EP71
208:「魔女と小鬼」
冷たい雨が、容赦なく森を叩いていた。泥を跳ね上げ、私たちは闇の中をひたすらに走った。息が切れる。肺が焼けるようだ。けれど、足を止めれば「死」が追いついてくる恐怖が、私たちを突き動かしていた。
宿場町で見つかったあの瞬間、男が吹き鳴らそうとした笛の音色は未遂に終わった。けれど、私の放った風の魔法と、男の叫び声は、十分に周囲の警戒を呼び覚ましてしまった。遠くで犬の吠える声がする。松明の光が、蛍の群れのように宿場の方角で揺れているのが見えた。
「はぁ、はぁ……リゼ、こっちだ!川沿いは見通しがいいから、岩場を抜けるぞ!」
ガブが私の手を引き、獣道ですらない急斜面を指差した。彼の判断は正しい。追っ手はまず街道と川を封鎖するはずだ。私たちは泥に足を滑らせながら、岩が露出した斜面をよじ登った。
雨音がかき消してくれるとはいえ、私たちの痕跡は残る。私は岩陰に身を隠し、震える手で杖を握り直した。精霊たちに、痕跡の隠滅を頼まなければならない。焦る心を落ち着け、私は深く息を吸い込んだ。
(雨の精霊たちよ、空より降り注ぐ清らかな雫たちよ。私たちの過ぎ去った跡を、その優しさで洗い流してほしいのです)
命令ではなく、祈り。私は魔力を捧げ、静かに語りかけた。
「『雨の隠蔽』」
私の願いに応えるように、雨脚が局地的に強まった。激しい雨粒が、泥に残った足跡を叩き、崩し、ただのぬかるみへと変えていく。私たちの体臭も、雨の匂いの中に溶けて消えていった。
「サンキュ、リゼ。これなら鼻のいい猟犬でも追えない」
ガブが小声で言った。私たちはそのまま夜通し歩き続け、夜明け前、古い大木の根元にできた空洞を見つけて滑り込んだ。
狭く、湿った土の匂いがする場所だったが、雨風をしのげるだけで天国のように思えた。私はリュックを下ろし、泥だらけのマントにくるまって膝を抱えた。寒さで歯がカチカチと鳴る。
「見たか、あの紙」
ガブが苦笑しながら言った。彼は私の隣に座り、濡れた髪をかき上げた。その笑顔は、私を安心させるための強がりだと痛いほどわかった。
「ええ。『魔女と小鬼』……。随分と大層な二つ名がついたものね」
私は自嘲気味に答えた。
魔女。アカデミーで魔法を学ぶ者にとって、それは侮蔑と恐怖の対象を表す言葉だ。正当な教育を受け、秩序を守るのが「魔導師」や「魔法使い」。対して、禁忌に触れ、人倫を外れ、魔物と交わって災いをなす者が「魔女」。
私は憧れの魔導師を目指していたはずだった。それなのに、今や国中に「虐殺者の魔女」として指名手配されている。この落差に、心が折れそうになる。
「金貨百枚だってよ。オレの首、そんなに高いのか?」
ガブが自分の首筋をポンと叩く。
「高いわよ。平民が一生遊んで暮らせる金額だわ。つまり、誰しもが目の色を変えて私たちを殺しに来るということ」
賞金稼ぎ、貧しい農民、手柄を求める騎士。すべての人間が敵になる。冬の雪山で感じた「自然の厳しさ」とは違う、「悪意の包囲網」が私たちを締め上げていた。
「へへっ、人気者は辛いな」
ガブはわざとおどけて見せたが、その目は笑っていなかった。彼は、掲示板に描かれていた自分の絵――醜悪で、血に飢えた怪物の姿――を思い出しているのだろう。
「ごめんね、ガブ」
私は彼の冷たい手を握った。
「あんな酷い絵……あなたはあんなんじゃない。もっと優しくて、賢くて、素敵なゴブリンなのに」
「わかってる。人間から見れば、オレたちみんな同じ『害獣』なんだろ」
ガブは私の手を握り返した。その力は強かった。
「でも、リゼは違う。リゼは人間だ。オレと一緒にいるから巻き込まれただけだ。もし、リゼが一人で出頭すれば、誤解だって解けるんじゃないか?」
彼は、自分の命を差し出す覚悟で言っているのだ。私が「脅されていた」と証言すれば、私は助かるかもしれない、と。
「バカなこと言わないで」
私は即座に否定した。
「『魔女』というレッテルは、一度貼られたら剥がれないわ。それに、あなたを置いて私だけ助かるなんて、生きていても死んでいるのと同じよ」
私は彼の方を向き、真剣な眼差しで見つめた。
「私たちは共犯者よ。魔女と小鬼上等じゃない。この汚名を晴らすまで、あるいは安全な場所に逃げ切るまで、絶対に離れない」
ガブは少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに、でも少し泣きそうな顔で笑った。
「わかった、魔女様。この小鬼が、最後までお供する」
雨音は止まない。けれど、繋いだ手の温もりだけが、冷え切った世界の中で唯一の確かな希望だった。私たちは寄り添い合い、泥のように眠りに落ちた。束の間の休息の先には、さらに過酷な明日が待っているとも知らずに。
209:私たちのこと?
