EP78
229:ひとりぼっちの朝
チチチ、チチチ……。小鳥のさえずりが、鼓膜を突き刺すように響いていた。まぶたの裏が赤い。太陽の光が、容赦なく私の眠りを妨げようとしている。
「ん、うぅ……」
重い。体が鉛のように重い。全身の節々が軋むような痛みを訴えている。私はゆっくりと目を開けた。
そこに見えたのは、憎らしいほどに澄み渡った青空だった。雲ひとつない、抜けるような青。昨夜の嵐と濁流が嘘のような、穏やかな朝の光景。
「あ、れ?」
私は上半身を起こそうとして、激しいめまいに襲われた。視界がぐるりと回る。手をついた地面は砂利だらけの河原で、私の手のひらに食い込んだ。
寒い。濡れたローブが肌に張り付いて、体温を奪っている。私は咳き込んだ。喉の奥に、川の泥水と血の味が残っていた。
「ガブ……?」
無意識に名前を呼んだ。いつもなら、「おう、起きたか寝坊助」という悪態と共に、焼き魚の匂いか、あるいは下手くそな鼻歌が返ってくるはずだ。けれど、返ってきたのは川のせせらぎと、風の音だけだった。
ヒュウウウ……。
その空虚な音が、昨夜の記憶を一気に呼び覚ました。崖。騎士団。飛び交う矢。そして、私を蹴り飛ばして助けた、緑色の小さな背中。濁流に飲み込まれた影。
「っ!!」
私は弾かれたように周囲を見渡した。いない。どこにもいない。広い河原には、打ち上げられた流木とゴミ、そしてずぶ濡れの私しかいなかった。
「嘘……でしょ……」
心臓が早鐘を打つ。私は這いつくばって、周囲の砂利をかき回した。もしかしたら、岩の陰で倒れているかもしれない。私より少し下流に流されているだけかもしれない。
「ガブ!ガブッ!返事をして!どこ!?」
声が枯れていた。叫びすぎた喉は、掠れた音しか紡げない。私はよろめきながら立ち上がったが、足に力が入らず、すぐに膝から崩れ落ちた。杖だけは、奇跡的に手の中に握りしめられていた。けれど、それ以外の全て――リュックも、食料も、そして相棒も、失われていた。
孤独。その二文字が、巨大な岩となって頭上から押しつぶしてくるようだった。
これまでの一人旅とは違う。ガブと出会う前の孤独は、「自由」の裏返しだった。けれど今の孤独は、「欠落」だ。体の一部をもぎ取られたような、埋めようのない穴が胸に開いている。
「あ……うぅ……」
涙は出なかった。昨夜、流し尽くしてしまったからだろうか。代わりに、強烈な寒気と震えが襲ってきた。このままでは、低体温症で死ぬ。ガブが命がけで繋いでくれたこの命が、寒さごときで消えてしまう。
(温めなきゃ……乾かさなきゃ……)
思考が鈍い。でも、本能が「生きろ」と命令している。あいつの遺言が、呪いのように私の体を動かそうとしていた。
私は震える手で杖を構えた。魔力は空っぽに近い。けれど、小さな火種くらいなら起こせるはずだ。
(あたたかなる火の精霊さん……。おはようございます……。今の私には、あなたをもてなす薪も、供物もありません……。それでも、どうか少しだけ……凍えた私に、その情熱を分けてはいただけないでしょうか……)
惨めだった。かつては、森の魔女として恐れられ、自在に魔法を操っていた私が、たかだか焚き火一つのために、ここまで懇願しなければならないなんて。私の心が弱っているせいで、精霊たちの声も遠い。
ボッ。杖の先に、小さな、本当に小さな炎が灯った。蝋燭の火のような頼りない明かり。
「ありがとう」
私はその火を、集めた流木や枯草に移そうとした。だが、昨夜の雨で何もかもが湿っている。白い煙が上がるだけで、火はすぐに消えてしまった。
「あ……」
火が消えた瞬間、糸が切れた。私は杖を放り出し、濡れた地面に突っ伏した。
