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旅の友に選んだのはゴブリンでした  作者: 竜神
第5章:戦火の予兆と引き裂かれる手

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EP75

220:血の匂い


夜明け前の森は、不気味なほどに静まり返っていた。先ほどの爆発と暴風の余韻が、生き物たちを巣穴の奥へと追いやったのかもしれない。だがその静寂は私にとって、救いではなく恐怖の増幅装置だった。


ザッ、ザッ、ザッ。枯れ葉を踏む自分の足音が、耳障りなほど大きく響く。私の肩には、ガブの全体重がかかっていた。彼の呼吸は荒く、熱い吐息が私の首筋にかかるたびに、焦燥感が胸を焦がした。


「はぁ、はぁ。リゼ、重いだろ。降ろしてくれ」


ガブがうわ言のように繰り返す。


「重くないわ。黙って歩いて」


嘘だった。小柄なゴブリンとはいえ、意識が朦朧とした彼の体は鉛のように重い。けれど、ここで彼を降ろすことは、死を受け入れることと同義だった。


鼻をつく匂いがあった。鉄錆のような、生臭い匂い。ガブの脇腹から流れる血の匂いだ。先ほどの応急処置で止血したはずなのに、包帯代わりに巻いた私のスカーフは、すでに赤黒く染まりきっていた。


「血が止まらない……どうして?」


私は歩きながら、何度も傷口を確認した。鍋のふたが砕けた時の破片による裂傷。深くはあるが、動脈を傷つけたわけではないはずだ。それなのに、血は一向に凝固せず、まるで命そのものが外へ溢れ出そうとしているかのようだった。


「おい、リゼ。なんか……来るぞ」


ガブが弱々しく私の腕を掴んだ。彼の耳がピクリと動く。私も立ち止まり、耳を澄ませた。風の音ではない。複数の足音。それも、忍び寄るような獣の足音だ。


グルルル……。低い唸り声が、闇の奥から響いた。一つ、また一つと、茂みの中に赤い光が灯る。狼だ。それも普通の狼ではない。魔力を帯びた、人を襲う「魔狼ダイアウルフ」の群れだ。


「血の匂いだわ……」


私は唇を噛んだ。ガブの流す血の匂いが、森の捕食者たちを呼び寄せてしまったのだ。普段なら近づいてこないような魔物も、手負いの獲物の匂いには敏感だ。


「逃げるぞ、リゼ。オレを置いていけば、奴らはオレを食ってる間に……」

「馬鹿なこと言わないで!」


私はガブを背後の大木に寄りかからせ、杖を構えた。手の震えはまだ残っている。けれど、今は躊躇ためらっている場合ではない。


群れのリーダーらしき巨大な狼が、ゆっくりと姿を現した。銀色の毛並みに、禍々しい赤い瞳。彼らは私たちを「餌」として品定めしている。


(夜の森を照らす清らかなる光の精霊たちよ。どうか私の願いを聞き届けてください。この闇を払い、彼らを威嚇する輝きを、一瞬だけでも貸してはいただけないでしょうか)


