EP82
241:潜入作戦
太陽が西の稜線に沈み、空が赤銅色から深い藍色へと染まっていく。私は丘の茂みに身を伏せたまま、じっと領主の館を見下ろしていた。夜の帳が下りると同時に、館のあちこちに松明が灯され、オレンジ色の光が庭園の輪郭を浮かび上がらせる。それはまるで、暗闇の中に口を開けた巨大な獣のようだった。
私は冷え切った手をこすり合わせた。これからあの獣の腹の中へ、一人で飛び込まなければならない。正面の跳ね橋はすでに上がり、強固な鉄格子が下ろされている。堀の水は黒々と淀み、深さも底知れない。
「行くしかないわね」
私は小さく息を吐き、茂みから這い出した。目指すのは、昼間に目を星をつけておいた西側の外壁だ。あの辺りは堀の幅がわずかに狭く、かつて庭園の拡張工事に使われたのか、古い石橋の残骸のようなものが水面から少しだけ顔を出している。
闇に紛れて斜面を下り、堀の縁に立つ。水からは、苔と泥の腐ったような臭いが立ち上っていた。私はブーツの紐をきつく結び直し、偽装した杖を背中の帯にしっかりと固定した。
(静寂を愛する水の精霊たちよ。どうか、私がこの水面を渡るわずかな間だけ、その波音を鎮め、私の足音を水底へと隠してはいただけないでしょうか)
魔力を最小限に抑え、祈るように囁く。水面がふわりと揺れ、水滴が一瞬だけ空中で止まったように見えた。精霊たちが、私の決意に応えてくれたのだ。私は音を立てないように、滑りやすい石橋の残骸へと足を乗せた。冷たい水が足首まで浸かるが、気にしてはいられない。飛び石のように残骸を渡り、最後は跳躍して対岸の石壁に張り付いた。
ここからが本番だ。見上げるような高さの、滑らかな灰色の石壁。蔦が絡まっている部分もあるが、それだけで登り切るのは不可能に近い。
(悠久の時を刻む土の精霊さん。私の小さな指先と足先を支える、ほんの僅かな出っ張りを、この冷たい石の表面に貸していただけないでしょうか)
石壁に両手をつき、魔力を流し込む。ゴゴッ……と微かな音がして、私の手のひらの下で石の表面がわずかに隆起した。数センチにも満たない、しかし命を預けるには十分な突起。私はそれをつかみ、足をかけ、体を持ち上げる。
一段、また一段。魔法で足場を作りながらの登攀は、予想以上に魔力と体力を削り取っていった。腕の筋肉が悲鳴を上げ、爪の間に泥と血が滲む。下を見れば、真っ暗な堀が口を開けている。落ちれば骨折では済まないし、水音で確実に見張りに気づかれる。
「くっ……ぁ……」
息が上がる。だが止まるわけにはいかない。上空を巡回する歩哨の足音が聞こえるたびに、壁に張り付いて息を殺した。永遠にも思える時間をかけ、ついに壁の最上部、胸壁の縁に手が届いた。
私はゆっくりと頭を出し、周囲を窺う。兵士が背を向けた一瞬の隙を突き、音もなく壁を乗り越え、庭園の植え込みの陰へと転がり込んだ。
侵入成功。心臓が早鐘のように打っている。だが、安堵している暇はない。ここはまだ敵地の入り口。あの通気口から聞こえた獣の呻き声、そして地下牢へと続く入り口を見つけ出さなければ、ガブには辿り着けない。私は呼吸を整え、闇に溶け込むように館の裏口へと忍び寄っていった。
242:孤独な夜の長さ
館の内部は、外観の壮麗さとは裏腹に、どこか冷たく無機質な空気に満ちていた。裏口の鍵は、錆びついた古いものだったため、細い針金と少しの魔力で容易に開けることができた。勝手口から調理場を抜け、使用人たちが使う薄暗い裏廊下へと出る。
壁には等間隔で蝋燭が灯されているが、その光は頼りなく、深い影をあちこちに落としている。私は分厚いタペストリーの裏や、装飾用の甲冑の陰に身を隠しながら、少しずつ奥へと進んでいった。
カツ、カツ、カツ……。硬いブーツの足音が響いてくる。私は息を呑み、大きな飾り壺の陰に身を縮めた。二人の見回り兵が、世間話をしながら目の前を通り過ぎていく。
「明日の晩餐会、護衛の数が増えるらしいぞ」
「ああ、あの喋る小鬼のせいだろ。領主様も物好きだよな。わざわざ貴族連中を集めて見世物にするなんて」
「噛みつかれたりしなきゃいいがな……」
足音が遠ざかり、再び静寂が戻る。私は壁に背中を預け、冷や汗を拭った。
(怖い)
ふと、そんな感情が胸に湧き上がってきた。館の中は広大で、迷路のようだ。どこに兵士が潜んでいるか分からず、少しの物音で命取りになる。もし見つかったら。もし捕まったら。最悪の想像ばかりが頭を駆け巡る。
今までこんな極限状態の時、私の隣には必ずガブがいた。野宿をする夜、暗闇の森を抜ける時、彼が私の前に立ち、「オレの背中から離れるなよ」と笑ってくれていた。彼がどれほど周囲を警戒し、私のために安全を確保してくれていたか。一人になって初めて、その重圧を肌で感じていた。
孤独。それはただ「一人でいる」ことではなく、全ての判断と責任を自分一人で負わなければならないという恐怖だ。右に行くべきか、左に行くべきか。進むべきか、隠れるべきか。間違えれば、終わる。
窓の外を見ると、月はまだ空の低い位置にあった。夜は始まったばかりだ。この孤独な時間が、あと何時間続くのだろう。暗闇の中で耳を澄ませていると、自分の鼓動の音さえもが敵の足音に聞こえてくる。
「ガブ」
声に出さず、口の形だけで名前を呼ぶ。弱音を吐きそうになる自分を、必死に奮い立たせる。
(泣いてる場合じゃない。あいつは今、もっと暗くて冷たい場所で、一人で耐えてるんだから)
彼は私を信じて、時間を稼いでくれている。「リゼなら絶対に助けに来る」と。その信頼に応えなくてどうする。
私は頬を両手で軽く叩き、気合を入れ直した。地下への階段を探さなければならない。構造上、調理場や食料庫の近くに、地下への入り口があるはずだ。私は再び影から影へと移動を開始した。時間は無限に長く感じられたが、止まっている余裕は一秒たりともなかった。
243:ガブならどうする?