無理だ。一人じゃ何もできない。火も起こせない。ご飯も作れない。ガブがいなければ、私はただの無力な、世間知らずの小娘に過ぎない。
「ガブ……寒いよ……」
砂利に顔を埋める。冷たい石の感触が、頬に痛い。誰にも見られていないのに、惨めさで顔を上げられなかった。
太陽が高くなり、気温が少しずつ上がってくる。自然は無慈悲なほどに、いつも通りの営みを続けている。川の音は変わらず、風は木々を揺らす。世界にとって、ゴブリンが一匹死んだことなど、落ち葉が一枚落ちたほどの意味もないのだ。
その事実が、私を一番傷つけた。私にとっては世界の全てだったのに。この広い空の下で、私だけが取り残され、時が止まっていた。
230:喪失
どれくらいの時間、そうしてうずくまっていただろうか。太陽が真上に昇る頃、私の服はようやく自然乾燥で半乾きになっていた。体の芯に残る寒気は消えないが、震えは止まっていた。
私はのろのろと起き上がった。お腹が鳴った。グゥゥゥ……。あまりに場違いで、間の抜けた音。
「お腹、空いたな」
独り言が、誰もいない空間に吸い込まれていく。いつもなら、「腹減ったな、リゼ。なんか食わせろ」とガブが騒ぎ出す時間だ。私は「もう、ちょっとは我慢しなさいよ」と言い返して、リュックから干し肉を取り出す。それが私たちの日常だった。
私は無意識に背中に手を伸ばし――そこには何もないことに気づいて、手が空を切った。リュックはガブが背負っていた。食料も、水も、着替えも、お金も。全部、彼が持っていた。
「そうか。ないんだ」
私にあるのは、この身一つと、杖と、ポケットの中のガラクタだけ。私はポケットに手を突っ込み、ゴツゴツした鉄の塊を取り出した。
砕けた鍋のふたの取っ手。黒ずんだ鋳鉄の冷たさ。これが、ガブが最後に持っていた「盾」の破片だ。
じっと見つめる。錆びついた匂いがする。それは血の匂いと混じり合って、吐き気を催すような、それでいて愛おしいような、複雑な感情を呼び起こした。
これを一緒に選んだ道具屋の親父の顔。初めてシチューを作った夜。ガブがこのふたを被って踊っていた時の馬鹿げた姿。そして、私のために矢を受け止め、砕け散った瞬間。
記憶が、暴力的なほどの鮮明さで蘇る。喪失感とは、ただ「ない」ことではない。「あった」という記憶が、現在の「なさ」を際立たせる拷問のようなものだ。
「う、うぅっ……」
視界が滲む。こらえていたものが決壊した。
私は鍋の取っ手を胸に抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。魔女としての誇りも、年長者としての意地も、どうでもよかった。ただ、悲しかった。寂しかった。
私の半身がもぎ取られた。相棒であり、弟であり、騎士であり、一番の理解者だった彼。人間とゴブリンという種族を超えて、やっと分かり合えた魂の片割れ。
それを失った世界は、こんなにも色がなくて、音がなくて、広いものなのか。
「なんで……なんで私だけ残したのよ!」
怒りが湧いてきた。自分への怒り。理不尽な世界への怒り。そして、勝手に死んだ(かもしれない)ガブへの八つ当たり。
「王になるんでしょ!世界を見るんでしょ!嘘つき!大嘘つきのゴブリン!」
誰もいない河原に向かって叫ぶ。私の声は空しく響き、川の音にかき消される。誰も答えない。ツッコミを入れてくれる相手はもういない。
ひとしきり泣いて、叫んで、私は疲れ果てて座り込んだ。手の中の取っ手は、私の体温で生温かくなっていた。まるで、まだそこにガブのぬくもりが残っているかのように。
(生きろ、か)
彼の最後の言葉を反芻する。生きるって、なに?ご飯を食べて、寝て、息をすること?彼がいないのに、そんなことを続けて何の意味があるの?