私は必死に祈った。殺すためではない。追い払うための光を。


「『閃光の爆ぜ(フラッシュ・バースト)』!」


カッ!!杖の先から強烈な白い光が炸裂した。夜闇に慣れきっていた狼たちの目が眩み、悲鳴のような鳴き声が上がる。


「キャウンッ!」


リーダー狼がたじろぎ、群れが混乱に陥る。


「今よ!」


私は再びガブを担ぎ上げ、狼たちが怯んでいる隙に駆け出した。心臓が破裂しそうだ。後ろからは、すぐに統率を取り戻した狼たちの追跡音が聞こえてくる。


さらに悪いことに、遠くから別の音が聞こえ始めた。パラララ……パラララ……。ラッパの音だ。人間の軍隊が使う、進軍の合図。


「騎士団……!」


背後には魔狼の群れ。前方からは包囲網を縮める騎士団。血の匂いは獣を呼び、魔法の光は人間を呼ぶ。私たちが生き延びようと足掻あがけば足掻くほど、状況は悪化していく。


「あっちだ……川の音がする」


ガブが指差した。微かに、轟々という水音が聞こえる。ルベリア川の下流だ。川沿いは危険だと避けてきたが、今はもうそこしか道がない。


私たちは転がるように斜面を下った。血の匂いは消えない。それは私たちに残された時間の砂時計のように、一滴、また一滴と地面に落ちていった。


221:癒やしの魔法が効かない


川沿いの岩場にある、小さな洞窟。私たちは一時的にそこに身を隠した。湿った冷たい空気が充満していたが、外の追跡者の視線を遮るには十分だった。ガブを岩の上に寝かせ、私は即座に傷の処置に取り掛かった。もはや一刻の猶予もなかった。ガブの顔色は土気色になり、呼吸は浅く、速くなっている。


「寒い……リゼ、なんか、すげぇ寒いんだ」


ガブがガチガチと歯を鳴らす。高熱が出ているはずなのに、本人は寒さを訴えている。これは毒か、あるいは呪いの症状だ。


「大丈夫、すぐに楽にしてあげるから」


私は水筒の残り水で手を清め、杖を彼の脇腹にかざした。傷口を見て、息を呑んだ。

ただの切り傷ではない。傷の周囲が紫色に変色し、そこから黒い血管のような筋が、蜘蛛の巣状に広がっている。あの「鍋のふた」を砕いた矢。あの矢に込められていた「呪い」が、破片を通してガブの体内に侵入していたのだ。


呪毒カース・ポイズン


私は戦慄した。肉体を腐らせ、魔力の循環を断ち切る闇の魔術。


(清らかなる泉の精霊たちよ、命の源たる水の乙女たちよ。どうか、この穢れを洗い流してください。彼の体を蝕む邪悪な影を、その優しさで浄化してはくれないでしょうか)


私は全身全霊で祈り、魔力を注ぎ込んだ。普段なら、私の呼びかけに応えて、水精霊たちが喜んで傷を癒やしてくれるはずだ。


「『聖なる浄化(ホーリー・クレンズ)』……!」


青白い光が傷口を覆う。しかし――。

ジュッ!熱した鉄板に水をかけたような音がして、光が黒い煙となって消滅した。


「え……?」


私は呆然とした。魔法が、弾かれた?

もう一度試みる。


(お願い、もっと強く!深いところまで届くように!)


