EP83
244:「腹減った」と考える
カチャリ……。重厚な鉄の扉が閉まる音は、まるで私自身をこの暗黒の空間に閉じ込める墓標の音のようだった。
目の前には、どこまでも下へと続く螺旋状の石階段。壁にまばらに掛けられた松明の炎は、空気の薄さのせいか青白く、頼りなく揺らめいている。壁面は地下水が滲み出し、触れれば氷のように冷たく、ぬるりとしていた。私は気絶させた兵士から奪った鍵束を帯にしっかりと結びつけ、音を立てないように階段を下り始めた。
グゥゥゥ……。極度の緊張状態だというのに、私の胃袋が場違いなほど大きな音を鳴らした。慌てて両手でお腹を押さえる。丸一日ろくなものを食べていない。先ほどの兵士への襲撃や、石壁を登るために使った魔力の消費が、私の肉体を限界まで削り取っていた。眩暈がして、階段を踏み外しそうになる。
「しっかりしなきゃ」
小声で自分を叱咤する。空腹は思考を鈍らせ、恐怖を何倍にも膨れ上がらせる。この暗く冷たい階段を下りていると、見えない闇の奥から無数の手が伸びてきて、私を深淵へと引きずり込んでいくような錯覚に陥りそうだった。怖い。帰りたい。気を抜けば、そんな弱音が口をついて出そうになる。
(ダメよ。こんな時、あいつなら……)
私はまぶたの裏に、あの緑色の相棒の顔を思い浮かべた。雪山で遭難しかけた時も、追っ手に囲まれた時も、ガブは決して「怖い」とは言わなかった。彼が極限状態でいつも口にしていた言葉。それは、「腹減った」だった。
『おいリゼ、死ぬ前に美味い肉が食いたいな』
『こんなところでくたばってたまるか。オレは王都の御馳走を食うまで死なないぞ』
彼のその底抜けの食欲とポジティブさは、どんな絶望的な状況でも、私の心に「まだ生きていける」という希望の火を灯してくれた。恐怖に支配されそうになるなら、いっそ別の欲望で上書きしてしまえばいい。
「腹減った」
私はわざとガブの口調を真似て呟いてみた。すると不思議なことに、震えていた膝に少しだけ力が入った気がした。
(そうよ。ガブを助け出したら、絶対に二人でお腹いっぱい美味しいものを食べるんだから)
頭の中に、こんがりと焼けた厚切り肉や、湯気を立てるふかふかのパン、甘い果実のタルトを思い描く。恐怖を、食欲と未来への渇望に変換するのだ。「死にたくない」ではなく、「生きて、美味しいものを食べる」。彼が教えてくれた、世界で一番泥臭くて、一番強い魔法。
一段また一段。足取りに確かな力が戻っていく。螺旋階段を完全に下り切ると、そこは一本の長い石造りの通路になっていた。通路の両側には、分厚い木の扉や鉄格子がずらりと並んでいる。第一層。おそらくここは、人間の罪人や政治犯が入れられている区画だろう。
私の目的はここではない。噂によれば、領主が収集した「魔物」たちは、さらに奥深い場所――特別地下牢に繋がれているはずだ。私は壁の影に溶け込みながら、通路の奥、さらに下へと続く階段を探して、足音を殺して進んでいった。
245:地下牢の匂い
地下二層へ足を踏み入れた瞬間、私は思わず鼻を覆った。
「うっ……」
空気が、一層とは全く違っていた。長年染み付いたカビと湿った土の匂いに混じって、強烈なアンモニア臭と、獣の体臭、そして生々しい血の匂いが鼻腔を激しく突き刺したのだ。ここは人間の居場所ではない。魔物を飼い殺しにするための、文字通りの「檻」だ。
通路は一層よりも暗く、松明の数も極端に少ない。鉄格子の奥からは、ゴロゴロという低い唸り声や、鎖がガチャガチャと擦れる音、そして時折、正気を失ったような奇声が聞こえてくる。私は身をすくませ、壁に張り付くようにして進んだ。
(暗がりに潜む影の精霊たちよ。どうか私の輪郭を闇に溶かし、この狂気と絶望に満ちた檻の中で、私の気配を消し去ってはいただけないでしょうか)
私は祈るように魔力を練り、自身の存在感を極限まで薄くした。檻の中にいる魔物たちは、嗅覚や聴覚が人間よりもずっと鋭い。彼らが私の存在に気づいて騒ぎ出せば、見張りの兵士がすぐに飛んでくるだろう。
鉄格子の中を横目で窺う。巨大な双頭の狼、鱗が剥がれ落ちた大蛇、翼を折られた怪鳥……。どれも本来なら森や山で自由に生きているはずの誇り高き魔物たちが、ひどく痩せ細り、絶望に満ちた目で暗闇を見つめていた。領主の「悪趣味なコレクション」という噂は本当だった。ここにいるのは、見世物として、あるいは鬱憤晴らしの玩具として集められた命だ。
怒りが、恐怖を塗り潰していく。ガブも、このおぞましい場所に閉じ込められているのだ。
(どこ……?どこにいるの、ガブ)
私は立ち止まり、目を閉じて意識を研ぎ澄ませた。これだけ強烈な悪臭が充満していても、私の嗅覚は、あの懐かしい匂いを探し求めていた。ガブの匂い。それは森の湿った腐葉土のような、あるいは彼がいつも薬草として持ち歩いていた苦いハーブのような、独特の匂いだ。
