EP87
255:脱出
ザバァッ、ザバァッ。膝下まで泥水に浸かりながら、私たちは館の地下水路を歩いていた。
先ほど私が融解させた排水口の奥は、石組みの古い下水道に繋がっていた。上部からは相変わらず館が崩壊する地鳴りのような音が響いてくるが、分厚い石の天井と冷たい水気のおかげで、ここまでは炎の熱も煙も届かない。私はボロボロに痩せ細ったガブの体を右肩に預け、半分引きずるようにして暗闇を進んでいた。
「おいリゼ。お前、さっきから顔色が死人みたいだぞ」
私の肩に寄りかかりながら、ガブが掠れた声で言った。その言葉通り、私の肉体はとうに限界を迎えていた。視界の端はずっとチカチカと点滅を繰り返し、呼吸をするたびに肺の奥から血の味がせり上がってくる。
「お前、魔力はとっくに底を突いてたはずだろ。なんであんなデカい魔法を何度も撃てたんだ。馬鹿なことしてないだろな」
「馬鹿なこと、かもね」
私は自嘲気味に笑い、彼を支える手に少しだけ力を込めた。
「アカデミーでは絶対にやってはいけない禁忌って教わってた。大気中のマナや自分の魔力が尽きた後、なお魔法を使おうとすれば、自分の生命力……『オド』を直接削ることになるって」
「はぁ!?お前、じゃあ命削って……」
「でもね、不思議なの」
私は彼を安心させるように、ゆっくりと首を振った。
「命を削るって、本来ならそのまま肉体が崩壊して死に至るはずなの。でも、私が精霊たちにお願いすると、彼らが私のオドを『死なないギリギリのライン』で優しくすくい取って、代わりに彼ら自身の力を何倍にも増幅して貸してくれたのよ」
「精霊が……?」
「ええ。アカデミーの冷たい石壁の中じゃ、絶対に気づけなかった。あなたと一緒に泥だらけになって旅をして、自然の中で精霊たちと対話し続けたから……彼らは私を、ただの術者じゃなくて『共生者』として認めてくれたんだと思うわ」
私が微かに微笑むと、ガブは呆れたように大きなため息をついた。
「無茶苦茶な魔女様だ、まったく。だが、これ以上は絶対に使わせないからな。お前が死んだら、誰がオレに飯を奢るんだ」
その言葉に、私は先ほど地下牢で交わした会話を思い出した。
「そういえば……王都で一番美味しいお肉をご馳走するって約束、破っちゃうことになりそうね」
「なんでだ」
「だって、領主の館に火を放って、指名手配の魔物と一緒に逃げ出したのよ?これで私たちは、この国の正真正銘の重罪人。王都になんて向かったら、門をくぐる前に騎士団に串刺しにされちゃうわ」
私が申し訳なさそうに言うと、ガブは鼻で笑った。
「なんだ、そんなことか。別に王都の肉にこだわってるわけじゃない。お前が奢ってくれるなら、道端の野ウサギでも極上のご馳走だ」
「ガブ……」
「それに、オレたちが目指してるのは王都なんかじゃないだろ。国境を越えたその先……どんな魔物も人間も笑って暮らせるっていう『楽園』だ。あそこなら、王都の貴族が食ってるような肉より、ずっとすげぇモンがあるに決まってる」
彼の言葉に、私の胸の奥に灯っていた小さな不安が、温かい希望へと変わっていくのを感じた。そうだ。私たちの旅の目的地は、最初から「楽園」だった。王都への寄り道は、ただの小さな夢物語。この国に居場所がなくなったのなら、さっさと国境を越えてしまえばいい。
「そうね。最高の楽園で、最高のお肉を食べましょう」
暗い水路の先に、ぼんやりと白い光が見え始めた。出口だ。私たちは互いに支え合いながら、冷たい泥水を蹴立てて、その光の中へと転がり出た。むせ返るような地下の悪臭から一転、肺いっぱいに流れ込んできたのは、夜露に濡れた草の香りと、冷たく澄んだ外の空気だった。見上げれば、黒煙を上げる領主の館の向こうに、欠けかけの月が静かに輝いていた。
256:奪われた装備
水路の出口は、館を囲む広大な外堀の、さらに外側に位置する雑木林の斜面だった。這い上がった私たちは、草むらに倒れ込み、しばらくの間ただ荒い息を繰り返した。背後では、まだ消火活動の怒号や、館の一部が崩れる音が遠く響いている。追っ手はまだここまでは来ていない。
「とりあえず、ここは脱出できたわね。森の奥へ入って、早くあなたの傷の手当てを……」
私が起き上がりながら言うと、ガブはフラフラと立ち上がり、館の敷地を囲む高い石壁の方を振り返った。
「いや、まだだ。オレの荷物を取り返す」
「えっ?」
私は耳を疑った。
「荷物って……あなたがいっつも身につけてた、あの革の鎧やポーチのこと?そんなの、あとで新しいのを作れば……」
「ダメだ。あのポーチの中には、オレが森で集めた特製の傷薬の材料や、毒消し、それに火打ち石から針と糸まで入ってる。ただでさえ金がないのに、一から集め直してたら国境を越える前に野垂れ死ぬ」
ガブの言葉は正論だった。彼は丸腰なだけでなく、上半身は薄汚れたボロ布を巻かれているだけで、あの頑丈な緑色の革鎧も奪われていた。これからの過酷な逃避行を考えれば、彼のサバイバルキットは絶対に不可欠な命綱だ。
「わかった。でも、どこにあるか見当はついてるの?」
「オレが捕まった時、あいつら、荷物をまとめて『裏の資材庫にでも放り込んどけ』って言ってた。ここからなら、壁を越えればすぐ裏庭だ。火事の騒ぎで、裏の警備は手薄になってるはずだ」
