EP77
226:落下
空が遠ざかる。私の体は重力の枷に捕らえられ、灰色の空と鉛色の川の狭間を、頼りなく舞う木の葉のように落ちていった。
視界の端に焼き付いているのは、崖の上で小さくなっていく緑色の影。親指を立て、ニカっと笑ったガブの姿だ。あの笑顔が、私の心臓を雑巾のように強く絞り上げる。
(どうして……どうして私だけ!)
思考よりも先に、涙が横へと流れて空中に散った。風切り音が耳をつんざく。死への恐怖よりも、彼を一人残してしまったという絶望感が、胸を抉る。
水面が迫る。雪解け水を含んで膨れ上がったルベリア川は、まるで巨大な茶色の蛇がのたうち回っているかのように見えた。岩を噛み砕き、木々を押し流す自然の暴力。
今の私には、着水の衝撃を完全に殺すだけの魔力は残っていない。けれど、死ぬわけにはいかない。ガブが命を賭して繋いでくれたこの命を、水面の衝撃なんかで散らすわけにはいかないのだ。
私は空中で必死に体勢を整え、杖を下方へ向けた。意識が飛びそうになる恐怖をねじ伏せる。
(水面を揺蕩う慈悲深き精霊たちよ!どうか私の声を聞いてください!この身を受け止める柔らかな寝床を、一瞬だけでいい、作り出してはいただけないでしょうか!)
叫ぶような、けれど精一杯の敬意を込めた祈り。普段の静かな水面ならいざ知らず、今の川は荒れ狂っている。精霊たちの声も轟音にかき消され、彼ら自身も混乱の渦中にあるようだった。
それでも、微かな応答があった。迫りくる水面の一点が、わずかに泡立ち、空気を含んで柔らかく盛り上がる。
「『水よ、抱きとめて(ウォーター・クッション)』!」
ドォォォォォンッ!!
衝撃。コンクリートに叩きつけられたかのような硬い痛みが全身を走った。魔法は完全には機能しなかった。それでも、即死だけは免れたようだ。
次の瞬間、私は冷たく暗い闇の中へ引きずり込まれた。冷たい。痛い。水温は氷点に近い。全身の筋肉が瞬時に硬直する。上も下もわからない。激しい水流が私を木の葉のように回転させ、岩に叩きつけようとする。
ゴボッ、ゴボボボッ。肺に残っていた空気が、銀色の泡となって逃げていく。苦しい。
(ガブ……ガブ……!)
薄れゆく意識の中で、彼の名前を呼んだ。暗い水底で、走馬灯のように記憶が巡る。初めて出会った時の、警戒心丸出しの目。私の作ったスープを「うめぇ」と平らげた時の顔。雪山で私の手を引いてくれた温かさ。そして、崖の上での最後の笑顔。
――生きろ。――オレの分まで、美味いもん食ってくれ。
彼の声が、脳裏に響いた気がした。その言葉が、凍えかけた私の心臓に火を灯す。
(死ねない……!)
私は目を見開いた。濁った水の中で、杖を握る手に力を込める。まだ終われない。彼が生きて行けと言ったのなら、這ってでも行く。そして何より、彼が死んだなんて私は認めていない。
(川の流れを司る力強き精霊たちよ。どうか私を水面へ、光のある場所へと押し上げてください!)
魔力の残り滓を絞り出す。水流の一部が変化し、私の背中を強く押した。ザパァッ!
私は水面に顔を出した。貪るように空気を吸い込む。
「げほっ、げほっ、はぁっ!」
喉が焼けるように痛い。しかし、休んでいる暇はなかった。体は猛烈な勢いで下流へと流されている。岩肌が次々と後ろへ飛び去っていく。
私は必死に顔を上げ、流されてきた上流の方角――あの崖を見上げた。距離はすでに百メートル以上離れているだろうか。水飛沫と霧で霞む視界の先、高くそびえ立つ断崖絶壁。
あそこに、まだガブがいるはずだ。生きていて。捕まらないで。逃げて。そう祈りながら目を凝らした、その時だった。
227:濁流に消える緑
灰色の空を背景に、崖の上で何かが動いた。米粒のように小さな人影たち。銀色の鎧が光を反射して煌めいている。騎士たちが一点に集まり、何かを囲んでいるようだった。
「ガブ……!」
波に揉まれながら、私はその場所から目を離さなかった。あそこでガブが戦っている。一人きりで。
すると突然、囲みの輪が解けた。そして、崖の縁から、小さな影が宙に舞った。
自分から飛んだのか、それとも突き落とされたのか。遠すぎて、その詳細はわからない。けれど、その影の色だけは、この灰色の世界で痛いほど鮮烈だった。
緑色。私の大切な、相棒の色。
「あ……」
声が漏れた。
緑色の影は、手足をバタつかせることもなく、人形のように力なく落下していく。その軌道は、私が落ちた場所よりもさらに岩場に近い、危険なエリアへ向かっていた。
嫌な予感が全身を走る。彼はすでに意識がないのではないか。あるいは、あの騎士たちの剣によって、すでに――。
「ダメぇぇぇぇッ!!」
喉が裂けんばかりに叫んだ。私の声が届くはずもない距離。時間は無慈悲に流れる。
ドボンッ。
水柱が上がった。私が落ちた時のような大きな水飛沫ではない。重い石が沈むような、鈍く、小さな飛沫。緑色の影は、一瞬にして茶色い濁流に飲み込まれた。
「ガブ!ガブッ!」
私は狂ったように水を掻いた。彼が落ちた場所へ戻らなければならない。今すぐに彼を引き上げなければ、意識のない彼はそのまま溺れてしまう。
しかし、自然の猛威は残酷だった。私が必死に腕を動かしても、体は無情にも下流へと流されていく。彼が落ちた場所は、見る見るうちに遠ざかっていく。
(水の精霊さん、お願い!流れを止めて!逆流させて!)
