EP70
205:騎士団の影
月明かりさえ届かない深い森の奥。私たちは、腐葉土の上に身を投げ出し、荒い呼吸を整えていた。
「はぁ、はぁ……ここまで来れば、もう追ってこないだろ……」
ガブが大の字になって空を仰ぐ。彼の緑色の肌は泥と煤で汚れ、自慢の革鎧もあちこちが裂けていた。
「いいえ、油断はできないわ」
私は杖を抱きしめ、身を起こした。肺が焼けつくように痛い。けれどそれ以上に胸を圧迫するのは、言いようのない不安だった。
先ほど、私たちは確かに村の追っ手を振り切った。物理的な距離は稼いだ。暗闇と森の地形は、今のところ私たちに味方している。けれど、背筋に走る悪寒が消えない。まるで、巨大な猛獣の視界の中にまだ留まっているような感覚。
「ガブ、空を見て」
私が指差した先、木々の隙間から見える夜空に、赤い光の筋が走っていた。流れ星ではない。地上から打ち上げられた、魔法による信号弾だ。
「なんだあれ?花火か?」
「『伝令の赤狼煙』よ。騎士団が緊急事態を知らせる時に使うもの。あれが見えるということは、近隣の駐屯地すべてに、事態が知れ渡ったということだわ」
ガブが体を起こし、表情を引き締めた。
「仲間を呼んだってことか?」
「ええ。それも、ただの増援じゃない。国境警備隊の本隊、もしかすると王都の騎士団まで動くかもしれない」
私はアカデミーで学んだ軍事学の知識を反芻した。村一つが壊滅し、そこに「知性ある魔物」と「それを操る魔女」が関与しているとなれば、王国にとってそれは災害ではなく「侵略」とみなされる。動員される兵力は桁違いになるはずだ。
「騎士団の影……」
私はその言葉を口の中で転がした。彼らの本当の恐ろしさは、個々の武力ではない。その組織力と、執拗なまでの追跡能力だ。影のように、どこまでも張り付いてくる。
「痕跡を消さないと」
私は立ち上がり、杖を構えた。私たちが逃げてきた道。折れた枝、踏み荒らされた草、そして匂い。それら全てが、彼らにとっては道標になる。
(静寂を愛する土の精霊たちよ。我らが残した騒がしき爪痕を撫で、元の穏やかな眠りへと戻してください。)
私は地面に膝をつき、掌を土に当てて深く念じた。
「『隠蔽の道』」
土が波打つように動き、私たちが踏み固めた足跡を飲み込んでいく。草たちが起き上がり、折れた枝葉が腐葉土の下へと沈む。完璧ではないけれど、これで通常の追跡犬や斥候の目は欺けるはずだ。
「すげぇな、リゼ。これならオレたちがどこに行ったか、わからなくなる」
ガブが感心したように言う。
「でも、魔法の痕跡は残るわ。優秀な魔法使いが追っ手にいれば、この『隠蔽』自体を探知されるかもしれない」
私は苦々しく付け加えた。魔法を使えば見つかるリスクが増し、使わなければ物理的な痕跡で見つかる。八方塞がりだ。
「なあ、リゼ」
ガブが私の袖を引いた。暗闇の中で、彼の瞳が鋭く光っている。
「なんか、音がする」
「音?」
「ああ。遠くだけど……規則正しい音だ。蹄の音と、鉄の擦れる音。こっちに向かってきてるわけじゃないけど、森を囲むように動いてる」
包囲網。まだ夜明け前だというのに、彼らは休むことなく展開しているのだ。街道を封鎖し、川を押さえ、森をブロックごとに区切って虱潰しにする戦術。
「急ぎましょう」
私は決断した。
「休んでいる暇はないわ。夜が明ければ、空からの捜索も始まる。その前に、この包囲の薄い場所を見つけて突破しないと」
「わかった。オレが先導する。一番静かで、一番暗い道を選んでやる」
ガブが再び歩き出した。その背中は、以前よりも小さく見えた。いいえ、違う。彼を取り巻く世界の敵意が、あまりにも巨大になったのだ。
私たちは闇の中を進む。背後には、見えない「騎士団の影」が、じわりじわりと広がってきていた。その影に飲み込まれれば、私の旅も、ガブの命も、そこで終わる。
もはや、ただの旅ではない。これは生存競争だ。私たちは、王国の正義という名の巨大な牙から、逃げ続けなければならない。
206:検問の厳格化
夜が明け、朝霧が森を包み込んだ頃、私たちは街道を見下ろす高台の茂みに潜んでいた。南へ向かうためには、どうしても大きな川――ルベリア川を渡らなければならない。その唯一の橋が、目の前にあった。
「おいおい、なんだありゃ」
ガブが双眼鏡代わりの筒(植物の茎で作ったものだ)を覗き込み、呆れた声を出す。
私も目を凝らした。普段なら通行税を徴収するだけの小さな詰め所が、今は厳重な要塞と化していた。橋の両端には逆茂木が組まれ、十数人の兵士が常駐している。さらに、青いローブを着た人物の姿もあった。
「魔法使いがいるわ」
私は呻くように言った。
「おそらく、探知魔法のエキスパートよ。橋を通るすべての人間、荷車、家畜に至るまで魔力検査をしている」
橋の手前には、足止めされた旅人や商人たちの長蛇の列ができていた。兵士たちは怒鳴り散らし、荷台をひっくり返し、フードをかぶった者の顔を強引に確認している。
