EP72
211:逃亡生活ふたたび
少年から投げつけられた石の痛みよりも、拒絶された心の傷のほうが、ガブの歩みを重くさせていた。私たちは街道を避け、獣道すら存在しない深い森の奥へと分け入っていた。目指す南の方角は変わらないが、その進路はジグザグと迷走し、追っ手を撒くためにあえて険しい地形を選ばざるを得なかった。
「ガブ、傷見せて」
岩陰で小休止を取った際、私は彼の額に触れようとした。血は止まっているが、青黒い痣が残っている。
「平気だ。ゴブリンは頑丈だからな」
ガブは私の手を避けるように顔を背けた。その横顔には、以前のような好奇心に満ちた輝きはない。ただ、諦念のような暗い影が落ちている。
「平気なわけないでしょ。心だって……」
私は言いかけて口をつぐんだ。慰めの言葉など、今の彼には空虚に響くだけだ。「人間は怖くない」「いつか分かり合える」なんて綺麗事は、あの少年の悲鳴がかき消してしまった。
私たちは「逃亡者」としてのルーティンを再開した。かつて雪山で遭難しかけた時とは違う。あの時は自然だけが敵だったが、今はどこに人間の目があるかわからない。火は焚けない。煙が上がれば即座に見つかるからだ。夜は交代で仮眠を取り、昼間は息を潜めて移動する。
食料も尽きかけていた。手持ちの干し肉は底をつき、今は道すがら見つけた酸っぱい木の実や、硬い根菜をかじって飢えを凌いでいる。
「水がないな」
ガブが水筒を振る。チャプ、とも言わない。空っぽだ。川沿いを行けば水には困らないが、そこは最も警戒が厳しいルートでもある。山の中腹を行く私たちにとって、水源の確保は死活問題だった。
「私が探すわ。少し、静かにしていてね」
私は杖を両手で握りしめ、地面に膝をついた。乾いた土の匂いがする。だが、その奥底には必ず水脈があるはずだ。
(土の底深くに眠る、静やかなる水の精霊たちよ。喉の渇きに苦しむ私たちに、どうか慈悲の雫を分け与えてはいただけないでしょうか)
心を鎮め、丁寧に語りかける。命令してはいけない。彼らは気まぐれで、繊細な隣人なのだから。
しばらくすると、杖の先が微かに湿り気を帯び、青白い光が明滅した。
「あっちね。岩場の裂け目から、地下水が滲み出している気配がする」
「さすがリゼだ。魔法って便利だな」
ガブが力なく笑う。
「便利、か。でもこの力のせいで、私たちは追われているのかもしれないわね」
私たちは光の示した方向へ歩き、苔むした岩の隙間から滴り落ちる湧き水を見つけた。冷たく透き通った水。手ですくって飲むと、生き返る心地がした。
「うめぇ……」
ガブが顔を洗い、生き生きとした表情を少しだけ取り戻す。
「リゼ、これボトルに詰めよう。泥水じゃない水なんて、久しぶりだ」
そうして水を補給し、再び歩き出そうとした時だった。ガブが不意に立ち止まり、鼻をひくつかせた。
「匂いがする」
「え?誰か来るの?」
「いや、今はいない。でも、この辺りに最近、誰かがいた匂いだ」
ガブは地面に這いつくばり、落ち葉を掻き分けた。そこには、真新しい焚き火の跡があった。完全に埋め戻され、隠蔽工作がされているが、ガブの嗅覚までは誤魔化せなかったようだ。
「プロだ」
ガブが低く唸る。
「普通の旅人や村人じゃない。痕跡を消す手際が良すぎる。それに……この匂い、油と鉄、それから微かな薬草の匂い」
私は背筋が寒くなるのを感じた。
「賞金稼ぎ……あるいは、専門の狩人ね」
騎士団のような集団行動ではない。少人数、もしくは単独で、獲物を追い詰めることに特化した存在。あの手配書が回ってから、数日が経過している。金貨百枚という破格の賞金は、腕に覚えのある無法者たちを呼び寄せるには十分すぎる餌だ。
「囲まれてるわけじゃなさそうだが、進行方向にいるな」
ガブが立ち上がり、南の森を睨む。