翌朝、雨は上がっていたが、空は重い鉛色をしていた。私たちは空腹を抱えたまま、人目を避けて森の奥を進んでいた。食料が尽きている。野草や木の実を探しながらの移動だが、春先とはいえ、二人の胃袋を満たすほどの収穫はない。
「腹減ったなぁ……」
ガブがお腹を押さえる。ゴブリンの代謝の良さは、飢餓状態では弱点になる。彼は成長期でもあり、エネルギーを常に欲していた。
「少し先に、小さな集落があるみたい」
私が地図を確認して言う。
「村の中には入れないけれど、畑の外れに残った野菜くずや、森に仕掛けられた罠にかかった獲物を拝借できないか見てみましょう」
泥棒の真似事だ。プライドはとっくに捨てた。生きるためには何でもする。私たちは慎重に集落へと近づいた。そこは、街道沿いの休憩所を兼ねた小さな集まりだった。井戸端に数人の女性が集まり、洗濯をしながら話をしている。近くには行商人らしき荷馬車も停まっていた。
私たちは風下の茂みに伏せ、様子を伺った。何か食べるものを探す前に、情報が必要だった。手配書がどこまで広まっているのか。追っ手の動きはどうなっているのか。
(風の精霊たちよ、自由なる旅人たちよ。あの者たちの声を、ここまで運んではいただけませんか?)
私は風の精霊に語りかけ、聴覚強化の魔法を紡いだ。
「『風の便り』」
ざわめきがクリアな音声となって耳に届く。洗濯をする女性たちの世間話だ。
『聞いた?ノースウッドの村の話』
『ええ、恐ろしいわねぇ。なんでも、ゴブリンの大群が押し寄せたんでしょ?』
『違うわよ。旅の商人が言ってたけど、あれは「魔女」が儀式のために村を焼いたんだって』
心臓がドクンと跳ねた。話題は、やはり私たちのことだった。
『儀式?』
『そうよ。なんでも、その魔女は若い女で、悪魔と契約して若さを保ってるらしいわ。で、その生贄として村人全員を焼き殺して、その魂を自分の「下僕」のゴブリンに食わせたんですって!』
あまりの荒唐無稽な話に、私は眩暈がした。若さを保つ?魂を食わせる?事実は捻じ曲げられ、尾ひれがつき、おぞましい怪談へと変貌していた。
『ひぃぃ、嫌だわぁ。そのゴブリンも、身の丈が二メートルもある大男で、口から毒の炎を吐くらしいじゃない』
『人間の子供が大好物で、骨までバリバリ食べるって……』
『騎士様たちが追いかけてるけど、魔法で姿を消して、夜な夜な次の獲物を探してるって話よ。戸締まりしっかりしなきゃ』
隣で聞いていたガブが、耳を塞ぐようにして顔を伏せた。彼の肩が震えている。
「オレ、子供なんて食べない」
蚊の鳴くような声だった。
「毒の炎なんて吐けないし……二メートルもないし……」
悔しさが滲み出ていた。彼は努力して人間の言葉を覚え、マナーを学び、誰よりも人間らしくあろうとした。それなのに、世間の噂の中での彼は、理性のないただの怪物だ。そして、その怪物を生み出した元凶として、私が語られている。
『早く捕まえて処刑してほしいわね』
『火あぶりがいいわ。魔女には火が一番よ』
『首をはねて、城門に晒すべきだわ』
女性たちの声には、一片の迷いもなかった。彼女たちは私たちを人間だとは思っていない。排除すべき「絶対悪」として、残酷な刑罰を望んでいる。これが、大衆の「正義」だ。わかりやすい敵を作り、それを叩くことで安心を得る。
私は魔法を解いた。これ以上聞いていると、心が壊れてしまいそうだったからだ。
「行こう、ガブ」
私は彼の肩を叩いた。
「何も盗らずに行くの?」
「ええ。こんな近くにいたら、いつ見つかるかわからない。それに……食欲が失せたわ」
私たちは這うようにしてその場を離れた。背中には、見えない「悪意」の視線が突き刺さっている気がした。
「私たちのこと?いいえ、あれは彼女たちが作り出した妄想の怪物よ」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。でも、その妄想の怪物が、現実の私たちを殺そうとしている。誤解は解けない。弁解の余地はない。私たちはただ、その歪んだ鏡に映った自分たちの姿に怯えながら、逃げ続けるしかなかった。
210:誤解と偏見
