EP75
220:血の匂い
夜明け前の森は、不気味なほどに静まり返っていた。先ほどの爆発と暴風の余韻が、生き物たちを巣穴の奥へと追いやったのかもしれない。だがその静寂は私にとって、救いではなく恐怖の増幅装置だった。
ザッ、ザッ、ザッ。枯れ葉を踏む自分の足音が、耳障りなほど大きく響く。私の肩には、ガブの全体重がかかっていた。彼の呼吸は荒く、熱い吐息が私の首筋にかかるたびに、焦燥感が胸を焦がした。
「はぁ、はぁ。リゼ、重いだろ。降ろしてくれ」
ガブがうわ言のように繰り返す。
「重くないわ。黙って歩いて」
嘘だった。小柄なゴブリンとはいえ、意識が朦朧とした彼の体は鉛のように重い。けれど、ここで彼を降ろすことは、死を受け入れることと同義だった。
鼻をつく匂いがあった。鉄錆のような、生臭い匂い。ガブの脇腹から流れる血の匂いだ。先ほどの応急処置で止血したはずなのに、包帯代わりに巻いた私のスカーフは、すでに赤黒く染まりきっていた。
「血が止まらない……どうして?」
私は歩きながら、何度も傷口を確認した。鍋のふたが砕けた時の破片による裂傷。深くはあるが、動脈を傷つけたわけではないはずだ。それなのに、血は一向に凝固せず、まるで命そのものが外へ溢れ出そうとしているかのようだった。
「おい、リゼ。なんか……来るぞ」
ガブが弱々しく私の腕を掴んだ。彼の耳がピクリと動く。私も立ち止まり、耳を澄ませた。風の音ではない。複数の足音。それも、忍び寄るような獣の足音だ。
グルルル……。低い唸り声が、闇の奥から響いた。一つ、また一つと、茂みの中に赤い光が灯る。狼だ。それも普通の狼ではない。魔力を帯びた、人を襲う「魔狼」の群れだ。
「血の匂いだわ……」
私は唇を噛んだ。ガブの流す血の匂いが、森の捕食者たちを呼び寄せてしまったのだ。普段なら近づいてこないような魔物も、手負いの獲物の匂いには敏感だ。
「逃げるぞ、リゼ。オレを置いていけば、奴らはオレを食ってる間に……」
「馬鹿なこと言わないで!」
私はガブを背後の大木に寄りかからせ、杖を構えた。手の震えはまだ残っている。けれど、今は躊躇っている場合ではない。
群れのリーダーらしき巨大な狼が、ゆっくりと姿を現した。銀色の毛並みに、禍々しい赤い瞳。彼らは私たちを「餌」として品定めしている。
(夜の森を照らす清らかなる光の精霊たちよ。どうか私の願いを聞き届けてください。この闇を払い、彼らを威嚇する輝きを、一瞬だけでも貸してはいただけないでしょうか)
私は必死に祈った。殺すためではない。追い払うための光を。
「『閃光の爆ぜ』!」
カッ!!杖の先から強烈な白い光が炸裂した。夜闇に慣れきっていた狼たちの目が眩み、悲鳴のような鳴き声が上がる。
「キャウンッ!」
リーダー狼がたじろぎ、群れが混乱に陥る。
「今よ!」
私は再びガブを担ぎ上げ、狼たちが怯んでいる隙に駆け出した。心臓が破裂しそうだ。後ろからは、すぐに統率を取り戻した狼たちの追跡音が聞こえてくる。
さらに悪いことに、遠くから別の音が聞こえ始めた。パラララ……パラララ……。ラッパの音だ。人間の軍隊が使う、進軍の合図。
「騎士団……!」
背後には魔狼の群れ。前方からは包囲網を縮める騎士団。血の匂いは獣を呼び、魔法の光は人間を呼ぶ。私たちが生き延びようと足掻けば足掻くほど、状況は悪化していく。
「あっちだ……川の音がする」
ガブが指差した。微かに、轟々という水音が聞こえる。ルベリア川の下流だ。川沿いは危険だと避けてきたが、今はもうそこしか道がない。
