EP73
214:ガブ、盾になる
ドスッ。
鈍く、重い音が鼓膜を震わせた。私の目の前で、スローモーションのように時間が引き伸ばされる。死の呪いを纏った黒い矢と、横から飛び出した小さな緑色の影が交錯した瞬間。
「ガブッ!!」
私の喉から、声にならない悲鳴が迸った。矢の衝撃は凄まじかった。ガブの小さな体は、まるでボールのように弾き飛ばされ、数メートル後ろの巨木の幹に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
ガブが地面に転がり落ちる。私は杖を放り出し、彼のもとへ駆け寄った。心臓が凍りつくような恐怖が全身を支配する。呪いの矢だ。かすっただけでも命取りになる猛毒と魔力が込められている。
「ガブ!しっかりして!嫌……死なないで!」
私は彼を抱き起こそうとして、手が止まった。矢は、彼の体に突き刺さってはいなかった。彼が背負っていた大きなリュックサック。その中央に、深々と突き立っていたのだ。
ジュウウウゥ……。矢が刺さった部分から、不気味な黒い煙が立ち上り、リュックの生地が腐食していく。中に入れていた予備の毛皮や、採取した硬い木の実がクッションになり、矢じりが皮膚に達するのを防いでくれたのだ。
「げほっ、げほっ!」
ガブが激しく咳き込み、身をよじった。衝撃で呼吸が止まっていたようだ。彼は苦悶の表情で胸を押さえながらも、必死に目を開けた。
「リゼ……無事、か?」
「私は無事よ!あなたこそ!」
「背中が、熱い……」
私は慌てて彼の背中のリュックを外し、遠くへ放り投げた。リュックは地面に落ちた途端、黒い炎に包まれて燃え上がった。呪いの魔力が具現化したのだ。もし背負ったままだったら、ガブの体ごと溶かされていただろう。
「チッ。外したか」
闇の奥から、舌打ちが聞こえた。『静寂の射手』と呼ばれた男が、第二射の準備を整えてゆっくりと歩み寄ってくる。その表情には焦りも動揺もない。ただ、獲物を仕留め損ねたことへの僅かな苛立ちがあるだけだ。
「小鬼風情が、人間の盾になるとはな。奇妙な友情ごっこだ」
男が冷たく言い放つ。
「だが、次はどうする?もう荷物という盾はないぞ」
男が弓を引き絞る。ギリギリと弦が鳴る音が、死のカウントダウンのように響く。
私は立ち上がろうとしたが、足が震えて力が入らない。恐怖?いいえ、絶望だ。私の魔法は防戦一方で、彼の矢の速さと威力には対抗できない。次に放たれれば、確実にどちらかが死ぬ。
「逃げろ、リゼ」
低い声がした。ガブだ。彼はよろめきながら立ち上がり、私の前に立った。リュックを失い、ボロボロの服一枚になった背中。それは以前よりもずっと小さく、頼りなく見えた。けれど、そこから発せられる闘気は、どんな熟練の戦士よりも熱かった。
「オレが時間を稼ぐ。その隙に、森の奥へ走れ」
「何を言ってるの!?あなたを置いていけるわけないじゃない!」
「いいから行け!このままじゃ二人とも死ぬ!」
ガブが吠えた。初めて聞くような、怒声に近い叫びだった。彼は腰のナイフを抜き、男に対峙した。弓とナイフ。距離は二十メートル。勝負になるはずがない。
「ほう。飼い主を逃がすために、自ら捨て駒になるか」
男は興味なさそうに鼻を鳴らした。
「だが、無駄だ。貴様を殺した後、あの女も殺す。順番が変わるだけだ」
「殺させねぇよ」
ガブが重心を低くする。
「オレは、リゼを守るって決めたんだ。王になる男は、約束を破らねぇ」
その言葉に、胸が締め付けられた。彼は本気だ。本気で私を守るために、その身を捧げようとしている。ただのゴブリンだと蔑まれ、石を投げられ、怪物扱いされてもなお、彼は私の「騎士」であろうとしている。
「ガブ……!」
私は杖を握りしめた。逃げる?できるわけがない。彼が盾になるというのなら、私は――。
男の指が離れた。ヒュンッ!今度は、風をまとった貫通力の高い矢だ。狙いはガブの眉間。
ガブは避けなかった。避ければ、後ろにいる私に当たるからだ。彼は真正面から、その死の矢を受け止めようとしていた。
215:鍋のふた、砕ける
死の旋風が迫る。ガブには避ける術がない。ナイフ一本で、魔法の込められた矢を弾くことなど不可能だ。
その刹那。ガブの手が、燃え盛るリュックの残骸の近くに転がっていた「あるもの」を掴んだ。
それは、黒ずんだ鉄の円盤。私たちが旅の最初から使い続けてきた、重厚な鋳鉄製の「鍋のふた」だった。
「うおおおおっ!」
ガブは気合一閃、その鍋のふたを盾のように構えた。本来は煮込み料理を作るための道具。しかし、それは分厚く、頑丈で、私たちの旅の食卓を守ってきた象徴でもあった。
ガギィィィン!!
