EP8
22:眠れない夜の処方箋
その夜、私は深い闇の底に沈んでいた。
夢を見ていた。実家の屋敷にある、冷たい石造りの広間だ。高い天井からはシャンデリアが威圧的に見下ろし、その下で父と母が私を指差している。
『リゼ、お前は失敗作だ』『攻撃魔法の一つも使えないなんて、我が家の恥さらしめ』『いっそのこと、生まれてこなければよかったのに』
彼らの言葉は鋭い刃となって、私の心臓を突き刺す。周囲には、顔のない貴族たちが群がり、扇子で口元を隠しながら嘲笑している。クスクス、クスクス。その笑い声が、耳鳴りのように響く。私は叫ぼうとするけれど、声が出ない。足が床に縫い付けられたように動かない。誰か、助けて。誰か――。
「ハッ!」
私は弾かれたように体を起こした。心臓が早鐘を打っている。額にはびっしりと冷や汗が浮かび、呼吸が浅い。真っ暗な森の中だ。焚き火は熾火になっていて、赤い光が弱々しく明滅している。
「夢」
悪い夢だ。頭では分かっているのに、動悸が収まらない。手足の震えが止まらない。屋敷から逃げ出し、自由を手に入れたはずなのに、あの場所の呪いはまだ私を縛り付けている。一度恐怖に支配されると、再び目を閉じるのが怖くなった。またあの光景を見るのではないかと思うと、眠気が吹き飛んでしまう。
「リゼ?」
不意に低い声がした。隣で丸くなっていたガブが、むくりと起き上がったのだ。暗闇の中で、彼の黄色い瞳が私を捉えている。
「どうした?敵か?」
彼はすぐに白い棍棒を手に取り、周囲を警戒した。
「う、ううん。違うの。ごめんなさい、起こしちゃって」
私は震える声で答えた。
「ただの怖い夢を見ただけ」
ガブは鼻をスンスンと動かした。
「リゼ、変な色してる。灰色と、青いギザギザ。苦しそう」「大丈夫よ。少し、落ち着けば治るから」
私は膝を抱え小さくなった。けれど、ガブは納得しなかった。彼はゴソゴソとリュックを漁り、水筒と小さな鉄のカップを取り出した。熾火に枯れ枝を放り込み、火を強くする。そして、カップに水を注ぎ、火にかけた。
「ガブ?」「婆ちゃんが言ってた。怖い時は、腹が冷えてる時だ。腹を温めれば、怖いの飛んでく」
彼はポケットから、乾燥させた葉っぱを取り出した。ミントに似た香りのする、森のハーブだ。それを手で揉んで、お湯の中に入れる。ふわりと、清涼感のある香りが漂った。
「飲め。ゴブリンの薬だ」
差し出されたカップからは、湯気が立っている。私は両手でそれを受け取った。温かい。その熱が、冷え切った指先からじんわりと伝わってくる。
一口すする。少し青臭いけれど、スーッとする香りが鼻腔を抜け、温かい液体が食道を落ちていく。胃の中に熱の塊ができると、不思議と震えが治まっていった。
「ありがとう、温かい」「だろ?俺も飲む」
ガブは水筒から直接ラッパ飲みをしている(猫舌じゃないのだろうか)。
少し落ち着きを取り戻した私を見て、ガブは満足そうに頷いた。そして、私の隣に座り直した。
「リゼ、まだ眠くないか?」「うん目を閉じるのが、ちょっと怖いかも」「じゃあ、俺が話をしてやる」
え、と私は彼を見た。ガブがおとぎ話を知っているなんて初耳だ。
「昔々、あるところに、すっげえ強いゴブリンがいました」ガブが語り始めた。
「名前はえーと、ググ。ググは強かった。猪も一発。熊も一発」「うん」「ある日、ググは、でっかい肉を見つけました。山みたいな肉」「すごいわね」「ググは食いました。ムシャムシャ。全部食いました」「全部?」「全部。そしたら、腹がいっぱいになりました。ググは寝ました。グウグウ。おしまい」