(風の精霊さん。どうかこの淀んだ空気の中から、私の大切な友達の匂いだけを、ひとすじの糸のように手繰り寄せてはくれないでしょうか)
微かな気流の変化。私の鼻先を、かすかに、本当に微かに、あの泥臭いハーブの匂いが掠めた。
「あっちだわ」
匂いが流れてきたのは、通路の最奥。他の檻とは明らかに構造が違う、特別な区画だ。そこは分厚い石の壁で仕切られており、入り口にはさらに頑丈な鉄の扉が設置されている。あの奥に、明日の晩餐会で「特別な見世物」として披露される予定のガブがいるに違いない。
私は足早に、しかし慎重に、匂いの源へと近づいていった。だが、特別区画の扉の前には、これまでの怠慢な見張りとは違う、全身を重装甲で固めた屈強な看守が二名、長槍を構えて微動だにせず立っていた。
突破口を見つけるため、私は闇の中で息を潜め、彼らの腰元を凝視した。
246:再会のための鍵
特別区画を守る二人の看守。彼らの腰には、鈍く光る真鍮製の大きな鍵束がぶら下がっていた。私が一層の入り口で奪った鍵束をこっそりと取り出し、見比べてみる。形状も大きさも全く違う。
「やっぱり、この鍵じゃ開かないわね」
特別区画の扉は、あの看守たちが持っている専用の鍵でなければ開けられない構造になっているようだ。ガブに再会するためには、あの二人を無力化し、鍵を奪い取るしかない。
だがどうやって?相手は重武装。しかも、一層の門兵のように世間話をして油断している様子もなく、周囲の暗闇に鋭い視線を巡らせている。小石を投げて陽動しようにも、ここは袋小路で、彼らの意識を完全に逸らすほどの逃げ場がない。
残された魔力は、もうごく僅かだ。精霊たちに大きな負荷をかけるような攻撃魔法は撃てない。それに、ここで派手な魔法を使えば、その光と音で確実に他の兵士たちが駆けつけてくる。
(無音で、確実に二人を眠らせる。そんなこと、今の私にできるの?)
私は偽装した杖の柄を強く握りしめた。手のひらに冷や汗が滲む。思考を巡らせろ。アカデミーで学んだ知識、そしてこれまでの旅で経験した全てを総動員するんだ。
ふと、私の足元に溜まっていた、地下特有の冷たく湿った空気に気がついた。地下水が壁から滲み出し、床は常に濡れている。水と、冷気。
(これなら、いけるかもしれない)
私は目を閉じ、残された全ての魔力を杖の先端にゆっくりと集束させた。暴力的な力ではない。極めて繊細で、静かなる力の行使。
(大気を漂う微小なる水の精霊たちよ。そして、熱を奪い去る氷の妖精たちよ。どうか私の切なる願いを聞き届けてください。あの者たちの足元に、音なき眠りの罠を、一瞬にして編み上げてはいただけないでしょうか)
私は杖の先端を、足元の濡れた石畳にそっと触れさせた。
「『凍てつく足枷』……!」
ピキ、ピキピキッ……。極めて小さな音と共に、私の足元から這うようにして、床の水分が急速に凍結し始めた。氷の筋は闇に紛れて床を滑り、二人の看守の足元へと音もなく到達する。
「ん……?なんだ、急に冷え込んでき……」
看守の一人が異変に気づき、足元を見下ろした。だが遅い。
彼らの鉄靴は、すでに分厚い氷の塊によって石畳と完全に癒着させられていた。
「なっ!足が動かん!?」
「おい、何事だ!魔法か!?」
二人がパニックに陥り、無理やり足を引っこ抜こうと身をよじる。その隙を突いて、私は柱の陰から飛び出した。彼らが槍を構え直すよりも早く、風の精霊に最後の力を借りる。
(風よ、彼らの意識を刈り取る鈍器となって!)
「『風の槌』!」
不可視の風の塊が、彼らの兜越しに後頭部を痛打した。足元を固定されているため、衝撃を逃がすことができず、二人の看守は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。氷の枷がなければ、倒れる音で大騒ぎになっていただろうが、固定されたまま上半身だけがだらりと垂れ下がった。
「はぁっ、はぁっ……」
成功した。私は膝をつきそうになるのをこらえ、気絶した看守の腰から真鍮の鍵束を奪い取った。魔力を使い果たし、視界がチカチカと点滅している。
だが、再会のための鍵は手に入れた。私は震える手で、特別区画の重い鉄扉の鍵穴に、一番大きな鍵を差し込んだ。ガチャン、と重々しい手応えと共に、錠が外れる。
扉を押し開けると、そこは他とは比べ物にならないほど厳重な、極太の鉄格子で囲まれた一つの大きな独房だった。
暗闇の中。鉄格子の向こう側の、冷たい石の床の上。そこに、鎖に繋がれた小さな緑色の背中があった。
「ガブ」
声が震えた。間違いなく彼だ。私は鉄格子にすがりつき、もう一度、彼の名前を呼ぼうとした。
その時だった。カンッ!カンッ!カンッ!!
突然、鼓膜をつんざくような鋭い金属音が、館の全域に鳴り響いた。それはただの物音ではない。侵入者の存在を知らせる、警報の鐘だった。