私は小さく頷き、彼の手を取った。
「行くわよ。でも、無理はしないで。見つかりそうになったら、荷物は諦めて逃げるからね」
私たちは月明かりを頼りに、館の裏手へと忍び寄った。ガブの読み通り、兵士たちのほとんどは表の消火活動と領主の護衛に駆り出されており、裏庭には人気がなかった。私は残されたわずかなマナを使い、風の精霊に足音を消してもらうよう小さく祈りながら、石壁の低い部分を乗り越えた。
裏庭の隅に、いくつかの簡素な木造の倉庫が並んでいた。私たちはその中の一つ、扉が半開きになっている倉庫へと滑り込む。中は薄暗く、小麦の袋や木箱が無造作に積まれていた。
「あったぞ」
ガブが奥の木箱の影から、見覚えのある革の塊を引っ張り出した。それは間違いなく、彼の革鎧と、腰に提げていた大きなポーチだった。鎧にはいくつか新しい傷がついていたが、ポーチの中身は無事なようだ。
「よかった……。これで最低限の手当てはできるわ」
私が胸を撫で下ろした時、ガブが舌打ちをした。
「チッ……オレの愛用の『牙砕き』がない。武器だけは別の場所に持っていったか」
彼がいつも軽々と振り回していた、鉄の鋲が打ち込まれた凶悪な棍棒。あれがなければ、魔物や兵士とまともに戦うことはできない。私は自分の杖を見た。これも魔力を使い果たし、今はただの光る石がついた木の棒でしかない。
「どうしよう……。武器がないと、ここから先……」
私が不安を口にしたその時。
「おい!倉庫の方で物音がしたぞ!」
「裏庭を調べろ!地下から逃げ出した魔物がいるかもしれん!」
倉庫の外から、複数の重い足音と、金属の鎧が擦れ合う音が近づいてきた。最悪のタイミングだった。消火活動が一段落したのか、領主の精鋭とおぼしき騎士たちが、裏庭の捜索に回ってきたのだ。
257:棍棒はそこら辺の枝でいい
松明の光が、倉庫の半開きになった扉の隙間から差し込んできた。足音は三人。いや、四人。規則正しい歩調からして、ただの門兵ではなく、厳しい訓練を受けた領主直属の騎士たちだ。
「ガブ……どうするの。私、もう魔法は……」
私は無意識に後ずさり、木箱の影に身を縮めた。精霊に頼ってオドを削る魔法は、本当にあと一回使えば私が死ぬ。ガブも、栄養失調と拷問の傷で立っているのがやっとの状態だ。丸腰のゴブリンと、魔力切れの魔女。どう考えても勝機はない。
「しっ、黙ってろ」
ガブは素早く革鎧を身に纏い、ポーチを腰にしっかりと結びつけた。ボロボロの体だが、いつもの装備を身につけたことで、彼の瞳にわずかに戦士としての鋭い光が戻ったように見えた。
彼は音を立てないように倉庫の中を見回し、やがて視線を入り口付近に積まれていた薪の山で止めた。冬に暖炉で燃やすための、太く乾燥した樫の木の枝だ。ガブは迷いなくその山に近づき、大人の腕の太さほどある、適度に曲がった太い枝を一本無造作に拾い上げた。
「ガブ?まさか、それで戦うつもり?」
私は目を丸くした。ただの木の枝だ。いくら樫の木が硬いとはいえ、相手は鋼の鎧を着込み、鋭い長剣を持った騎士である。そんなもので叩いても、簡単に切り捨てられてしまう。
「武器なんてな、叩ければなんだっていいんだ」
ガブは拾い上げた木の枝を、まるで長年使い込んだ名剣のように手のひらで転がし、軽く素振りをした。ブンッ!と、空気を切り裂く重い音が鳴る。
「弘法筆を選ばず、って言葉を知ってるか?王都の人間がよく言うらしいがな。オレたちゴブリンに言わせりゃ、『棍棒はそこら辺の枝でいい』だ」
彼はニヤリと笑った。その瞬間、私は背筋にゾクッとするような悪寒と、同時にとてつもない安心感を覚えた。痩せ細り、傷だらけの体。手にしているのはただの薪。それなのに今の彼は、どんな強力な魔法の武器を持っている時よりも大きく、頼もしく見えたのだ。
彼は武器の強さに依存して戦っていたのではない。彼自身の圧倒的な生存本能、戦いのセンス、そして決して折れない心。それこそが、ガブというゴブリンの真の強さだったのだ。
「そこか!誰かいるな!」
ついに、倉庫の扉が乱暴に蹴り開けられた。松明を持った二人の騎士と、長剣を構えた二人の騎士が、怒声と共に雪崩れ込んでくる。彼らの視線が、木箱の前に立つガブと、その後ろで震える私を捉えた。
「いたぞ!見世物のゴブリンと、例の侵入者だ!」
「殺せ!領主様の館に火を放った大罪人だ、生かして帰すな!」
騎士たちが殺意を剥き出しにして、一斉にこちらへ突進してくる。だが、ガブは一歩も引かなかった。彼は太い樫の枝を右肩に担ぐように構え、深く腰を落とした。その重心の低さと、獲物を狙う獣のような鋭い眼光は、完全に相手を「狩る」側のそれだった。
「リゼ、オレの背中から離れるな」
「ええ。私も、ただ守られてるだけじゃないわ」
私は、精霊への祈りではなく、自分自身の両足にしっかりと力を込め、杖を両手で構え直した。魔力はなくても、この水晶の杖の硬さなら、相手の剣を一度くらいはいなせるはずだ。逃げるのではない。ここを突破して、国境を越えるための最初の戦い。最弱で最強のバディの反撃が、今始まろうとしていた。