私は思わず吹き出しそうになった。
「ふふっ何それ。短すぎるし、食べて寝ただけじゃない」「いい話だろ?食って寝る、これ最強の幸せ」
ガブは真剣な顔で言っている。単純明快。起承転結も何もない、ただの欲望の充足。でも、そのあまりの単純さが、私の頭の中にこびりついていた複雑な悩みを、馬鹿馬鹿しいものに変えてくれた気がした。食べて、寝る。生物として一番大切なこと。父や母が求めた「名誉」や「体裁」なんて、この話の前では霞んでしまう。
「そうね。最強の幸せね」
私はカップの中身を飲み干した。体が芯から温まり、張り詰めていた神経が緩んでいく。強張っていたまぶたが、自然と重くなってきた。
「リゼ、もう寝ろ。俺が見てる」
ガブが私の背中をポンポンと叩く。一定のリズム。大きく、ゴツゴツした手のひらの感触。それは不器用だけれど、どんな高級な羽毛布団よりも安心できる重みだった。
「ありがとう、ガブおやすみ」
私は横になり、毛布を頭まで被った。目を閉じても、もうあの冷たい広間は現れなかった。代わりに浮かんだのは、巨大な肉を食べて満足そうに寝ている、マヌケなゴブリンの姿。
焚き火の爆ぜる音と、ガブが小さな声で何か(たぶん続きの物語)をブツブツと呟く声を聞きながら、私は今度こそ深い、安らかな眠りへと落ちていった。これが私専用の、眠れない夜の特効薬だった。
23:街道を避けて
翌朝、私たちは重大な決断を下した。目の前に伸びる、歩きやすそうな街道の轍。それを横目に見ながら、私たちはあえて道なき森の奥へと進路を取ったのだ。
「本当にこっちでいいのか?道、ガタガタだぞ」ガブが不満そうに、藪を木の棒で叩いている。彼の言う通りだ。街道を歩けば、体力的な消耗は半分以下で済むだろう。進行速度も倍になる。けれど、昨日の商人との出会いが、私に明確な警告を与えていた。
「ええ、いいの。人間と会う確率をゼロにしたいから」私はリュックのベルトを締め直して答えた。「街道には商人も、旅人も、そして彼らを狙う野盗もいる。今の私たちにとって、一番の脅威は魔物じゃなくて人間よ」
ガブは「ふん」と鼻を鳴らした。「人間なんて、俺とリゼなら勝てる。昨日の奴らも弱かった」「勝てるかもしれないけど、目立っちゃうわ。噂が広まれば、もっと強い騎士や兵士が来るかもしれない。そうしたら、平穏な旅は終わりよ」
「騎士」という言葉に、ガブの耳がピクリと動いた。ゴブリンにとっても、鎧を着た人間は天敵という認識があるらしい。「わかった。じゃあ、隠れて進む」
私たちは森の中を進んだ。しかし、その道程は想像以上に過酷だった。道がないということは、一歩ごとに障害物があるということだ。足首に絡みつく蔦。脛を打つ倒木。顔を覆う蜘蛛の巣。地面も腐葉土で柔らかく、足を取られて体力を奪われる。30分も歩かないうちに、私は息が上がり始めた。
「はぁ、はぁ。き、きつい」運動不足の令嬢には、オフロードはレベルが高すぎた。足が重い。汗が目に入る。少し前を行くガブは、森の生活に慣れているだけあって、スルスルと障害物を避けていく。小柄な体が有利に働いているのだ。
ガブが立ち止まり、振り返った。ゼーゼーと肩で息をする私を見て、彼は呆れたような、でも心配そうな顔をした。「リゼ、遅い。背負うか?」「だ、大丈夫よ。自分の足で歩くわ」
意地を張ったけれど、足がもつれて木の根に躓いた。「わっ!」転びそうになったところを、ガブがとっさに支えてくれた。
