EP80
235:誰にも頼れない
酒場の勝手口から裏路地へ転がり出ると、冷たい夜風が火照った頬を打ち据えた。背後からは、酒場の中で騒ぐ男たちの怒声と、物が倒れるガシャーンという音が響いてくる。私が放った目眩ましの霧が晴れるのも、時間の問題だろう。
「こっちだ!川沿いの道も固めろ!」
遠くから聞こえる甲冑が擦れ合う音と、馬のいななき。村の入り口付近には、すでに松明の赤い炎がいくつも揺らめいていた。騎士団が村を封鎖しにかかっている。私はフードを深く被り直し、足音を殺して闇の中へと駆け出した。目指すのは、村を囲む鬱蒼とした森だ。街道を歩けば一発で見つかる。今はとにかく、追手の視界から完全に消えるしかなかった。
泥濘に足を取られながら、息を切らして斜面をよじ登る。木々の間に身を隠し、太い木の幹に背中を預けて座り込んだ。心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打っている。
眼下に見える村には、アリの群れのように騎士たちが散開していくのが見えた。家々の扉が乱暴に叩かれ、村人たちが広場に集められている。手配書の「魔女」を探し出すための、徹底的な家宅捜索が始まったのだ。
「危なかった」
震える手で口元を押さえる。もしあと数分、あの酒場に長居していたら。もしあの村人が私の正体に気づくのが早かったら。今頃、私は後ろ手に縛られ、ガブと同じように冷たい檻の中に放り込まれていただろう。
ガブ。その名前を頭に浮かべた瞬間、胸の奥がギリッと締め付けられた。彼は隣町「オクテット」の領主の館に運ばれた。見世物にするためか、あるいはもっと残酷な目的のために。急がなければならない。彼がどんな目に遭っているか想像するだけで、吐き気がした。
だが、現実はあまりにも厳しかった。私は完全に一人だ。今までは、どんな危険な状況でも、隣にはいつもあの小さな緑色の相棒がいた。追手が来れば「こっちだ!」と私の手を引き、道に迷えば鼻を利かせて安全なルートを見つけてくれた。お腹が空けば狩りをして、夜になれば温かい火を起こしてくれた。
けれど今、私の隣には誰もいない。頼れる背中はなく、ツッコミを入れてくれる声もない。リュックも、お金も、食料もない。あるのは、ぼろぼろになった服と、泥で偽装した杖だけ。
「暗い」
森の中は、月明かりさえ届かない完全な漆黒だった。木の根に躓き、顔に蜘蛛の巣が張り付く。ガサリと落ち葉が鳴るだけで、魔物が潜んでいるのではないかと体が強張った。怖い。誰かに助けてほしい。アカデミーにいた頃の私なら、きっとその場にしゃがみ込んで泣きじゃくっていただろう。「誰かお迎えに来て」と。
でも今は違う。誰も迎えには来ない。誰も私を助けてはくれない。私が助けを求める側ではない。私が、ガブを助けに行くのだ。
(闇夜を優しく照らす光の精霊さん。どうか、ほんの少しだけでいいのです。私の足元を照らす、ホタルのような灯りを分けてはいただけないでしょうか)
私は杖の先端をそっと撫で、心の中で祈るように詠唱した。魔力は限界に近い。大きな魔法は使えない。杖の先に、ポゥッと淡い、本当に小さな光が灯った。周囲一メートルほどをうっすらと照らすだけの、頼りない明かり。
「ありがとう……」
私はその小さな光を頼りに、立ち上がった。方角は川の下流。隣町オクテットまでは、普通に歩けば半日の距離だという。だが、この暗い森を迂回しながら進めば、どれだけ時間がかかるかわからない。それでも、進むしかなかった。誰にも頼れないのなら、自分自身の足で、この闇を切り裂いていくしかないのだ。私はギュッと唇を噛み締め、木々の隙間を縫うようにして、重い一歩を踏み出した。
236:自分の足で歩く
夜の森は、静寂と喧騒が入り混じった異質な空間だった。遠くでフクロウが鳴き、名も知らぬ虫たちが足元で蠢く音がする。風が木々の梢を揺らす音は、まるで無数の死者が囁き合っているように聞こえた。
私は、ただひたすらに歩き続けていた。何度転んだかわからない。斜面を滑り落ち、泥だらけになりながら、その度に立ち上がった。薄っぺらなブーツはすっかり水を吸って重くなり、靴底は岩や木の根で削れて限界を迎えつつある。踵にはマメができ、それが潰れて、一歩踏み出すたびに焼けるような激痛が走った。
「痛っ……ぅ……」
木の幹に手をつき、荒い息を吐く。体中が痛い。足の感覚はとうに麻痺し、今はただの棒切れを引きずっているようだった。お腹は空きすぎて、胃液がせり上がってくる感覚に襲われる。喉も渇いていたが、暗闇の中で安全な水場を見つけることは不可能だった。
(もう、休みたい……)
甘い誘惑が脳裏をかすめる。このふかふかの落ち葉の上に横たわって、目を閉じてしまえば、どんなに楽だろう。どうせ私は指名手配犯だ。ここで野垂れ死んだところで、誰も悲しみはしない。世界は何も変わらない。
その時。脳裏に、あの生意気なゴブリンの声が響いた。
『おいおい、リゼ。まさかそこで寝る気じゃないだろうな。オレの作ったスープを食いそびれるぞ?』
