EP76
223:崖っぷちの決断
ギリギリと弦が引き絞られる音が響く。もう時間がない。
「ガブ、行くよ!」
「おう!」
私たちは目配せをし、崖の縁へと足をかけた。死へのダイブではない。生へのダイブだ。そう信じて、地面を蹴ろうとした、その刹那。
ヒュンッ!
一本の矢が、私の足元――まさに踏み切ろうとした岩の亀裂に突き刺さった。
「させるか!」
騎士団の一人が、私たちの動きを読んで牽制射撃を行ったのだ。驚いて足が止まる。その一瞬の遅れが致命的だった。
「確保しろ!飛び込ませるな!」
怒号と共に、左右から兵士たちが殺到してきた。
「くっ……!」
私は杖を振り回し、風の衝撃波で先頭の兵士を吹き飛ばそうとした。だが、魔力枯渇寸前の私には、もはや人を吹き飛ばすほどの出力が出せない。そよ風のような抵抗は、重装備の騎士には通用しなかった。
「捕まえたぞ!」
屈強な男の手が、私のローブを掴んだ。
「離して!」
私は必死に抵抗するが、力では勝てない。
その時。ガブが、残された最後の力を振り絞って、その男の腕に噛みついた。
「リゼに触るなッ!」
「ぐあっ!この小鬼め!」
男が怯み、私を掴んでいた手が離れる。ガブはその隙に男の脛を蹴り飛ばし、私を崖側へと突き飛ばした。
「リゼ、後ろへ!」
私はよろめき、崖の縁ギリギリで踏みとどまった。あと一歩下がれば落下する位置。しかし、ガブは――。
彼は逆に前へ出ていた。私と騎士たちの間に割って入り、小さな体で壁を作っていたのだ。その背中には、もう逃げる気配はなかった。
224:「逃げろ、リゼ」
崖っぷちの攻防は、一瞬で状況を変えた。ガブの奇襲によって、私は崖の縁へ、ガブは騎士たちの目の前へ。二人の距離はわずか数メートルだが、その間には決定的な「断絶」が生まれていた。
「ガブ!こっちへ!」
私は手を伸ばした。今すぐ彼の手を取って、一緒に飛び込めばいい。まだ間に合うはずだ。
だが、ガブは私の手を取らなかった。彼は騎士たちにナイフを向けたまま、背中越しに私に言った。
「ダメだ、リゼ」
その声は、驚くほど冷静で、そして優しかった。
「え?」
「二人じゃ無理だ。リゼの魔力じゃ、二人分の重さは支えきれない。オレがいたら、二人とも沈んで死ぬ」
彼は正確に状況を分析していた。私の残り少ない魔力では、風のクッションを作れるのは一人分が限界だ。ましてや、呪毒に侵されたガブの体は重く、精霊の加護を受けにくい状態にある。一緒に飛べば、共倒れになる。
「そんなことない!やってみなきゃわからないじゃない!」
私は泣き叫んだ。
「置いていかないで!一緒に逃げるって約束したでしょ!」
ガブは騎士の剣をギリギリでかわしながら、苦しそうに笑った。
「約束したな。だからこそ、だ」
彼は一瞬だけ振り返り、私を見た。その瞳は、出会った頃のような澄んだ緑色をしていた。
「リゼは生きろ。オレの分まで、美味いもん食ってくれよ」
それは遺言だった。彼はここで死ぬ気だ。私を逃がすための盾となって。
「嫌よ!嫌っ!」
私は杖を構えようとした。しかし、ガブが鋭く叫んだ。
「行けッ!今すぐ飛べ!」
その剣幕に、私は凍りついた。今まで一度も聞いたことのない、命令口調。でも、それは私を突き放すための、彼なりの最大の愛情表現だった。
「小賢しい!」
騎士団長が苛立ちを露わにし、剣を振り下ろす。ガブはそれを紙一重で避けるが、体勢を崩した。兵士たちが彼を取り囲む。私に向かおうとする兵士の足を、ガブは地面を転がりながらナイフで切りつけ、必死に食い止めている。
「こっちだ!相手はオレだ!金貨百枚はこっちだぞ!」
ガブはわざと挑発し、敵の注意を一身に集めていた。
「魔女を捕らえろ!小鬼は殺しても構わん!」
団長の号令で、数人の兵士が私に向かってくる。
「くそっ……させねぇ!」
ガブが叫び、ポケットから何かを取り出した。それは、私の壊れた鍋のふたの破片だった。
彼はそれを兵士の顔面に投げつけた。不意を突かれた兵士が怯む。その隙に、ガブは私の目の前――崖の縁との間にある空間へ飛び込んだ。