「『大いなる癒やし(ハイ・ヒール)』!」


今度はより強い光を放つ。だが結果は同じだった。傷口の黒い模様がうごめき、まるで生き物のように私の魔法を食らい、拒絶した。


「ぐあぁっ……!」


ガブが苦痛に背中を反らせる。私の魔法が、逆に彼を苦しめているのだ。


「そんな……嘘でしょ……」


私は杖を取り落とした。癒やしの魔法が効かない。精霊たちが、あの黒い傷を恐れて近寄ろうとしないのだ。


「呪いが……精霊の力を拒絶している……」


これは、高位の聖職者か、専門の解呪師ディスペラーでなければ解けないレベルの呪いだ。私のような、自然魔法しか使えない学生あがりの魔女には、どうすることもできない。


「リゼ、もういい」


ガブが私の袖を引いた。その目は諦めではなく、何かを決意したように澄んでいた。


「自分の体のことは、自分が一番よくわかる。これ、治らないやつだ」

「治るわよ!諦めないで!私がなんとかするから!」


私は必死に叫んだ。涙がボロボロとこぼれ落ちる。


「泣くなリゼ。リゼが泣くと、オレまで悲しくなる」


ガブは震える手で、私の涙を拭おうとした。その手は氷のように冷たかった。


「まだ旅の途中じゃない。王都に行くんでしょ?美味しいもの、いっぱい食べるんでしょ?こんなところで……」


言葉が続かない。

外から、犬の吠える声が聞こえた。近づいている。今度は魔狼ではない。訓練された軍用犬の声だ。


「リゼ、聞いてくれ」


ガブが私の目をまっすぐに見つめた。


「オレはここまでだ。足手まといになるだけだ。リゼだけでも、逃げてくれ」

「嫌よ」


私は即答した。


「絶対に嫌。あなたを置いていくくらいなら、ここで一緒に捕まるわ」

「捕まったら、二人とも処刑だぞ」

「それでもいい!一人で生き残るなんて、絶対に嫌!」


私は子供のように首を振った。癒やせないなら、せめて最期までそばにいる。それが私の選んだ道だ。

しかし、現実は残酷な決断を迫っていた。洞窟の入り口付近で、松明の明かりがチラついたのだ。


222:追い詰められて


洞窟の中まで、松明の光が差し込んできた。犬の鳴き声がすぐそこまで迫っている。


「中にいるぞ!血痕が続いている!」


兵士の怒鳴り声が響いた。


「行くわよ、ガブ」


私はガブを抱き起こした。洞窟の奥には、川へと通じる狭い亀裂があった。人が通れるかギリギリの隙間だが、ここから逃げるしかない。


「リゼ……」


ガブはもう反論しなかった。私の決意が固いことを悟ったのだろう。あるいは、反論する体力さえ残っていなかったのかもしれない。


私たちは亀裂を抜け、川沿いの断崖に出た。そこは、世界が終わる場所のように見えた。

轟音。眼下には、雪解け水で増水したルベリア川が、白い飛沫しぶきを上げながら狂ったように渦巻いていた。落ちれば、岩に叩きつけられるか、濁流に飲み込まれて溺死するか。どちらにせよ助かる見込みはない。


そして、前方と左右は、切り立った崖。背後からは、追っ手の足音が迫る。

袋小路。完全な詰みだ。


ザッ、ザッ、ザッ。森の木々の間から、兵士たちが姿を現した。一人や二人ではない。二十人、いや三十人。銀色の鎧を着た正規騎士団。手には長槍と剣。後衛には弓兵が構えている。


その中央から、一人の指揮官らしき男が進み出た。立派な飾りのついた兜を脱ぎ、私たちを見据える。


「ノースウッドの魔女、リゼット。およびその使い魔よ」


男の声は厳格で、慈悲のかけらもなかった。


「貴様らの逃亡もここまでだ。神聖なる王国法に基づき、観念して投降せよ」


投降。それは即ち、処刑台への直行便だ。特に「魔女」として認定された私と、「人食い」の汚名を着せられたガブに、公正な裁判など望むべくもない。


「嫌よ」


私は杖を構え、ガブを背にかばって立った。風が吹き荒れ、私のローブをはためかせる。


「まだ抵抗するか。その小鬼は虫の息のようだが」


騎士団長が冷ややかにガブを一瞥する。


「小鬼一匹のために、未来ある若者が道を誤ったか。哀れなことだ」

「哀れ?何も知らないくせに!」


私は叫んだ。


「彼は誰よりも優しくて、気高い魂を持っているわ!あなたたちの方がよっぽど野蛮で、愚かよ!」

「問答無用」


騎士団長が手を挙げた。弓兵たちが一斉に弓を引き絞る。ジャリッ。前衛の兵士たちが、槍を構えて包囲網を縮める。


後ろは断崖絶壁。下は地獄のような濁流。前は死の森。

私の魔力は底をつきかけている。ガブは立つことさえままならない。奇跡でも起きない限り、ここが私たちの旅の終着点だ。


「リゼ……」


背後で、ガブが私にもたれかかりながら囁いた。


「川だ」

「え?」

「川に……飛び込むしか、ない」


私は眼下の濁流を見た。あれに飛び込む?自殺行為だ。今のガブの体力で泳げるわけがない。けれど、ここに留まれば確実に殺される。捕まれば拷問と公開処刑だ。

生存確率0%の戦いか。生存確率1%未満の賭けか。


「そうね」


私は覚悟を決めた。どうせ死ぬなら、彼らの手にかかって死ぬより、自分たちで選んだ道で終わりたい。


「構え!」


騎士団長が号令をかける。放たれる矢の雨まで、あと数秒。

私はガブの手を強く握りしめた。その手は冷たかったが、確かに握り返してくれた。


追い詰められたネズミは猫を噛むという。けれど、私たちは噛みつくことさえ許されない。残されたのは、崖っぷちの決断だけだった。

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