「危ない。リゼ、見てない」「ごめん足元ばかり見てて、根っこに気づかなかった」
ガブは腕組みをして、周囲を見回した。そして、何かを思いついたように白い棍棒を構えた。
「リゼ、後ろ歩け。俺が道、作る」
彼は先頭に立ち、歩き出した。今度はただ歩くだけではない。バシッ!バシッ!邪魔な枝を棍棒で叩き折り、足に絡みそうな蔦を引きちぎり、蜘蛛の巣を払い落としていく。まるで人間ブルドーザーだ。さらに、地面がぬかるんでいる場所では「ここ、だめ」、安定している岩の上では「ここ、踏め」と、細かく指示を出してくれる。
「リゼ、こっち。この草、踏むと滑らない」「頭、下げろ。枝あるぞ」
彼の作ってくれた「即席の道」は、驚くほど歩きやすかった。もちろん街道には及ばないけれど、先ほどまでの苦労が嘘のようだ。彼の小さな背中が、頼もしいガイドに見える。
私も、ただ守られているだけではいけない。「ありがとう、ガブ。暗い茂みは、私が照らすわ」鬱蒼と茂る藪の先は暗く、何が潜んでいるか分からない不安がある。私は杖を掲げた。
「照明」
ふわりと光の玉が浮かび上がり、ガブの前方を照らし出した。「お、見やすい」ガブが振り返って笑う。足元の障害物はガブが排除し、その先の視界は私が確保する。自然と、そんな役割分担ができあがっていた。
昼休憩の時、私たちは木陰に座り込んで水を飲んだ。遠くの方から、馬のいななきと、車輪の回る音が風に乗って聞こえてきた。街道を行く馬車だ。平らな道を、何不自由なく進んでいく人々。泥だらけになって藪の中に座っている私たちとは、世界の住人が違うように思えた。
「あっちの方が、楽だったかな」
ふと、弱音が漏れた。すると、ガブが干し肉を齧りながら言った。
「楽な道は、罠も多い。森の獣道は、きついけど、嘘がない」
彼は私の目を真っ直ぐに見た。
「ガブは、こっちの道が好きだ。リゼと一緒なら、悪くない」
その言葉に、胸のつかえが取れた気がした。そうだ。安易な道を選んで、また誰かに媚びへつらい、自分を偽って生きるくらいなら。泥だらけでも、茨の道でも、この相棒と笑い合える道の方が、ずっと「正しい」道なのだ。
「そうね。私も、こっちの方が好きよ」
私は泥で汚れたブーツを見た。この汚れは、私が自分の足で、自分の意志で選んだ道の証だ。そう思うと、不思議と疲れも誇らしく思えてきた。
私たちは再び立ち上がり、森の深淵へと足を踏み入れた。道なき道を行く二人の旅は、一歩一歩、確実に北へと近づいていた。
24:雨宿りの洞窟
その兆候に最初に気づいたのは、やはりガブだった。午後の日差しが陰り始め、森が妙な静けさに包まれた時、彼は足を止めて鼻を鳴らした。
「来る」「え?何が?」「水。空から、すごいのが来る」
彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、生温かい風が吹き抜け、パラパラと大粒の雨が葉を叩き始めた。そして次の瞬間。ドォオオオオオッ!バケツをひっくり返したような、猛烈な豪雨が森を襲った。視界が白く染まるほどの雨量だ。
「わああっ!?」「走れ!隠れる場所!」
私たちは慌てて走り出した。フードを被っても意味がない。一瞬で服はずぶ濡れになり、冷たい水が肌に張り付く。足元は泥濘み、滑りやすくなっている。ガブが私の手を引いてくれた。
「こっち!岩の匂いがする!」
彼に引かれて斜面を登ると、大きな岩壁の裂け目が見えた。奥行きのある、手頃な洞窟だ。私たちは転がり込むようにして中に入った。