「リゼ、風を呼べ!自分のためだけに!」
ガブは兵士の槍を素手で掴み、血を流しながら私を守る壁となった。
「逃げろ、リゼ!!」
その叫びが、私の心臓を貫いた。彼の目には、もう迷いはなかった。私がここで躊躇すれば、彼の覚悟が無駄になる。彼が流した血も、痛みも、すべてが無意味になる。
私は歯を食いしばった。唇から血が滲むほどに。選択肢は一つしかなかった。彼の願いを叶えること。それは、私一人が生き残ること。
私は杖を胸に抱き、一歩、崖の方へ後退した。涙で視界が歪む。ガブの小さな背中が、世界で一番大きく見えた。
225:ガブの特攻
「うおおおおおッ!」
ガブが咆哮した。それはゴブリンとしての野生の叫びであり、一人の戦士としての魂の叫びだった。
彼は死兵となって暴れた。槍で突かれても、剣で斬られても、彼は止まらなかった。痛みを感じていないかのような、狂戦士のような動き。だが、その目は理性を失っていなかった。彼は冷静に、私に近づこうとする敵だけを選んで攻撃していた。
「なんだ、こいつは!?」
「しぶとい!本当にゴブリンか!?」
百戦錬磨の騎士たちが、たった一匹の小鬼の気迫に押され、たじろいだ。ガブは素早さを活かして兵士の股下を潜り抜け、膝裏をナイフで突き、混乱を引き起こす。さらに、倒れた兵士の剣を奪い、不格好ながらも二刀流で振り回した。
「リゼ、早くッ!」
ガブが血を吐きながら叫ぶ。その体はもう限界だった。傷口からはどす黒い血が流れ、呪毒が全身に回っているのが見て取れた。彼は、自分の命の残り火をすべて燃やして、この数秒間を作り出しているのだ。
私は泣きながら、崖を背にして精霊に呼びかけた。
(風よ!お願い!私を運んで!遠くへ、誰よりも遠くへ!)
私の涙に応えるように、突風が巻き起こった。それは私を崖の外へと押し出す力。
その時。騎士団長が、苛立ち紛れにガブの背後へ回り込んだ。
「目障りだ!」
重厚な盾による強烈な一撃が、ガブの背中を直撃した。
ドゴッ!嫌な音が響いた。
「がはっ……!」
ガブの体がくの字に折れ、ボールのように吹き飛ばされた。彼が飛んだ方向は――私のいる、崖の縁だった。
「ガブ!」
私は反射的に手を伸ばした。魔法の構築が崩れるのも構わずに。ガブは地面を転がり、私の足元で止まった。彼はピクリとも動かない。
「逃がすか!」
騎士たちが一斉に殺到してくる。もう、風を呼んでいる時間はない。飛び込むタイミングも逸した。
万事休す。
そう思った瞬間、ガブがカッと目を見開いた。彼は死んでいなかった。気絶さえしていなかった。吹き飛ばされた勢いを利用して、私の足元――つまり崖の縁まで「移動」してきたのだ。
「へへっ」
ガブが血まみれの口で笑った。そして、彼は仰向けのまま、両足で私の腹を蹴り上げようと構えた。
「え?」
「ごめんな、リゼ。痛いぞ」
ドンッ!!
ガブの渾身の蹴りが、私の鳩尾に入った。攻撃ではない。私を「突き飛ばす」ための蹴りだ。
「うっ!?」
私の体はふわりと宙に浮いた。崖の縁から、強制的に空へ放り出されたのだ。
視界がスローモーションになる。遠ざかる崖の縁。そこに残されたガブ。
彼は寝転がったまま、落ちていく私に向かって、ニカッと笑って親指を立てた。サムズアップ。私が彼に教えた、人間の仕草。『大丈夫』『最高』『ありがとう』。いろんな意味を込めた、私たちの合図。
「ガブーーーーーーッ!!」
私の絶叫と共に、重力が私を捕らえた。風の魔法は間に合わない。けれど、彼が蹴り出してくれたおかげで、私は岩場を飛び越え、川の中心部へと落下していく。
崖の上では、ガブが立ち上がろうとしていた。私を追って飛び込もうとする騎士の足に、しがみついて妨害するために。彼は最期の瞬間まで、私の「盾」であり続けた。
視界が急速に遠のく。灰色の空。迫りくる濁流。そして、遠くなる緑色の小さな影。
それが、私が最後に見た、愛しい相棒の姿だった。