館の東棟と西棟を繋ぐ渡り廊下の手前。私は太い柱の陰から、前方を見据えていた。見つけたのだ。頑丈な鉄の扉で閉ざされ、下へと続く下り階段を。だが、問題はそこに立ちはだかる二人の門兵だった。彼らは槍を交差させ、明らかに特別な場所を警備する構えを見せている。あそこが地下牢への入り口に違いない。
どうやって突破する?魔法で眠らせる?いや、今の私の残存魔力では、二人同時に、しかも無音で眠らせるような高度な魔法は使えない。抵抗されれば大声を上げられ、館中の兵士が集まってくる。
私は唇を噛んだ。昔の私なら、ここでパニックになっていただろう。本に書いてある魔法の知識をどれだけ引っ張り出しても、現状を打破する解決策は見つからない。
(落ち着いて。ガブなら、こんな時どうする?)
私は目を閉じ、あの緑色の相棒の思考をトレースしようと試みた。彼は力押しを好まない。相手が自分より強く、数が多い時、彼はいつも「悪知恵」を働かせていた。
『バカ。真正面から行く奴があるか。相手の意識を逸らせ。人間は、見たいものしか見ないんだから』
頭の中で、彼の生意気な声が響いた気がした。意識を逸らす。陽動だ。
私は周囲を見渡した。渡り廊下の壁には、高価そうな陶器の皿がいくつか飾られている。そして、廊下の反対側には、中庭へと続く小さな扉があった。
私は懐から、拾っておいた小石を取り出した。そして、精霊に小さく祈りを捧げる。
(悪戯好きな風の妖精たちよ。どうか、あの石に命を吹き込み、あちらの扉の向こうで、派手に踊らせてはいただけないでしょうか)
指先から微かな魔力を石に込める。
「『風の礫』」
声に出さず、手首のスナップだけで小石を中庭の扉の方へ弾き飛ばした。風の魔法を帯びた小石は、カーブを描いて扉の奥にある中庭の石畳に激突し、さらに跳ね返って近くの金属製のバケツに当たった。
ガランッ!!ガシャガシャガシャッ!!
静まり返った夜の館に、不釣り合いなほど大きな騒音が響き渡った。
「な、なんだ!?」
「中庭の方だ!誰かいるのか!」
扉の前にいた二人の門兵が、一斉に声のした方へ顔を向けた。彼らは顔を見合わせ、槍を構える。
「俺が見てくる。お前はここを離れるなよ」
「ああ、気をつけろ」
一人が中庭へと駆け出していく。残った一人は、緊張した面持ちで廊下の奥を睨みつけている。人数は半分になった。だが、まだ一人残っている。しかも警戒度は上がってしまった。
(まだだ。もう一押し……)
私は柱の陰で、もう一つの小石を握りしめた。残った兵士の意識を完全にこちらから逸らす必要がある。
私は兵士の背後、鉄の扉のすぐ横にある燭台に目をつけた。再び風の魔法を使い、今度は小石を燭台の根元にぶつける。
ガンッ!
燭台が揺れ、上の蝋燭がポロリと床に落ちた。
「ひっ!?」
兵士がビクッと肩を揺らし、慌てて振り返る。
「なんだ、風か……?気味が悪い……」
彼が落ちた蝋燭を拾い上げようと、背を向けてしゃがみ込んだその瞬間。私は柱の陰から飛び出した。足音を殺し、風のように床を滑る。彼が蝋燭を拾い、立ち上がろうとした時には、私はすでに彼の背後にピタリと張り付いていた。偽装した杖の硬い柄の部分を両手で握りしめる。魔法ではない。純粋な物理攻撃。
「ごめんなさい……!」
心の中で謝罪し、私は兵士の後頭部をめがけて、杖を力いっぱいに振り下ろした。ゴツッという鈍い音がして、兵士は声も出さずに崩れ落ちた。
私は慌てて彼の体を支え、床に音を立てないように寝かせる。手が震えていた。人を殴って気絶させたのは初めてだった。
「できた」
ガブの教えと、私の決意。それが、分厚い壁を一つ突破させた。私は気絶した兵士の腰から、ジャラジャラと鳴る鍵束を奪い取った。
冷たい鉄の扉に鍵を差し込む。カチャリ、と重い音がして、扉が僅かに開いた。そこから漏れ出してきたのは、カビと、排泄物と、そして血の匂いが混じり合った、むせ返るような地下牢の空気だった。
私は唾を飲み込み、その暗い口の中へと足を踏み入れた。