幻聴だ。わかっている。でも、その声はあまりにもリアルで、私は弾かれたように顔を上げた。
「バカなこと、言わないでよ」
私は誰に言うともなく呟いた。ガブは、私を逃がすために、あの絶望的な状況で騎士団に特攻した。何本もの槍に突かれ、盾で殴られながらも、最後の最後まで私を守り抜いた。あの小さな体のどこに、あんな力があったのだろう。彼は文句ひとつ言わず、私のために血を流してくれた。
それなのに、私が足の痛みや空腹ごときで立ち止まるなんて、許されるはずがない。
私は思い出した。アカデミーを追放され、初めてガブと共に旅に出た日のことを。あの時も、私はすぐ「足が痛い」「疲れた」と文句ばかり言っていた。ガブは呆れながらも、私の荷物を持ってくれたり、歩きやすい道を探してくれたりした。私はずっと、彼に「歩かせてもらって」いたのだ。物理的にも、精神的にも。
私はポケットに手を入れた。そこには、冷たい鍋の取っ手と、乾きかけたスカーフの切れ端が入っている。その感触が、私に力をくれた。
「歩くわよ。私の足で」
私は靴を脱ぎ、ボロボロになっていたローブの裾を力任せに引き裂いた。それを潰れたマメのある足に巻きつけ、簡易的な包帯の代わりにする。再び靴を履き直すと、痛みは少しだけ和らいだ。
「これくらい、なんてことない」
自分に言い聞かせ、私は再び歩き出した。魔法に頼るわけでもなく、誰かの手を借りるわけでもなく。一歩、また一歩。自分の体重を自分の足で支え、地面を踏みしめる。その単調な反復運動が、不思議と私の心を研ぎ澄ませていくのを感じた。
温室育ちで、本の中の知識しか持たなかった「魔女リゼット」は、もういない。泥水をすすり、痛みに耐え、大切なものを取り戻すために暗闇を進む。それが今の私だ。もしガブが今の私を見たら、なんて言うだろう。『おっ、ちょっとはマシな面構えになったじゃないか』と、ニカッと笑ってくれるだろうか。その笑顔をもう一度見るためなら、この足が千切れたって構わない。
夜の冷気が次第に底を打ち、空気が僅かに変わり始めていた。終わりが見えなかった暗黒の森に、朝の気配が近づいていた。
237:弱虫はもういない
ピヨッ、ピピピ……。小鳥のさえずりが、夜の沈黙を破った。東の空が、藍色から薄紫、そして淡いオレンジ色へとグラデーションを描きながら白んでいく。夜明けだ。
私は森の切れ目に立ち、朝日に目を細めた。一晩中歩き通した私の体は、文字通り限界を迎えていた。手足は鉛のように重く、唇は乾燥してひび割れ、少し動かすだけで血が滲む。しかし、私の心はこれまでにないほど澄み切っていた。まるで、長い夜の間に、心の中の不純物が全て削ぎ落とされたかのように。
森を抜けた先には、なだらかな丘陵地帯が広がっていた。そして、その丘の向こう。朝靄の中に浮かび上がるように、高い城壁に囲まれた街のシルエットが見えた。中央には、周囲の建物を見下ろすようにそびえ立つ、豪奢な尖塔を持つ大きな館。
「あれが、オクテットの町」
間違いない。領主の館だ。あそこに、ガブがいる。
目的の場所を視界に捉え、私は大きく深呼吸をした。冷たく澄んだ朝の空気が、肺の隅々まで満たされる。私は杖を地面に置き、自分の姿を見下ろした。昨夜、足の包帯代わりにするために裂いたローブの裾は不揃いになり、あちこちが泥や木の汁で汚れきっている。かつて私が誇りにしていた、高貴な魔女の証であるローブは、もう見る影もなかった。
「もう、こんなもの必要ないわね」
私は迷うことなく、ローブの長い裾を膝丈まで一気に引きちぎった。動きにくかった長い布がなくなるだけで、足取りがずっと軽くなる。さらに、長い髪を後ろで無造作に束ね、ちぎった布の切れ端でしっかりと縛り上げた。
水たまりに映った自分の姿を見る。そこには、怯えて泣いていた少女の面影はない。泥にまみれ、鋭い目つきをした、戦う覚悟を決めた一人の人間がいた。
「待っててガブ。今行くから」
恐怖はなかった。領主の館に何人の兵士がいようと、どんな罠が張られていようと、関係ない。私はもう、逃げない。理不尽な世界から隠れて、ひっそりと生きるような真似はもうしない。大切なものを奪われたのなら、自分の手で奪い返す。彼が私のために命を懸けてくれたように、今度は私が、私の命を懸けて彼を助け出す。
私は偽装した杖を拾い上げ、ギュッと握り直した。弱虫の「リゼ」は、あの暗い森の中に置いてきた。ここから先は、手段を選ばない。
太陽が完全に地平線から顔を出し、黄金色の光がオクテットの町を照らし出した。それは、これから始まる過酷な戦いのゴングのように私の目に映った。
私は丘を下り始めた。足の痛みも、空腹も、今はもう感じない。視線の先にあるのは、ただ一つ。あの傲慢な塔の地下で、私を待っているであろう、たった一人の大切な友達の姿だけだった。
(さあ行こう。私たちの旅の続きを、取り戻すために)
力強い足取りで、私は敵陣へと続く道を進んでいった。