「待ち伏せか、あるいは先回りして罠を張ってるか」
「ルートを変えましょう。少し遠回りになるけれど、西の渓谷へ降りるわ」
「了解。リゼ、離れるな」
私たちは逃げるようにその場を離れた。森の木々が、以前よりも黒く、圧迫感を持って迫ってくるように感じる。風の音さえも、誰かの囁き声に聞こえた。
逃亡生活ふたたび。けれど今度は、終わりが見えない。どこへ行けば安全なのか。誰を信じればいいのか。安息の地など、この世界のどこにも残されていないような絶望感が、鉛のように足に絡みついていた。
それでも歩くしかなかった。止まることは、諦めることと同義だからだ。私はガブの背中を見つめながら、必死に足を動かし続けた。
212:夜道の追跡者
太陽が沈み、森が本当の闇に包まれる時刻。私たちは夜通し歩くことを選択した。昼間は目立つ。それに、追っ手の多くは人間だ。夜目が効くガブがいる私たちにとって、夜こそが唯一のアドバンテージとなるはずだった。
「足元、気をつけて」
ガブが私の手を引く。月明かりすらない暗闇の中、彼には木の根や石ころがはっきりと見えているようだ。私は彼の手を命綱にして、一歩一歩慎重に進む。
静かすぎる夜だった。虫の声もしない。鳥の羽音もしない。まるで森全体が息を殺して、何かの結末を待っているかのような緊張感。
「おかしい」
ガブが足を止めた。
「どうしたの?」
「静かすぎる。それに、さっきから……ずっと同じ距離で、何かがついてきてる」
心臓が早鐘を打つ。私も耳を澄ませた。風が枝を揺らす音。遠くの川のせせらぎ。それだけだ。足音など聞こえない。
「気のせいじゃないの?」
「いや、絶対にいる。右後ろ、距離およそ五十メートル。風下に回って、匂いを消してる」
ガブの感覚を疑う余地はない。追跡者がいる。それも、こちらの気配を察知しながら、決して姿を見せない手練れが。
「撒ける?」
「やってみる。走るぞ!」
ガブの合図で、私たちは駆け出した。暗闇の中を疾走する。枝が顔を打ち、茨が服を引き裂くが、構っていられない。急な斜面を滑り降り、冷たい小川を渡り、足跡と匂いを断ち切ろうと試みる。
十分ほど走り続け、巨木の陰に身を隠した。荒い息を殺し、背後の闇を伺う。
シーン……。静寂。
「撒いたか?」
ガブが囁く。しかしその直後だった。
ヒュンッ。
風を切る鋭い音がして、私たちのすぐ横の幹に、何かが突き刺さった。矢だ。それも、ただの矢ではない。突き刺さった箇所から、青白い燐光が漏れ出し、私たちの姿を闇の中に浮かび上がらせた。
「照明弾!?見つかった!」
私が叫ぶと同時に、闇の奥から声が響いた。
「逃げ足の速い小鬼だ。それに、魔力探知を欺く術を使う魔女か。いい獲物だ」
男の声だった。低く、冷徹で、感情の起伏を感じさせない声。声のした方向――私たちが逃げてきたまさにその方角から、一人の人影が音もなく歩いてきた。
黒い革鎧に身を包み、顔の下半分を布で覆っている。手には、身の丈ほどもある巨大な長弓。背中には、禍々しい魔力を帯びた矢筒を背負っていた。
「貴様、何者だ!」
ガブが私の前に飛び出し、ナイフを構える。
「名乗る必要はない。だが、死に土産に教えてやろう。ギルドでは『静寂の射手』と呼ばれている」
男は立ち止まり、ゆっくりと矢をつがえた。その動作には一切の無駄がなく、流れる水のようだった。距離は三十メートル。弓の射程としては至近距離であり、絶対に外さない距離だ。
「金貨百枚。いい稼ぎになる」
男の目が、獲物を値踏みするように私たちを射抜いた。
「逃げるわよ、ガブ!あいつはヤバい!」
私の本能が警鐘を鳴らしていた。騎士団の兵士とは違う。この男は、殺しの専門家だ。私たちは反対方向へ走り出そうとした。だが、男の指が弦を放つ方が早かった。
ヒュオオオッ!
