EP79
232:捜索開始
遠くに見えた煙。あれは間違いなく人が住む集落の証だ。私は杖を握り直し、その煙の方角――川の下流へと向かって歩を進めた。
だが、ただ歩くだけでは意味がない。ガブがすでに自力で村に辿り着いているならそれでいい。しかし、もし途中で力尽き、岸に打ち上げられたまま動けなくなっているとしたら……。私は村への直行ルートを選ばず、敢えて足場の悪い波打ち際を歩くことにした。
「お願い。そこにいて」
増水したルベリア川が削り取った岸辺は、泥と岩が混じり合い、一歩踏み出すたびに足首まで沈み込むような悪路だった。それでも私は、目を皿のようにして地面を這うように進んだ。
流木が山のように積み重なっている場所がある。私はその一つ一つを、杖を使って慎重にかき分けた。泥だらけの衣服の切れ端や、壊れた農具、魚の死骸。嵐の爪痕は生々しいが、私が探している緑色の姿は見当たらない。
数キロほど歩き、疲労で足が棒のようになりかけた時だった。川が大きく湾曲し、流れが淀んでいる浅瀬に差しかかった。そこには上流から流されてきた多くの漂流物が溜まっていた。
私の視線が、ある一点に釘付けになった。泥にまみれた葦の茂みに、何かが引っかかっている。赤と白の、格子柄の布。
「あっ……!」
心臓が跳ね上がる。私は泥濘に足を取られながらも、転がるように駆け寄った。震える手でそれを拾い上げる。水分を含んで重くなったそれは、間違いなく私がガブの傷口に巻いたスカーフだった。
布は解けていた。そして、所々に赤黒いシミが広がっている。血だ。
「ガブ……!」
最悪の想像が頭をよぎり、吐き気がこみ上げる。だが、私は首を振ってそれを打ち消した。スカーフがあるということは、彼は間違いなくここまで流されてきたのだ。そして、結び目が解けているということは、彼がここで身動きを取った証拠かもしれない。もがいて、這い上がろうとして、その拍子に外れたのかもしれない。
私は周囲の泥地を必死に調べた。昨夜の雨で足跡は消えかけているが、葦が不自然になぎ倒されている跡がある。誰かが――あるいは何かが、ここから陸地の方へ這い出したような痕跡。
「生きてる……」
確信に近い直感が、冷え切った体に熱を灯した。彼はここで川から上がったのだ。そして、この足跡の向かう先は――。
私は顔を上げた。その先には、先ほど見た煙が、より近く、はっきりと見えていた。
「村へ向かったんだわ」
彼は生きている。そして、助けを求めて村へ向かった。そうに違いない。私はスカーフを泥水で軽く洗い、大切に懐にしまった。それはただの布切れではなく、彼との再会を約束する「希望の切符」だった。
捜索のフェーズは終わった。ここからは追跡だ。私は痛む足に鞭を打ち、速度を上げて歩き出した。目指すは、川下の村。そこで彼が待っているはずだ。
233:川下の村へ
太陽が西に傾き始め、水面が茜色に染まる頃、私はようやく村の入り口付近に辿り着いた。そこは、川漁とわずかな農業で生計を立てているような、静かで小さな集落だった。十数軒の木造家屋が並び、網を繕う老人や、家路を急ぐ村人たちの姿が見える。平和な夕暮れの風景。しかし、その平和さが、今の私には鋭利な刃物のように感じられた。
私は村の手前にある木陰に身を隠し、自分の姿を見下ろした。泥だらけでボロボロのローブ。髪は乱れ、顔色は最悪だろう。そして何より、手には大きな水晶がついた魔法の杖。
「これじゃ、ただの不審者ね」
それだけではない。私は今、王国全土に手配されている「指名手配犯」なのだ。もしこの村に手配書が回っていたら?騎士団の目撃情報が届いていたら?ガブを探して大声で回れば、自ら檻に入りに行くようなものだ。