金属音が森に響き渡る。風の矢が、鍋のふたの中央に激突した。火花が散る。凄まじい回転力が、鉄を削り、貫こうとする。
「ぐぐぐっ……!」
ガブが歯を食いしばり、両足で地面を踏ん張る。彼の細い腕の筋肉が悲鳴を上げ、血管が浮き上がる。矢の威力は桁外れだ。普通の盾ならとっくに貫通しているだろう。
だが、この鍋のふたは耐えた。毎日のように火にかけられ、私の下手な料理を受け止め、ガブが丁寧に磨いてきた、生活の証。それが今、命を守る最後の砦となっていた。
「何っ!?」
男が初めて表情を崩した。鍋のふたごときに、必殺の矢が防がれるとは予想していなかったのだろう。
しかし、物理的な限界は近づいていた。ピキッ。嫌な音がした。ふたの表面に、亀裂が走る。
「ガブ!もういい、離して!」
私が叫ぶのと同時だった。
パァァァン!!
破裂音がした。鍋のふたが、粉々に砕け散ったのだ。鋭い鉄の破片が散弾のように飛び散り、衝撃波がガブを襲った。
「がはっ……!」
ガブは人形のように吹き飛ばされ、地面を転がった。その体には、無数の切り傷が刻まれ、血が滲んでいる。そして矢は軌道を逸らされ、私の頬を掠めて後方の木に突き刺さった。
「ガブ!」
私は彼に駆け寄った。彼はうつ伏せに倒れ、ピクリとも動かない。周囲には、砕け散った鍋のふたの破片が散らばっていた。取っ手の部分。縁の部分。雪山でスープを煮込んだ時も、雨の日に雨宿り代わりに頭に乗せた時も、いつもそこにあった「日常」が、無残な鉄屑と化していた。
「あ、あぁ……」
私の唇が震える。日常が壊された。平和への願いが、踏みにじられた。
男がゆっくりと近づいてくる。彼は足元に転がった鍋のふたの欠片を、ブーツの底で無造作に踏みつけた。ガリッ、と嫌な音がする。
「くだらん」
男は吐き捨てるように言った。
「調理器具で身を守ろうなどと、ままごとにも程がある。所詮は小鬼の知恵か」
ままごと。私たちの旅は、ままごとだったと言うのか。必死に生きて、笑い合って、温かいスープを分け合ったあの時間は、彼にとっては踏みにじる価値すらないゴミだと言うのか。
男は動かなくなったガブを一瞥し、私に弓を向けた。
「次は貴様の番だ、魔女。安心しろ、痛みは一瞬だ」
矢がつがえられる。私は動けなかった。恐怖で動けないのではない。心の中に湧き上がる、どす黒い感情が、私の思考を塗りつぶしていたからだ。
私の大切な友達。私の大切な思い出。それを傷つけ、壊し、あざ笑った。
許せない。絶対に、許せない。
私の中で、何かがプツンと切れる音がした。今まで無意識にかけていた、理性という名のブレーキが壊れた音だった。
216:リゼの暴走
視界が赤く染まっていくような錯覚。私の体から、制御できないほどの魔力が溢れ出し、周囲の空気を震わせていた。
「許さない」
私の口から漏れた声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。男が眉をひそめる。
「何だ?その魔力は」
私はゆっくりと立ち上がった。手にした杖が、私の感情に呼応して激しく明滅している。普段なら、精霊たちに優しく語りかけ、お願いをして力を借りる。それが私の魔法スタイルだ。けれど、今は違う。丁寧な言葉を選んでいる余裕などない。心が叫んでいる。
(風の精霊たちよ!大気の乙女たちよ!聞いて!お願い、聞いて!)