ふと、杖の先の水晶が微かに光った気がした。風が吹き抜け、私の頬を撫でた。まるで、誰かが「バカだなあ」と笑って、頭を撫でてくれたような感覚。
ハッとした。ガブは、私が泣いて暮らすために命を賭けたんじゃない。私が笑って、美味しいものを食べて、旅を続けるために、盾になったんだ。
もし私がここで野垂れ死んだら、彼の命懸けの特攻は、ただの無駄死にになる。それは、彼のプライドが許さないだろう。「オレの守った女が、こんなところでくたばるなんてありえねぇ」と、地獄の底から文句を言ってくるに違いない。
「そうね」
私は涙を袖で乱暴に拭った。泣くのはもう終わり。少なくとも、今は。
私は立ち上がった。足はまだふらつくけれど、もう膝は折れなかった。
生きなきゃいけない。彼が生きた証拠になるために、私が生き続けなきゃいけない。それが、残された者の義務であり、彼への最大の償いなのだから。
231:生きているはず
立ち上がった私の視線は、川面へと注がれていた。濁った水は、変わらず轟々と流れている。この水が、彼をどこかへ連れ去った。
ふと、ある考えが頭をよぎった。――本当に、死んだの?
確かに、状況は絶望的だ。重傷を負い、毒に侵され、この激流に飲まれた。普通の人間なら、まず助からない。でも、ガブは普通じゃない。
あいつはゴブリンだ。しぶとくて、生命力があって、悪知恵が働く。それに、「王になる男」だと豪語していた。そんな男が、あんなあっさりと終わるだろうか?
思い出す。雪崩に巻き込まれても生きていたこと。魔物に噛まれても、数日でケロリとしていたこと。あいつの悪運の強さは、私の知る限り最強だ。
「死んでない」
言葉にしてみると、それが確信に変わっていった。根拠なんてない。ただの願望かもしれない。でも、遺体を見ていない以上、死亡確定じゃない。
「そうよ、死んでるわけない。あいつは……ガブは、絶対にどこかで生きてる」
もし生きていたら?どこかの岸に打ち上げられて、傷ついて動けなくなっているかもしれない。あるいは、誰かに捕まっているかもしれない。一人で心細く、私を待っているかもしれない。
(私が探さなきゃ)
目に光が戻った。絶望の暗い色から、決意の強い光へ。泣いている場合じゃない。落ち込んでいる暇があったら、足を動かせ。
私は杖を握り直し、川下の方角を見据えた。まずは情報の収集だ。この川がどこへ流れ着くのか。近くに村や町はないか。生存者が打ち上げられたという噂がないか。
「風の精霊さん、お使いを頼めるかしら」
私は空に向かって語りかけた。先ほどのような弱々しい懇願ではない。毅然とした、魔女としての矜持を取り戻した声で。
(この川の流れの先に、人の営みの匂いがしないか。どうか風に乗せて、私の耳まで届けてはくれないでしょうか)
風が渦巻き、私の髪を揺らす。精霊たちが私の変化を感じ取り、力を貸してくれようとしている。彼らもまた、あの愉快なゴブリンのことを気に入っていたのかもしれない。
風が運んできたのは、微かな、しかし確かな匂い。薪を燃やす匂い。家畜の匂い。人の住む場所の気配だ。
「ある。下流に、村がある」
距離はそれなりにありそうだ。今の私の体力で辿り着けるかわからない。靴は泥だらけで、片方の踵が取れかけている。ローブはボロボロ。一文無し。
でも、行くしかない。そこにガブがいるかもしれないという、1%の可能性に賭けて。
「待ってて、ガブ」
私は歩き出した。一歩、また一歩。砂利を踏みしめる音が、私の決意の鼓動のように響く。
もし生きていたら、思いっきり抱きしめてやる。そして、そのあとで思いっきり殴ってやる。「勝手に死ぬな」って。「置いていくな」って。
希望的観測という名の松明を心に掲げ、私は歩き続けた。ひとりぼっちの旅が再び始まった。けれど、心の中にはもう一人、口の悪いゴブリンが確かに息づいていた。
数キロほど歩いた頃だろうか。景色が変わり始めた。岩場が終わり、なだらかな平地が広がってくる。そして、遠くに――煙突から煙を上げる、小さな集落の影が見えた。
人がいる。それは救いであると同時に、新たな危険の予兆でもあった。「魔女」として追われる私が、人里に近づくリスク。けれど、迷っている余裕はない。
私はフードを深く被り、顔を隠した。弱虫のリゼは、あの川に流した。ここからは、相棒を取り戻すための、孤独でタフな戦いだ。