(慎重にいかなきゃ)
私は深呼吸をし、精霊に語りかけた。
(清らかなる水の精霊たちよ。どうか私の顔と手の汚れを濯いでください。そして風の精霊よ、この衣についた泥を払い落としていただけないでしょうか)
最小限の魔力で身だしなみを整える。顔の泥を落とし、髪を手櫛で整える。そして、一番の問題である杖だ。このままでは魔女だと一目でバレる。
私は近くに生えていた蔦と大きな葉を集め、杖の水晶部分を覆い隠すようにぐるぐると巻きつけた。さらに柄の部分にもボロ布を巻き、泥で汚す。出来上がったのは、みすぼらしいが魔力を感じさせない「ただの太い木の棒」だ。
「よし」
フードを深く被り、顔を隠す。背筋を少し丸め、疲れ果てた旅人を演じる。心臓が早鐘を打つが、立ち止まっているわけにはいかない。ガブがこの村にいるなら、一刻も早く見つけ出さなければ。
私は覚悟を決めて、村への一歩を踏み出した。
村の中に入ると、潮の香りに混じって、夕食を作る煮炊きの匂いが漂ってきた。空腹の胃袋がきゅっと縮む。だが、今は食欲よりも警戒心が勝っていた。
すれ違う村人たちが、ちらりと私を見る。その視線には、よそ者に対する警戒と、憐れみのような色が混じっていた。幸い、すぐに「魔女だ!」と騒がれる様子はない。この辺境の村までは、まだ私の顔は知れ渡っていないのかもしれない。
私は目立たないように、村の中心部へと向かった。井戸のある広場。そこが情報が集まる場所だ。
広場には数人の女性が水汲みに来ていた。私は喉が渇いたふりをして、井戸に近づいた。
「あの……すみません」
できるだけ弱々しい、無害な声を出す。
「旅の者なんですが……お水を一杯、いただけないでしょうか」
女性の一人が、私のボロボロの姿を見て眉をひそめたが、すぐに柄杓を差し出してくれた。
「おやまあ、ひどい格好だねぇ。遭難でもしたのかい?」
「ええ……川沿いで転んでしまって。荷物も流されてしまったんです」
嘘ではない。私は水を一口飲み、渇きを癒やしてから、本題を切り出した。
「あの……私と同じように、川から流れてきた人を見かけませんでしたか?連れの……背の低い男の子なんですけど」
ガブを「男の子」と呼ぶのは苦しいが、「ゴブリン」とは言えない。女性たちは顔を見合わせた。
「川流れ?いやぁ、今日はあんた以外に見かけないねぇ」
「ああ、でもさっき漁師のトムが、何か大きなものが網にかかったって騒いでなかったかい?」
ピクリと耳が反応する。網にかかった?まさか。
「そ、それは……どんなものでしたか?」
私は身を乗り出した。
「さあねぇ。気味が悪いからそのまま流したとか、役人に届けたとか……。詳しくは酒場の方に行けばわかるんじゃないかい?男衆は今ごろ飲んでる時間だよ」
酒場。酔っぱらいが集まる場所は危険だが、口が軽くなる場所でもある。私は礼を言い、教えられた酒場の方角へと足を向けた。
胸騒ぎがする。「気味が悪い」という言葉。それがガブのことを指しているなら、彼は無事では済んでいないかもしれない。
234:情報収集
村で唯一の酒場は、『流木の宿り木』という看板を掲げた古びた建物だった。中からは男たちの笑い声と、安酒の匂いが漏れ出してくる。
私は入り口の扉を少しだけ開け、中の様子を窺った。カウンターと数席のテーブル。漁師や農夫たちが一日の疲れを癒やしている。私はフードを目深に被ったまま、入り口近くの隅の席に滑り込んだ。注文を取りに来た店主には、「水だけ」と頼んで銅貨一枚を渡す――ふりをして、ポケットの鍋の取っ手を握りしめ、困った顔をした。