私たちは転がるように斜面を下った。血の匂いは消えない。それは私たちに残された時間の砂時計のように、一滴、また一滴と地面に落ちていった。
221:癒やしの魔法が効かない
川沿いの岩場にある、小さな洞窟。私たちは一時的にそこに身を隠した。湿った冷たい空気が充満していたが、外の追跡者の視線を遮るには十分だった。ガブを岩の上に寝かせ、私は即座に傷の処置に取り掛かった。もはや一刻の猶予もなかった。ガブの顔色は土気色になり、呼吸は浅く、速くなっている。
「寒い……リゼ、なんか、すげぇ寒いんだ」
ガブがガチガチと歯を鳴らす。高熱が出ているはずなのに、本人は寒さを訴えている。これは毒か、あるいは呪いの症状だ。
「大丈夫、すぐに楽にしてあげるから」
私は水筒の残り水で手を清め、杖を彼の脇腹にかざした。傷口を見て、息を呑んだ。
ただの切り傷ではない。傷の周囲が紫色に変色し、そこから黒い血管のような筋が、蜘蛛の巣状に広がっている。あの「鍋のふた」を砕いた矢。あの矢に込められていた「呪い」が、破片を通してガブの体内に侵入していたのだ。
「呪毒」
私は戦慄した。肉体を腐らせ、魔力の循環を断ち切る闇の魔術。
(清らかなる泉の精霊たちよ、命の源たる水の乙女たちよ。どうか、この穢れを洗い流してください。彼の体を蝕む邪悪な影を、その優しさで浄化してはくれないでしょうか)
私は全身全霊で祈り、魔力を注ぎ込んだ。普段なら、私の呼びかけに応えて、水精霊たちが喜んで傷を癒やしてくれるはずだ。
「『聖なる浄化』……!」
青白い光が傷口を覆う。しかし――。
ジュッ!熱した鉄板に水をかけたような音がして、光が黒い煙となって消滅した。
「え……?」
私は呆然とした。魔法が、弾かれた?
もう一度試みる。
(お願い、もっと強く!深いところまで届くように!)
「『大いなる癒やし』!」
今度はより強い光を放つ。だが結果は同じだった。傷口の黒い模様が蠢き、まるで生き物のように私の魔法を食らい、拒絶した。
「ぐあぁっ……!」
ガブが苦痛に背中を反らせる。私の魔法が、逆に彼を苦しめているのだ。
「そんな……嘘でしょ……」
私は杖を取り落とした。癒やしの魔法が効かない。精霊たちが、あの黒い傷を恐れて近寄ろうとしないのだ。
「呪いが……精霊の力を拒絶している……」
これは、高位の聖職者か、専門の解呪師でなければ解けないレベルの呪いだ。私のような、自然魔法しか使えない学生あがりの魔女には、どうすることもできない。
「リゼ、もういい」
ガブが私の袖を引いた。その目は諦めではなく、何かを決意したように澄んでいた。
「自分の体のことは、自分が一番よくわかる。これ、治らないやつだ」
「治るわよ!諦めないで!私がなんとかするから!」
私は必死に叫んだ。涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「泣くなリゼ。リゼが泣くと、オレまで悲しくなる」
ガブは震える手で、私の涙を拭おうとした。その手は氷のように冷たかった。
「まだ旅の途中じゃない。王都に行くんでしょ?美味しいもの、いっぱい食べるんでしょ?こんなところで……」
言葉が続かない。
外から、犬の吠える声が聞こえた。近づいている。今度は魔狼ではない。訓練された軍用犬の声だ。
「リゼ、聞いてくれ」
ガブが私の目をまっすぐに見つめた。
「オレはここまでだ。足手まといになるだけだ。リゼだけでも、逃げてくれ」
「嫌よ」
私は即答した。
「絶対に嫌。あなたを置いていくくらいなら、ここで一緒に捕まるわ」
「捕まったら、二人とも処刑だぞ」
