EP9
25:距離感の測り方
雨上がりの森は濃厚な緑の匂いがした。濡れた土、苔の湿り気、そしてどこかで咲き始めた名もなき花の香り。私たちは洞窟を出て、再び歩き始めていた。
道中、私はある「違和感」について考えていた。それはガブとの距離感についてだ。心の距離ではない。物理的な、体の距離の話だ。
「リゼ、これ、踏むな。滑る」
ガブが振り返り、私の足元を指差す。その時、彼の顔が私の顔のすぐ目の前にあった。鼻先が触れそうなほど近い。彼の吐息がかかる距離だ。
「っ!ち、近いわよ、ガブ」
私は反射的に半歩下がった。ガブはきょとんとして首をかしげる。
「近い?遠いと聞こえないぞ」「聞こえるわよ。人間の耳だってそこまで悪くないの」
彼は不思議そうに鼻を鳴らし、また前を向いて歩き出した。そうなのだ。彼には「パーソナルスペース」という概念が欠落している。休憩中も、気がつくと私の肩に自分の肩をくっつけて座ってくるし、地図を見るときも私の背中にのしかかるようにして覗き込んでくる。別に嫌なわけではない。彼から不潔な感じはしないし(私がこまめに洗浄魔法をかけているおかげもあるが)、そこにあるのは純粋な親愛の情だけだと『真実の眼』でも分かっている。
けれど私は元貴族令嬢だ。「淑女の半径1メートル以内には、許可なく立ち入るべからず」という教育が骨の髄まで染み込んでいる。無防備に肌を寄せ合うことに、どうしてもまだ慣れない羞恥心があった。
「ねえ、ガブ。少し離れて歩かない?剣が届く範囲、くらいに」
私は提案してみた。
「なんでだ?」「えっと、お互いの動きを阻害しないため、とか……?」「ふうん。わかった」
ガブは素直に従い、私から3メートルほど距離を取って歩き始めた。これなら安心だ。安心なのだが、なんだか妙に寂しい。それに不便だった。彼が小さな声で「あ、キノコ」と呟いても聞こえないし、彼が急に止まった時に私の反応が遅れる。何より彼の背中が遠いことで、守られているという感覚が薄れてしまった。
その時、茂みから「ガサッ」と大きな音がした。私はビクリとして立ち止まる。「ガブ!」名前を呼ぶが、彼は3メートル先にいる。彼が振り返り、こちらへ駆け戻ってくるまでの数秒間。その時間が、永遠のように長く、恐ろしく感じられた。
結局、音の正体は木から落ちた太い枝だったのだが、私の心臓は早鐘を打っていた。ガブが駆け寄ってくる。
「リゼ、大丈夫か!?」
彼は私の腕を掴み、すぐそばで私を守る体勢をとった。私の鼻先に、彼の緑色の肩がある。その体温を感じた瞬間、張り詰めていた恐怖がふっと緩んだ。
「やっぱり、近い方がいいみたい」
私はため息混じりに言った。ガブはニカッと笑った。
「だろ?ゴブリン、仲間とはくっつく。離れるのは、喧嘩した時か、死ぬ時だけだ」「極端ね……でも、それがあなたの種族のルールなのね」
王都のルールでは、距離を保つことが「礼儀」だった。相手を尊重し、不可侵の領域を犯さないことがマナーだった。けれどこのサバイバルな森の中では、距離は「隙」でしかない。肌が触れるほどの距離こそが、お互いの命を預け合っている証拠なのだ。
「わかったわ。もう離れなくていい」
私が言うと、ガブは嬉しそうに私の隣に戻ってきた。そして、わざとらしく私の肩にコツンと自分の頭をぶつけてきた。
「リゼ、いい匂いする。これ、安心する匂い」「はいはい。あなたは土の匂いがするわよ」
私たちは密着状態で歩き直した。歩きにくいかと言えば、少し歩きにくい。けれど、私の『真実の眼』に見える彼の色は、少し離れていた時よりもずっと鮮やかに輝いている。距離感の正解なんて、場所と相手によって変わるものだ。今の私にとっての適正距離は、「手を伸ばせばいつでも相棒に触れられる距離」なのだと、私は自分の常識をまた一つ書き換えた。
26:ガブの拾い癖
旅を続けていて気づいた、ガブの困った習性がある。それは、何でも拾ってくることだ。
休憩のたびに、彼のポケットや腰袋はパンパンに膨れ上がっている。歩くたびに、カチャカチャ、ゴトゴトと妙な音がする。
「ガブ、ちょっと荷物見せて」
昼時、私は彼を捕まえて検査を行った。ガブは渋々といった様子で、戦利品を広げた。
出てくるわ出てくるわ。
・錆びて曲がった大きな釘
・何かの動物の大腿骨(かなり古い)
・穴の空いた平たい石
・千切れた革紐の切れ端
・正体不明の金属片
・乾燥してカピカピになったトカゲの死骸(?)