「すみません……財布を流されてしまって」
店主は呆れた顔をしたが、「一杯だけだぞ」と水を出してくれた。田舎の人は粗野だが親切だ。
私は水をすすりながら、耳を澄ませた。隣のテーブルで、赤ら顔の男たちが話している。
「でよぉ、今朝のあれ、見たか?」
「ああ、見た見た。ありゃあ驚いたな。緑色の肌をしてやがった」
ドクン。心臓が早鐘を打つ。「緑色の肌」。間違いない。
「死体かと思ったが、ピクリと動いたぞ。あれはゴブリンだろ?なんであんなものが流れてくるんだ」「上流で魔物の巣でも壊れたんじゃねぇか?」
生きてる!ガブは生きていたのだ。私はテーブルの下で拳を握りしめ、小さくガッツポーズをした。だが、次の会話が私を凍りつかせた。
「で、どうしたんだ?そのゴブリンは」
「村長が『領主様に届けろ』ってよ。ほら、この辺の領主様は珍しいもんがお好きだろう?生きたゴブリンなんて献上すれば、報奨金が出るかもしれねぇって」
「へぇ、そりゃいい。で、もう運んだのか?」
「ああ、昼過ぎの荷馬車で連れていかれたよ。頑丈な檻に入れてな」
連れていかれた。ここにはもういない。しかも「領主」のもとへ、「献上品」として。
「領主様って……『オクテット』の街の?」
「そうだ。あの館の地下には、とんでもない数の魔物が飼われてるって噂だからな。あのゴブリンも、今ごろは見世物の準備でもされてるんじゃねぇか?」
男たちが下卑た笑い声を上げる。私は唇を噛み切らんばかりに強く閉じた。見世物。飼われる。誇り高いガブが、そんな扱いを受けるなんて。
(助けに行かなきゃ)
居ても立ってもいられず、席を立とうとした時だった。酒場の扉が乱暴に開け放たれた。
「おい、聞いたか!騎士団が来るぞ!」
村人の一人が飛び込んできた。店内が一瞬で静まり返る。
「騎士団だと?なんでこんな漁村に?」
「手配中の『魔女』を探してるんだとよ!上流から川沿いに捜索隊が降りてきてるらしい。もうすぐそこまで来てるぞ!」
私は息を呑んだ。追いつかれた。予想以上に早い。
「魔女の特徴は?」
「若い女で、大きな杖を持ってるらしい。おい、そこの」
飛び込んできた男の視線が、隅に座っている私に向けられた。店中の視線が集中する。ボロボロのローブ。フードで隠した顔。そして、布で隠しているとはいえ、大きな棒。
「お前……よそ者だな?」
誰かが低い声で言った。空気が凍りつく。先ほどまでの牧歌的な雰囲気は消え失せ、敵意と疑念が充満していく。
(まずい……!)
私は反射的に立ち上がった。弁解している時間はない。騎士団が来れば終わりだ。そしてここで捕まれば、ガブを助けに行くこともできなくなる。
「ち、違います!私はただの……」
「怪しいぞ!顔を見せろ!
」男の一人が手を伸ばしてくる。
私はとっさにテーブルの上の水差しをひっくり返した。
「『霧よ』!」
小声で詠唱する。こぼれた水が一瞬で蒸発し、店内に真っ白な蒸気が充満した。
「うわっ!なんだ!?」
「前が見えねぇ!」
混乱する店内。私はその隙に身を屈め、出口とは反対側の、厨房への扉へと走った。勝手口から外へ出るしかない。
外に出ると、夜の闇が濃くなっていた。遠くから、蹄の音が聞こえる。騎士団だ。村の中にも、松明の明かりが増え始めている。
情報収集は完了した。ガブは生きていて、隣町の領主の館にいる。そして私は、追われる身のまま、そこへ向かわなければならない。
誰にも頼れない。金もない。武器もない。あるのは、この身一つと、這ってでも相棒を取り戻すという執念だけ。
私は闇に紛れ、村からの脱出を図った。孤独で過酷な夜が、始まろうとしていた。