放たれた矢は、物理法則を無視して空中でカーブを描いた。そして、逃げようとする私たちの進行方向にある地面に突き刺さり、爆発した。
ドォォォン!土煙が舞い上がり、衝撃波が私たちを吹き飛ばす。
「うわっ!」
「きゃあ!」
私たちは地面に転がった。
「魔法の矢……!?」
私は顔を上げ、驚愕した。矢じりに爆裂魔法が込められている。魔導師と弓兵のスキルを併せ持つ「魔法弓士」だ。
「次は足を狙う。生きたまま連行しろとは書かれていなかったからな」
男は次なる矢をつがえている。その矢先には、赤い魔力が渦巻いていた。
逃げ場はない。夜の森は狩人の庭だった。私たちは完全に、蜘蛛の巣にかかった蝶のようだった。
213:魔法の矢
「ガブ、離れて!私が防ぐ!」
私は立ち上がり、杖を構えた。逃げられないのなら、戦うしかない。相手は遠距離攻撃のスペシャリストだ。次の矢が放たれるまでの数秒が勝負の分かれ目になる。
男の弓が引き絞られる。赤い魔力が凝縮し、矢じりが灼熱の光を放ち始めた。炎の魔力を帯びた矢だ。あれを食らえば、人間など一瞬で灰になる。
(大気を司る自由なる精霊たちよ。どうか私の声を聞き、その身を固めて盾となり、彼の者の悪意を弾き返してはくれないでしょうか!)
私は早口で、しかし敬意を込めて詠唱した。精霊魔法の弱点はここにある。即応性が低いのだ。相手の魔法弓は、自身の魔力を込めるだけだから発動が早い。
「遅い」
男が冷酷に呟き、指を離した。
ズドンッ!放たれた矢は、まるで大砲の弾丸のように真っ直ぐ私に向かって飛んできた。
「『風の障壁』!」
私の杖から緑色の突風が吹き出し、目の前に空気の壁を作り出す。炎の矢と、風の壁が衝突した。
ゴオオオオッ!激しい炎が風に煽られ、周囲に散らばる。熱風が顔を焼き、髪を焦がす。
「くっ……!」
私は衝撃に耐えきれず、数歩後ずさった。防ぎきれなかった熱が、皮膚をチリチリと焼く。
「ほう。無詠唱ではないが、精霊魔法か。面倒だな」
男は表情一つ変えずに、三本目の矢を取り出した。今度は青い矢。氷結の魔力だ。
「リゼ!伏せろ!」
ガブが横から飛び出し、石を投げつけた。原始的な攻撃だが、男の狙いを逸らすには十分だった。男はわずかに身をかわし、その隙にガブはジグザグに走りながら距離を詰めようとする。
「小賢しい小鬼だ」
男はターゲットをガブに変更した。至近距離で放たれる氷の矢。ヒュッ!ガブは驚異的な反射神経で地面を転がり、矢を回避した。矢が突き刺さった地面が、一瞬にして凍りつき、氷柱が放射状に伸びる。
「危ない!」
あと数センチ遅れていたら、ガブの足は凍りついて砕かれていただろう。
「近づけさせないか」
男はバックステップを踏みながら、連射を始めた。ヒュン、ヒュン、ヒュン!雷の矢、風の矢、土の矢。属性の異なる魔法の矢が、雨のように降り注ぐ。
「きゃぁぁっ!」
私は防戦一方だった。自分の身を守る『風の障壁』を展開するのが精一杯で、反撃の隙がない。精霊にお願いしている間に、次々と矢が飛んでくる。
「ガブ、下がって!近づけない!」
ガブもまた、木々の陰を飛び移りながら逃げ回ることしかできない。彼のナイフでは、この距離と弾幕を越えることは不可能だ。
男は私たちが消耗するのを待っている。冷静で、残酷な狩り。
「そろそろ終わりにするか」
男が、今までで一番太く、黒い矢を取り出した。矢じりからは、ドス黒い瘴気のようなものが立ち上っている。
「あれは……『呪いの矢』!?」
私は戦慄した。肉体を傷つけるだけでなく、魔力の流れを阻害し、神経を麻痺させる禁断の矢だ。あんなもの、正規の騎士団ですら使わない。
「魔女にはお似合いだろう?」
男が弓を引き絞る。狙いは私だ。
私は必死に精霊に呼びかけた。
(風よ!お願い、もっと強く!嵐のように吹き荒れて!)
しかし、恐怖で心が乱れ、精霊との同調が上手くいかない。風が……集まらない!
「リゼ!」
ガブの悲鳴が聞こえた。
男の指が離れる。黒い矢が、音もなく空気を切り裂き、私の心臓を目掛けて飛来した。動けない。死ぬ。
そう思った瞬間、視界の端で緑色の影が動いた。ガブだ。彼は自分の身を隠していた木の陰から、全力で飛び出した。私を突き飛ばすためではない。矢の軌道上に、自分の体を割り込ませるために。
「ガブッ!?」
私の目の前で、時間がスローモーションになった。黒い矢と、小さな緑色の背中が交錯する。
ドスッ。
鈍く、重い音が森に響いた。それは、私の旅の終わりを告げる音のように聞こえた。