「ガブ。これは何?」
私はトカゲをつまみ上げて聞いた。
「おやつ。非常食」「捨てなさい。お腹壊すわよ」「じゃあ、これは?」
彼は錆びた釘を大事そうに抱えた。
「それもゴミよ。重いだけじゃない。私たちは旅をしてるの。荷物は軽い方がいいのよ」
私が正論を説くと、ガブは頬を膨らませた。
「ゴミじゃない。これ、いい鉄。これ、いい骨。いつか使う」「いつかって、いつよ」「いつかだ」
彼は頑固だった。トカゲだけは衛生上の理由で強制的に廃棄処分(埋葬)したが、その他のガラクタについては「俺が自分で持つからいいだろ」と譲らなかった。まあ彼の体力が許すならいいか、と私は諦めた。ゴブリンにはゴブリンなりのコレクション欲があるのかもしれない。
しかし、その「いつか」は予想よりも早く訪れた。
その日の夕方、私たちは急な崖に直面した。高さは5メートルほど。迂回するには数キロ歩かねばならない。登れそうだが足場が少なく、特に最後の一段が高い。ガブなら身軽に登れるだろうが、運動神経皆無の私には絶望的な壁だった。
「リゼ、そこで待ってろ」
ガブはスルスルと崖を登り、頂上に到達した。しかし、そこから私を引き上げる手段がない。ロープは持っているが、引っ掛ける場所がないのだ。近くに太い木もなく、岩肌はツルツルしている。
「どうしよう……迂回するしかないかしら」
私が下から声をかけると、ガブはニヤリと笑った。
「待て。俺の宝物が役に立つ」
彼は腰袋を漁り、例の「錆びて曲がった釘」と「穴の空いた石」を取り出した。そして、釘を岩の割れ目に差し込み、石を使ってカンカンと打ち込み始めた。釘はL字型に曲がっていたのが幸いし、見事な「ハーケン」代わりになった。さらに、彼は「千切れた革紐」とロープを結び合わせ、長さを延長した。
「リゼ、ロープ投げるぞ!釘に結んだから丈夫だ!」
垂れてきたロープを掴む。体重をかけてみるが、びくともしない。あのガラクタが、しっかりとした支点になっている。
「嘘……本当に役に立ったわ」
私は驚きながら、ロープを伝って崖を登りきった。頂上でガブが、鼻高々にふんぞり返っていた。
「見たか。ゴミじゃない。宝だ」「はい、参りました。あなたの勝ちよ」
私は素直に頭を下げた。私の目には「価値のない廃棄物」にしか見えなかったものが、彼の目には「可能性の塊」に見えていたのだ。そういえば、私自身も実家では「魔力のない役立たず」という扱いだった。けれどガブは私を拾い、相棒として認めてくれた。彼は、世間一般の価値基準ではなく、自分自身の目でモノの本質を見抜く天才なのかもしれない。
「でも、トカゲの死骸だけはやめてね」「ちぇ。あれ、うまいのに」
ガブは釘を回収し、再び大切そうにポケットにしまった。カチャリ、と音がする。その音が、なんだか頼もしい音に聞こえてくるから不思議だ。彼のポケットは、四次元の道具箱のようなものなのだと、私は認識を改めた。
27:キラキラする石
森を抜け、岩場の多い地帯に入った時のことだ。小川のせせらぎが聞こえる場所で、ガブが突然足を止めた。
「リゼ!見ろ!すごいぞ!」