さらに南へ下り、人里離れた山道を歩いていた時のことだ。空腹で足がもつれそうになりながらも、私たちは警戒を怠っていなかった。だが、運命の悪戯は突然訪れる。
「うわぁぁぁん!」
子供の泣き声が聞こえた。前方、道の脇にある崖の下からだ。ガブがぴたりと足を止める。
「子供だ。落ちたのか?」
「放っておきましょう」
私は冷たく言った。
「罠かもしれないし、助けたとしても、顔を見られれば通報されるわ」
今の私たちに、人助けをする余裕などない。それは自殺行為に等しい。しかし、ガブの足は動かなかった。耳が良い彼には、子供が怪我をして苦しんでいる様子がわかるのだろう。
「でも、リゼ。血の匂いがする。このままだと死ぬかもしれない」
ガブが私を見る。その目は、かつて私が彼を助けた時と同じ色をしていた。
「オレ、行くよ。顔を隠して、助けたらすぐに逃げる」
「ガブ!」
止める間もなく、ガブはフードを目深に被り直し、崖の下へと滑り降りていった。私は舌打ちをして、杖を構えて彼を追った。崖の下には、十歳くらいの少年がうずくまっていた。足を挫いたらしく、膝から血を流している。山菜取りに夢中になって滑落したのだろう。
「大丈夫か?」
ガブが努めて優しい声で、人間の言葉で話しかけた。少年は涙目で顔を上げた。
「足が……痛いよぉ……」
「見せて。うん、折れてはいないな」
ガブは手際よく少年の足を確認し、自分の服の裾を裂いて包帯代わりに巻こうとした。その時だった。
風が吹き、ガブのフードがめくれた。緑色の肌。尖った耳。そして、人間とは違う、大きな瞳。
少年の目が、恐怖で見開かれた。痛みを忘れ、本能的な拒絶が彼を支配した。
「ひっ……!」
少年は後ずさり、近くにあった石を掴んだ。
「バケモノ!あっち行け!」
ドゴッ。投げられた石が、ガブの額に直撃した。不意を突かれたガブは、よろめいて尻餅をついた。額から一筋の血が流れる。
「痛っ……」
「来るな!食われる!助けてぇぇぇ!」
少年は狂ったように叫び、さらに石を投げ続けた。ガブは反撃しなかった。ただ腕で顔を覆い、じっと耐えていた。
「やめなさい!」
私が崖を飛び降り、ガブの前に立ちはだかった。
少年は私を見て、一瞬救われたような顔をした。
「お姉ちゃん、助けて!ゴブリンが!僕を食べようとして……!」
違う。彼はあなたを助けようとしたのよ。そう叫びたかった。けれど、この少年の目には、ガブは「悪」にしか映っていない。私の背後でうずくまるガブは、手当をしようとした布切れを握りしめたまま震えている。
「帰りなさい」
私は杖を少年に向け、低い声で言った。
「今すぐここから立ち去りなさい。さもないと……」
私はわざと、冷酷な「魔女」の顔を作った。少年はヒッと息を呑み、足の痛みも忘れて、這うようにして崖を登り、逃げていった。
「バケモノだ!魔女だー!」
遠ざかる叫び声。
静寂が戻った崖下に、私たちだけが残された。ガブの額の血が、ポタポタと地面に落ちる。
「大丈夫?」
私がハンカチで血を拭うと、ガブは力なく笑った。
「やっぱり、ダメだな」
「え?」
「本に書いてあったこと、全部嘘じゃないか。困ってる人を助ければ、感謝されるって……。オレ、ただ助けたかっただけなのに」
彼の言葉が、胸をえぐる。そう、彼は何も悪くない。悪いのは、彼を「ゴブリン」という枠組みだけで判断する偏見だ。けれどその偏見こそが、今のこの世界の常識なのだ。
「あなたは悪くないわ、ガブ。あの子が愚かだっただけ」
私は彼を抱きしめた。けれど、私の言葉は空虚だった。あの子が悪いわけでもない。親や社会から「ゴブリンは悪だ」と教え込まれていただけなのだから。
誤解と偏見。それは剣や魔法よりもタチが悪い。心の奥底に根付き、善意さえも恐怖に塗り替えてしまう。
「行こう、リゼ。あいつ、村の人を呼んでくる」
ガブが立ち上がった。その背中は、石をぶつけられた痛みよりも、心の痛みで小さく見えた。
私たちは再び歩き出した。誰にも理解されない。誰にも助けを求められない。ただ二人だけの、終わりの見えない逃亡生活が、本当の意味で始まったのを感じていた。




