポイントで包み込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ!煙が、目に……!」
兜のバイザーの隙間から入り込んだ煙に、騎士たちが剣を乱軌道で振り回しながらむせ返る。彼らが目を閉じたその一瞬。それこそが、ガブにとっての必殺の間合いだった。
彼は低く滑るように動き、煙の中で苦しむ騎士の鎧の留め具——脇腹の最も脆い部分——に、樫の枝の先端をドリルのように捻り込んだ。さらに、私が杖をバトンに見立てて下段から振り抜き、体勢を崩した騎士の膝を容赦なく砕く。
ガブが上を叩けば、私が下を狩る。私が敵の注意を引けば、ガブが死角から強打を浴びせる。互いの動きに一切の淀みがない。まるで一本の糸で操られているかのように、私たちの攻防は完全に連動していた。私がアカデミーで学んだどんな高度な戦術魔法の陣形よりも、この泥臭く、即興的で、命懸けの連携の方が、はるかに完璧だった。
「化け物め……たかがゴブリンと魔女の分際で、我ら精鋭を愚弄するか!」
次々と仲間が地に伏していく様を見て、ついに騎士団長自らが巨大な両手剣を構え、地鳴りのような足音と共に私たちの前へ歩み出てきた。その全身から放たれる殺気は、これまでの兵士たちとは比較にならないほど濃密で、冷たかった。
「リゼ、少し下がるぞ」
ガブは低く唸りながら、私をかばうようにジリジリと後退した。彼の呼吸は荒く、肩で息をしている。限界の肉体を無理やり動かしている代償が、確実に彼の体を蝕んでいた。
「ガブ、大丈夫?血が……」
「平気だ。あのでかい缶詰野郎をブチのめせば、道は開ける」
彼はそう言って、口の端から流れる血を乱暴に拭い去った。
263:阿吽の呼吸
倉庫の中央で、巨大な両手剣を構える騎士団長と、樫の枝を握る小さなゴブリンが対峙した。周囲には呻き声を上げる騎士たちが倒れ伏し、外からは館が崩壊する轟音と炎の爆ぜる音が絶え間なく響いている。
「貴様らの悪あがきもここまでだ。我が剣『雷咬』の錆にしてくれる!」
騎士団長が剣を天に掲げると、その刀身に青白い稲妻がバチバチと走った。魔力を帯びた魔法剣だ。あんなものに掠りでもすれば、ガブの小さな体は黒焦げになってしまう。
どうする?私にはもう、彼を雷から守るような強力な結界魔法を展開する魔力はない。焦る私の前に立つガブは、しかし、一切の動揺を見せなかった。彼はただ静かに息を吸い込み、肩の力を抜いて、だらりと樫の枝を下ろした。完全な無防備。いや違う。彼は「誘って」いるのだ。
私とガブの視線が、ほんの一瞬だけ交差した。言葉は要らない。アイコンタクトすらない、ただの空気の振動。呼吸の同調。『阿』と息を吸い、『吽』と吐き出す。二つの命の波長が、極限の集中の中で完全に一つに重なり合った。
「死ねェッ!!」
騎士団長が雄叫びと共に、青白い雷光を纏った大剣をガブの脳天へと振り下ろした。凄まじい風圧と紫電が倉庫の床を焦がす。だが、剣がガブの頭を叩き割る直前、彼は信じられないほどの柔軟性で体を仰け反らせ、刃の軌道を紙一重で回避した。
空を切った大剣が、そのまま倉庫の石床に激突する。ドガァァァァンッ!!雷の魔力が爆発し、石の破片が散弾のように飛び散った。騎士団長は一瞬だけ、大剣を床から引き抜くために動きを止める。そのコンマ一秒の硬直。ガブが命懸けで作ってくれた、たった一つの隙。
(すべてを包み込む重力の精霊たちよ。どうか今だけ、彼の纏う傲慢な鋼鉄を、本来の重さへと引き戻してはいただけないでしょうか)
私は彼が剣を振り下ろした瞬間に走り出しており、騎士団長の死角から、その巨大な背中——鎧の背面に水晶の杖を押し当てていた。魔力による強化ではない。鎧そのものが持つ「物理的な重量」を、精霊の力で一瞬だけ何倍にも錯覚させる、極小にして最大のデバフ。
「な、ぬぅぅ……!?体が、重っ……!」
大剣を引き抜こうとした騎士団長の動きが、目に見えて鈍った。見えない巨大な岩を背負わされたように、その巨体がグラリと傾く。
「これで……終わりだァッ!!」
床すれすれまで身を沈めていたガブが、バネのように跳ね上がった。彼は両手で握り締めた樫の枝を、下から上へ、全身のバネと回転のエネルギーをすべて乗せて振り抜いた。狙いは、重力に抗えずに無防備に下がった騎士団長の顎——兜の下の、唯一鎧に覆われていない剥き出しの急所。
ガアァァンッ!!
樫の枝がへし折れるほどの凄まじい破砕音が、倉庫内に響き渡った。兜ごと顎をカチ上げられた騎士団長の巨体が、宙に浮く。雷光を纏っていた大剣が手からすっぽ抜けて床に転がり、白目を剥いた巨漢は、そのまま背中からどうっと崩れ落ちた。ズドォォン、と重い地響きが鳴り、二度と動かなくなった。
指揮官の敗北。その圧倒的な光景を目にした残りの騎士たちは、完全に戦意を喪失し、武器を捨てて逃げ出していった。
後には、静寂だけが残された。ガブはへし折れた樫の枝を放り捨て、荒い息を吐きながらその場に座り込んだ。私もまた、膝の力が抜けてペタンと座り込んでしまう。私たちは勝ったのだ。魔力も武器もない最悪の状態から、二人だけの呼吸を合わせて、完全武装の精鋭部隊に。
「へへっ。どんなもんだ」
血まみれの顔で、ガブがニカッと笑った。
「ええ。最高のコンビネーションだったわ」
私も、泥だらけの顔で最高の笑顔を返した。