私は心の中で絶叫した。それは祈りというよりも、慟哭に近かった。
(あいつは……あいつは私の大事なものを壊した!私の友達を傷つけた!お願い、力を貸して!あいつを吹き飛ばして!バラバラにして!私の怒りを、悲しみを、全部ぶつけて!)
精霊たちがざわめく気配を感じた。いつもなら「仕方ないわね」と気まぐれに力を貸してくれる彼らが、今は私の激情に共鳴し、恐ろしいほどの密度で集まってくる。精霊は感情に敏感だ。特に、純粋な怒りや悲しみは、彼らにとって強力な触媒となる。
ゴオオオオオオッ!!
突然、森の中に突風が巻き起こった。木々が悲鳴を上げ、枝がへし折れる。落ち葉や土砂が舞い上がり、私を中心に巨大な渦を形成し始めた。
「な、なんだこれは!?」
男が初めて動揺を見せ、後ずさる。彼は即座に矢を放った。ヒュンッ!しかし、その矢は私に届く前に、暴風の壁に弾かれ、あらぬ方向へと吹き飛ばされた。
「届かないわよ」
私は虚ろな目で男を見据えた。髪が逆立ち、ローブがバタバタと音を立ててはためく。私は杖を振り上げた。魔法の構築式などない。ただ、目の前の敵を排除したいという殺意だけが、膨大なマナとなって噴出する。
「『風よ、狂いなさい』!!」
私の叫びと共に、圧縮された空気が爆発的に解放された。それはもはや魔法というより、局地的な災害だった。目に見えない風の刃が無数に生まれ、竜巻となって男に襲いかかる。
「くっ、馬鹿な!無詠唱でこの威力だと!?」
男は弓を捨て、両腕で顔を覆って防御姿勢を取った。だが風の暴力は容赦がない。彼の革鎧が切り裂かれ、鮮血が舞う。周囲の太い木々が、まるでマッチ棒のように薙ぎ倒されていく。
バリバリバリッ!轟音と共に、地面がめくれ上がる。
「あはっ……あははっ!」
私は笑っていたかもしれない。涙を流しながら。力が溢れて止まらない。もっと、もっと壊したい。何もかも消し去ってしまいたい。
(主よ、鎮まりたまえ!これ以上は森が死に絶える!)
精霊たちの悲痛な声が聞こえた気がした。けれど止まれない。暴走した魔力は、私の意思を超えて、破壊の限りを尽くそうとしていた。
男は吹き飛ばされ、大木に激突してぐったりとしている。それでも風は止まない。今度は、倒れているガブのほうへも被害が及びそうになる。
その時。
「リゼ……!」
嵐の音にかき消されそうな、微かな声が聞こえた。ガブだ。彼は血まみれになりながら、這いつくばって私の方へ手を伸ばしていた。
「やめろ……リゼ……そんな顔、するな……」
ハッとした。私は今、どんな顔をしているのだろう。きっと、「魔女」と呼ばれるにふさわしい、鬼のような形相をしているに違いない。ガブを守るために戦っているはずなのに、私はガブが一番恐れる「怪物」になろうとしている。
私は杖を下ろそうとした。だが、一度暴れだした嵐は、そう簡単には止まってくれない。暴走したエネルギーが逆流し、私の体を内側から蝕み始めた。
「うっ……あぁぁぁっ!」
全身を走る激痛。視界が白く染まり、意識が遠のいていく。初めての全力の攻撃魔法――いや、ただの魔力放出は、敵だけでなく、私自身をも壊そうとしていた。