彼は川辺に駆け寄り、水の中を指差して叫んだ。何事かと近寄ると、川底の砂利の中に、キラキラと光るものが混ざっていた。
「ああ、石英ね」
私は冷静に判定を下した。透明や乳白色の結晶。ガラスのように光を反射して綺麗だが、宝石としての価値はほとんどない。王都の宝石店なら、床に落ちていても誰も拾わないレベルのありふれた鉱物だ。
けれど、ガブの反応は違った。
「すげえ……星の欠片だ!川の中に星が落ちてる!」
彼は袖をまくり上げ、夢中で水の中に手を突っ込んだ。冷たい水も気にならないらしい。次々と石を拾い上げては、太陽にかざして確認している。
「これ、光る!こっちも光る!」
彼の手のひらには、濡れて輝く石英の欠片が山盛りになっていた。彼の目もまた、石に負けないくらいキラキラしていた。『真実の眼』で見ると、彼の心は「感動」と「発見の喜び」の虹色で埋め尽くされている。
「綺麗だろ、リゼ?」「ええ、そうね。綺麗よ」
私は微笑んだ。「それは安い石よ」なんて野暮なことを言うつもりはない。彼が美しいと感じるなら、それは彼にとってダイヤモンド以上の価値があるのだ。
しばらく石拾いに没頭していたガブが、ふと真剣な顔をして、選りすぐりの一つを私に差し出した。それは親指の爪ほどの大きさで、少し角が丸くなった、透明度の高い結晶だった。
「これ、リゼにやる」「え?いいの?ガブが見つけたのに」「一番綺麗だから、リゼのだ」
彼は私の手を取り、その石を乗せた。
「リゼの目みたいに、透き通ってて綺麗だ。これ持ってれば、リゼもっと綺麗になる」
ドキン、と胸が跳ねた。なんてストレートな殺し文句だろう。本人は無自覚なのが恐ろしい。私は掌にある小さな石を見つめた。実家の部屋には、父が社交界用にと買い与えた、高価な宝石箱があった。ルビー、サファイア、エメラルド。どれも目がくらむような値段のものばかりだった。けれど、それらは全て「リゼ」という商品を美しく見せるための「装飾品」であり、あるいは家の権威を示すための「値札」でしかなかった。父から宝石を渡される時、そこに愛情の温もりを感じたことは一度もない。「無くすなよ」「傷つけるなよ」という冷たい警告だけだった。
でもこの石はどうだ。市場価値はゼロに近い。ただの石ころだ。けれど、これはガブが冷たい水の中に手を入れ、私のために一生懸命選んでくれたものだ。「綺麗だからあげたい」という、純度100%の想いが込められている。
太陽の光を受けて、石英がプリズムのように七色の光を放った。今まで見たどんな宝石よりも、美しく見えた。
「ありがとう、ガブ。大切にするわ」
私はその石を、ハンカチに包んで胸ポケットに入れた。心臓のすぐ近くに。
「おう。また見つけたらやる。リゼをキラキラにしてやる」
ガブは満足げに笑い、また川の中を覗き込み始めた。
物質的な価値と、感情的な価値。その二つは、時として逆転する。何万ゴールドの宝石よりも、ゴブリンがくれた一個の石ころが、私の心を豊かに満たしてくれる。
「私も探そうかな」
私は裾を少し上げ、彼の隣にしゃがみ込んだ。冷たい水の感触が心地よい。二人で泥だらけになって「宝探し」をする時間は、王都のどんな舞踏会よりも贅沢な時間だった。