「はぁ、はぁすごい雨!」
外は滝のような雨のカーテンで遮断されている。洞窟の中は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。私たちは安全地帯に逃げ込めた安堵で、その場にへたり込んだ。
しかし、すぐに寒さが襲ってきた。全身びしょ濡れだ。気温も急激に下がっている。ガブが体を震わせて、ブルブルと犬のように水を飛ばした。
「冷てぇ!毛が重い」
私も唇が紫になりかけているのが分かる。このままでは風邪をひく、最悪の場合は低体温症だ。
「ガブ、火を熾さないと」「薪、濡れてる。火、つかない」
ガブが洞窟の入り口付近にあった枯れ枝を集めてきたが、どれも湿気を含んで重くなっていた。普通なら絶望的な状況だ。でも、私には魔法がある。
「貸して。まずは私たちが乾くのが先よ」私は杖を自分とガブに向けた。
「水よ、去れ『乾燥』!」
生活魔法の中でも、洗濯物を乾かすためだけに使われていた地味な魔法。だが、今この瞬間においては、最強の回復魔法に等しい。
シュゥウウ。私とガブの服、そして体から水分が蒸発し、白い湯気となって消えていく。冷たく張り付いていた布が、ふんわりと温かく乾いた状態に戻る。それだけで、体感温度が劇的に上がった。
「おお!乾いた!すげえ!リゼ、天才!」
ガブが自分の体を触って歓声を上げる。毛並みもフワフワに戻っている。私は続けて、湿った薪にも魔法をかけた。水分を飛ばし、カラカラの状態にする。そして「着火」。
ボッ。小さな炎が生まれ、やがてパチパチと頼もしい音を立てて燃え広がった。洞窟の中に、オレンジ色の暖かな光と熱が満ちていく。外の豪雨の音と、中の焚き火の音。そのコントラストが、この場所を特別な隠れ家のように感じさせた。
私たちは火を囲んで座った。リュックから干し肉と、水を汲んだ鍋を取り出し、火にかける。即席のスープ作りだ。
「雨、嫌いだ」ガブが火を見つめながら呟いた。
「狩りできない。臭い消える。寒い。いいことない」「そう?私は、こういう雨は嫌いじゃないかも」「なんで?」「だって、誰も追ってこられないでしょう?魔物も人間も、みんな雨宿りしてる。世界中で、ここだけが切り取られたみたいで安心するの」
外の激しい雨音が、逆に私たちを外界から守る壁になっているように思えた。鍋から湯気が立ち上り、肉のいい匂いが洞窟に充満する。スープを一口飲むと、五臓六腑に染み渡る美味しさだった。
「ん、ウマい」
ガブも機嫌を直したようで、ハフハフとスープを飲んでいる。ゆらめく炎が、洞窟の壁に二人の影を大きく映し出していた。
不意に、ガブが言った。
「リゼの魔法、便利だ。乾くし、燃えるし、飯も作れる。剣より強い」「そうかしら」「ああ。剣は敵を殺す、リゼの魔法は俺を生かす。すごいことだ」
彼の実感のこもった言葉に、私は胸が詰まった。かつて「何の役にも立たない」と罵られた生活魔法。でも、この過酷な旅路において、それは私たちの命を繋ぐ生命線になっている。彼を生かし、私を生かしている。その事実を、誰よりも彼が認めてくれていることが嬉しかった。
「ありがとう。あなたがそう言ってくれるなら、私は最強の魔術師ね」「おう。リゼ最強」
雨はまだ降り続いている。でも、この小さな洞窟の中は、世界で一番温かくて、平和な場所だった。私たちは肩を寄せ合い、炎の暖かさに身を委ねながら、雨が止むのを静かに待った。旅の途中の、思いがけない休息の時間だった。