「それでもいい!一人で生き残るなんて、絶対に嫌!」
私は子供のように首を振った。癒やせないなら、せめて最期までそばにいる。それが私の選んだ道だ。
しかし、現実は残酷な決断を迫っていた。洞窟の入り口付近で、松明の明かりがチラついたのだ。
222:追い詰められて
洞窟の中まで、松明の光が差し込んできた。犬の鳴き声がすぐそこまで迫っている。
「中にいるぞ!血痕が続いている!」
兵士の怒鳴り声が響いた。
「行くわよ、ガブ」
私はガブを抱き起こした。洞窟の奥には、川へと通じる狭い亀裂があった。人が通れるかギリギリの隙間だが、ここから逃げるしかない。
「リゼ……」
ガブはもう反論しなかった。私の決意が固いことを悟ったのだろう。あるいは、反論する体力さえ残っていなかったのかもしれない。
私たちは亀裂を抜け、川沿いの断崖に出た。そこは、世界が終わる場所のように見えた。
轟音。眼下には、雪解け水で増水したルベリア川が、白い飛沫を上げながら狂ったように渦巻いていた。落ちれば、岩に叩きつけられるか、濁流に飲み込まれて溺死するか。どちらにせよ助かる見込みはない。
そして、前方と左右は、切り立った崖。背後からは、追っ手の足音が迫る。
袋小路。完全な詰みだ。
ザッ、ザッ、ザッ。森の木々の間から、兵士たちが姿を現した。一人や二人ではない。二十人、いや三十人。銀色の鎧を着た正規騎士団。手には長槍と剣。後衛には弓兵が構えている。
その中央から、一人の指揮官らしき男が進み出た。立派な飾りのついた兜を脱ぎ、私たちを見据える。
「ノースウッドの魔女、リゼット。およびその使い魔よ」
男の声は厳格で、慈悲のかけらもなかった。
「貴様らの逃亡もここまでだ。神聖なる王国法に基づき、観念して投降せよ」
投降。それは即ち、処刑台への直行便だ。特に「魔女」として認定された私と、「人食い」の汚名を着せられたガブに、公正な裁判など望むべくもない。
「嫌よ」
私は杖を構え、ガブを背にかばって立った。風が吹き荒れ、私のローブをはためかせる。
「まだ抵抗するか。その小鬼は虫の息のようだが」
騎士団長が冷ややかにガブを一瞥する。
「小鬼一匹のために、未来ある若者が道を誤ったか。哀れなことだ」
「哀れ?何も知らないくせに!」
私は叫んだ。
「彼は誰よりも優しくて、気高い魂を持っているわ!あなたたちの方がよっぽど野蛮で、愚かよ!」
「問答無用」
騎士団長が手を挙げた。弓兵たちが一斉に弓を引き絞る。ジャリッ。前衛の兵士たちが、槍を構えて包囲網を縮める。
後ろは断崖絶壁。下は地獄のような濁流。前は死の森。
私の魔力は底をつきかけている。ガブは立つことさえままならない。奇跡でも起きない限り、ここが私たちの旅の終着点だ。
「リゼ……」
背後で、ガブが私にもたれかかりながら囁いた。
「川だ」
「え?」
「川に……飛び込むしか、ない」
私は眼下の濁流を見た。あれに飛び込む?自殺行為だ。今のガブの体力で泳げるわけがない。けれど、ここに留まれば確実に殺される。捕まれば拷問と公開処刑だ。
生存確率0%の戦いか。生存確率1%未満の賭けか。
「そうね」
私は覚悟を決めた。どうせ死ぬなら、彼らの手にかかって死ぬより、自分たちで選んだ道で終わりたい。
「構え!」
騎士団長が号令をかける。放たれる矢の雨まで、あと数秒。
私はガブの手を強く握りしめた。その手は冷たかったが、確かに握り返してくれた。
追い詰められたネズミは猫を噛むという。けれど、私たちは噛みつくことさえ許されない。残されたのは、崖っぷちの決断だけだった。