心の中で絶叫するが、今の私には川の流れを変えるほどの魔力など残っていない。それどころか、私自身の体さえ制御できない。見えた。一瞬だけ、波間から緑色の何かが浮き上がったのが見えた。あれはガブの腕か、それとも頭か。あるいは、ただの流木の見間違いか。
「待って!置いていかないで!」
私は流れてくる大木にしがみつき、首を伸ばして彼を探した。だが、次の大波が襲いかかり、私の視界を白く塗り潰す。再び顔を上げた時、そこにはもう、緑色の影はなかった。ただ荒れ狂う濁流が、轟音と共に流れているだけだった。
消えた。私のガブが。世界でたった一人の、私の味方が。
冷たい水が、私の心臓まで凍らせていくようだった。あれほど鮮やかだった緑色が、汚れた泥水に塗りつぶされて消えてしまった。
嘘だ。嘘だと言ってよ。彼は言ったじゃないか。「大丈夫だ」って。「オレは王になる男だ」って。こんな、ゴミのように川に捨てられて終わるような命じゃないはずだ。
けれど、現実は私の願望を打ち砕く。彼は怪我をしていた。呪毒に侵され、立っているのがやっとの状態だった。そんな体で、この氷水のような激流に飲まれたらどうなるか。想像したくない結末が、黒いインクのように脳裏に広がっていく。
騎士たちの姿はもう見えない。崖も見えない。私とガブを引き裂いた川だけが、どこまでも続いている。
私の手から、杖が滑り落ちそうになる。指先の感覚がない。生きる気力さえ、あの緑色と一緒に流れていってしまいそうだった。
それでも、私の体は反射的に流木にしがみついていた。なぜなら、最期に彼がくれた言葉が、呪いのように、あるいは祈りのように、私を現世に縛り付けていたからだ。
――リゼは生きろ。
その言葉がなければ、私は迷わず力を抜いて、彼の後を追って水底へ沈んでいただろう。
228:叫び
「ガブゥゥゥゥーーーーーーッ!!」
私は空に向かって咆哮した。それは言葉というより、傷ついた獣の呻き声に近かった。雨が降り始めていた。冷たい雨が、私の頬を叩き、涙と川の水と混じり合う。
視界が歪む。涙のせいなのか、雨のせいなのか、それとも絶望のせいなのかわからない。
「返してよ……私のガブを返してよッ!」
誰もいない川面に向かって、私は叫び続けた。精霊に祈る言葉など出てこない。ただの、わがままで無力な子供の叫びだ。
どうして神様は、私たちからすべてを奪うのか。家を追われ、学校を追われ、安息の地を追われ。それでも二人なら大丈夫だと、鍋をつつき合って笑っていたささやかな幸せさえも、こうして奪い去っていくのか。
ドンッ。流木が岩にぶつかり、私はその衝撃で放り出された。水中で何度も回転し、川底の砂利に膝を擦りむく。
痛い。でもその痛みが、私がまだ生きていることを残酷に突きつけてくる。
(ガブも……痛かったよね)
(怖かったよね)
(寂しかったよね)
水面に顔を出し、咳き込みながら、私は岸辺を目指した。泳ぐのではない。波に打ち上げられるゴミのように、ただ流されて岸に近づくのを待つだけだ。
もう声も出なかった。喉が潰れ、ヒューヒューという掠れた音しか出ない。それでも心の中では、ずっと彼の名前を呼び続けていた。
やがて、流れが緩やかになった場所で、私は砂地に打ち上げられた。半身を水に浸したまま、動くことができない。全身が鉛のように重く、指一本動かすのも億劫だ。
雨が背中を叩く。寒い。ガブが「寒い」と言っていたのを思い出す。今の私は、あの時の彼と同じ寒さを感じているのだろうか。
目を閉じると、瞼の裏に、あの笑顔が浮かぶ。
『リゼ、大丈夫』
『リゼはオレのヒーローだ』
「ごめんね」
掠れた声が口から漏れた。
「私……全然、ヒーローなんかじゃない……」
ただの守られただけの弱虫だ。彼を犠牲にして、自分だけ生き延びてしまった、卑怯者だ。
後悔と自責の念が、冷たい闇となって私を包み込んでいく。意識が遠のく。このまま眠ってしまえば、楽になれるかもしれない。目が覚めたら、また雪山の洞窟で、ガブが隣で寝息を立てているかもしれない。
これは全部、悪い夢なんだ。
そう思いたかった。けれど、握りしめた手の中に残っていた硬い感触が、それを否定する。
ポケットの中に入れた、砕けた鍋のふたの取っ手。ゴツゴツとした鉄の冷たさ。それが、これが現実であり、あの楽しかった旅の日々が本当に砕け散ってしまったことを、無言で訴えかけていた。
私は意識を手放した。深い、泥のような眠り。次に目覚める時、そこにはもう、緑色の相棒はいない。世界で一番孤独な朝が、すぐそこまで来ていた。




