EP84
247:警報の鐘
カンッ!カンッ!カンッ!!
鼓膜を直接殴りつけるような、甲高くヒステリックな鐘の音が地下空間に反響した。それは間違いなく、館の全域に異常事態を知らせる警報だった。
私が一層で気絶させた門兵が発見されたのか、それとも館に張り巡らされた何らかの魔法的な警戒網に引っかかったのか。理由はわからない。だが、事態が最悪の方向に転がったことだけは明白だった。
「グルルルルッ!」
「ギャアアアアッ!」
鐘の音に呼応するように、地下二層の檻に囚われていた魔物たちが一斉に狂乱状態に陥った。分厚い鉄格子に巨体を打ち付け、鎖を引きちぎらんばかりに暴れ回る。鼓膜が破れそうなほどの獣の咆哮と、金属が軋む嫌な音が、狭い石造りの通路を暴力的に駆け抜けていく。
「くっ……!」
私は両手で耳を塞ぎながら、開け放った特別区画の扉の陰に身を滑り込ませた。すぐそこ、鉄格子の向こう側の暗がりに、鎖に繋がれたガブの背中が見える。あと数メートル。手を伸ばせば届く距離だというのに、そのわずかな空間が果てしなく遠く感じられた。
私は奪い取った真鍮の鍵束を振るわせながら、鉄格子の錠前へと手を伸ばした。だが、何度鍵穴にねじ込もうとしても、鍵は奥まで刺さらない。
「嘘……なんで……」
焦りで指先が滑る。別の鍵を試す。これもダメだ。よく見れば、その錠前は物理的な鍵穴の奥に、複雑な魔法陣が刻まれた特殊な構造をしていた。先ほどの看守たちが持っていたこの鍵束は、あくまでこの「区画の扉」を開けるためのものであり、彼を閉じ込めている「檻そのもの」を開放する権限は、領主か牢獄長しか持っていないのだ。
『おい!地下だ!地下牢へ急げ!』
『下層の扉を封鎖しろ!ネズミ一匹逃がすな!』
絶望的な事実に気づいたのとほぼ同時に、螺旋階段の方から、怒号と無数の足音が雪崩のように押し寄せてくるのが聞こえた。松明の赤い光が、暗い通路の壁に次々と兵士たちの巨大な影を映し出していく。その数は十や二十ではない。重武装の騎士たちが、完全に殺意を持ってこの地下を目指している。
「っ......」
私は血が滲むほど唇を噛み締めた。隠密作戦は完全に破綻した。魔法の鍵穴を解除するには、複雑な術式解析が必要だが、今の私には時間も、そして何より魔力が残されていない。先ほどの看守二人を無力化するための氷と風の魔法で、私の体内を巡るマナは完全に底を突いていた。
逃げるなら今しかない。兵士たちがこの特別区画に雪崩れ込んでくる前に、狂乱する魔物たちの陰に隠れて地上への別のルートを探せば、私一人ならまだ生き延びる道はあるかもしれない。
だが、そんな選択肢は最初から存在しなかった。私は鉄格子の奥で、騒ぎの中でもただ静かに背中を丸めている緑色の相棒から目を逸らさなかった。彼を置いていくくらいなら、ここで一緒に串刺しにされた方がマシだ。
迫り来る兵士たちの足音が、すぐそこまで来ている。私はゆっくりと立ち上がり、特別区画の入り口を見据えた。
248:覚悟を決める時
追い詰められた。武器はない。魔力は枯渇。背後には開かない鉄格子。目の前からは完全武装の騎士団。盤面だけを見れば、チェックメイトだ。
だが、私の頭の中は奇妙なほど冷え切っていた。アカデミーで安全な結界の中にいた頃の私なら、とっくに膝を抱えて泣き叫んでいたはずだ。しかし、この数ヶ月、ガブと共に泥水を啜り、数々の死線を越えてきた私の魂は、絶望の淵に立たされてなお「次の一手」を探し求めていた。
(この包囲網を突破して、なおかつあの魔法の錠前を破壊する方法)
正面突破は不可能。ならば、どうする?敵の戦力を分散させ、地下牢の管理システムそのものを麻痺させるほどの「圧倒的な混乱」を引き起こすしかない。この堅牢な領主の館全体を巻き込む、巨大な厄災。
私は、壁に掛けられた松明の炎を見つめた。そして、天井付近に口を開けている、地上階へと続く古く油まみれの通気口を。
「やるしかないわね」
覚悟を決めた。私は領主の館を、燃やす。
ただのボヤではない。兵士たちが地下にかまけていられなくなるほどの、大火災だ。もちろん、一歩間違えれば私もガブも焼け死ぬ。だが、何もしなければ確実に殺される。ならば、地獄の業火の中でもがく方を選ぶ。
私は目を閉じ、自らの内側に残された、命の欠片とも言える最後の生命力を削り取って、精霊への供物とした。
(全てを喰らい尽くす、猛る炎の精霊たちよ。そして、その宴を煽る熱風の妖精たちよ。私の命の灯火を対価として捧げます)
全身の血が逆流するような感覚。視界が真っ赤に染まり、鼻血がツーと頬を伝い落ちる。限界を超えた詠唱は、自身の肉体を破壊する行為だ。だが構わない。
(どうか、この淀んだ傲慢なる館に、紅蓮の舞を。地を這う火の粉を通気口より天へと導き、全てを灰に還す浄化の炎を、私に貸していただけないでしょうか!)
私は偽装用のボロ布を巻いたままの杖を、壁の松明へと勢いよく叩きつけた。バキンッ!という音と共に、杖の先端を隠していた布と木の葉が燃え上がり、中から純度の高い輝きを放つ大きな水晶が姿を現す。魔女リゼットの、真の杖。
「『焦熱の嵐』!!」
血を吐くような叫びと共に、私は燃え盛る杖を通気口へ向けて振り抜いた。松明の炎が意思を持ったように膨れ上がり、私の放った風の魔法と混ざり合って、巨大な炎の竜巻へと変貌する。ゴォォォォォォッ!!凄まじい轟音と共に、炎の竜巻は油の染み付いた通気口を舐め上げるようにして、地上の階層へと一気に駆け上がっていった。
「な、なんだあの熱は!?」
「火事だ!上の階が燃えてるぞ!!」
地下に降りてこようとしていた兵士たちの怒号が、たちまち悲鳴へと変わる。私の狙い通り、炎は通気口を通じて一階の木製の回廊やタペストリーに引火し、あっという間に燃え広がったのだ。館中に立ち込める焦げ臭い煙。パニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように引き返していく兵士たちの足音。
混沌が生まれた。
私は杖を握りしめたまま、荒い息を吐き出した。全身の力が抜けそうになるが、まだ倒れるわけにはいかない。煙が充満し始めた地下空間で、私は再び鉄格子の方へと振り返った。
王国の法を破り、領主の館に火を放った。私はこれで、正真正銘の「極悪非道な魔女」だ。けれど、少しも後悔はしていなかった。
「待たせたわね」
私は熱を帯びた水晶の杖を、開かない魔法の錠前へと突きつけた。煙の向こう側で、ずっと背中を向けていたその小さな影が、ゆっくりとこちらを振り向くのが見えた。