「あんな厳重な検問、見たことないわ」
「オレたちを探してるのか?」
「十中八九そうね。でも、それだけじゃない気がする」
私は、風に乗って聞こえてくる彼らの会話を拾おうと試みた。
(風の精霊よ、彼らの言葉を運んでください。)
「『風の聴覚』」
耳元で、風が囁きに変わる。遠くの怒声が、クリアな音声となって聞こえてきた。
『いいか!上からの厳命だ!不審者は即座に拘束せよ!』
『特徴は?』
『若い女と、緑色の肌をした小鬼だ。だが、変装している可能性もある。魔力を持つ者は全員チェックしろ!』
『ノースウッド村の虐殺犯だ。抵抗すれば殺しても構わん!』
虐殺犯。その言葉が、胸に重く突き刺さる。やはり、あの村の惨劇はすべて私たちのせいにされている。
「ガブ、ここを通るのは不可能よ」
私は魔法を解き、ガブに向き直った。
「人間の変装をしても、あの魔法使いの目は誤魔化せない。魔力波長をチェックされたら一発でバレるわ」
「じゃあ、川を泳いで渡るか?」
ガブが眼下の川を指差す。雪解け水を含んだルベリア川は、水かさが増し、激流となって渦巻いている。
「自殺行為よ。それに、対岸にも見張りがいるはず」
私は地図を脳内で展開した。橋を使わずに南へ行くには、大きく西へ迂回し、山岳地帯の渓谷を越えるしかない。そこは道なき道であり、危険な魔物の生息域でもある。
「山へ行くしかないわね」
「山か……。雪山よりはマシだけど、あそこらへんは『岩喰い熊』とか出るぞ」
ガブが嫌そうな顔をする。
「人間よりはマシよ。熊は話し合いはできないけど、理不尽な罪を着せてきたりはしないもの」
皮肉めいた言葉が口をついて出た。
その時、検問所で一騒動が起きた。列に並んでいた一人の旅人が、兵士に突き飛ばされたのだ。
「待ってくれ!俺はただの行商人だ!荷物を全部広げろなんて、売り物がダメになる!」
「黙れ!貴様、荷台の底に何を隠している!小鬼を隠しているのではないか!?」
兵士は剣の柄で商人を殴りつけた。商人が悲鳴を上げて倒れ込む。周囲の旅人たちは恐怖に怯え、誰も助けようとはしない。
「ひどい……」
ガブが拳を握りしめる。
「あいつら、自分たちが正義だと思ってるから、何してもいいと思ってるんだ」
そう。「魔女と小鬼」という絶対的な悪が存在することで、彼らの暴力は「正義の執行」として正当化されてしまう。恐怖と憎悪が、人々の心を殺伐とさせていく。これもまた、私たちの存在が招いた結果なのだろうか。
「行きましょう、ガブ。見ていられない」
私はガブの肩を叩いた。これ以上ここに留まれば、ガブが飛び出してしまいそうだった。
私たちは音を立てずに後退し、森の深部へと戻った。街道は使えない。村には近づけない。水も食料も補給できないまま、私たちはさらに過酷なルートを選ばざるを得なくなった。
検問の厳格化。それは、私たちが文明社会から完全に切り離されたことを意味していた。もはや私たちは旅人ではない。世界から拒絶された、孤独な異物だった。
207:手配書
迂回ルートを選んで三日目。私たちは空腹と疲労の限界に近づいていた。山岳地帯への入り口付近にある、寂れた宿場町。その外れにある古びた掲示板の前に、私たちは立っていた。
深夜、雨が降る中での隠密行動。食料を盗むつもりはなかったが、捨てられた野菜クズでもあればと、ゴミ捨て場を漁りに来たのだ。元・貴族の令嬢と、未来のゴブリン王の姿としては、あまりにも惨めだった。
そこで、私たちは「それ」を見つけた。
雨に濡れた掲示板の中央に、真新しい羊皮紙が張り出されていた。松明の消えかけた灯りに照らされ、そこには二つの人相書きが描かれていた。
一つは、フードを被った女性。顔立ちは酷薄に歪められ、目は吊り上がり、口元には残酷な笑みが浮かんでいる。特徴的な杖が強調して描かれていた。そしてもう一つは、醜悪な怪物の絵。牙を剥き出しにし、涎を垂らし、爪には血がついている。本来のガブの愛嬌など微塵もない、ただの殺戮マシーンとしてのゴブリン。
『指名手配』
『ノースウッドの虐殺者魔女リゼット及び、その使役獣』
『罪状:大量殺人、放火、国家反逆罪』
『生死を問わず。討伐および捕縛した者には、金貨百枚を授ける』
「金貨、百枚……」
私が読み上げると、ガブが小さな口笛を吹いた。
「すげぇな。オレたち、そんなに価値があるのか」
彼は努めて明るく振る舞っていたが、その声は震えていた。自分の顔が、こんなにも醜く、恐ろしい怪物として描かれていることへのショック。そして何より、「生死を問わず」という言葉の重み。
「リゼット……って、リゼの本名か?」
「ええ。アカデミーにいた頃の名前よ」
私は唇を噛んだ。身元が完全に割れている。アカデミーからの情報と、今回の事件がリンクしてしまったのだ。
「ごめんね、ガブ」
雨が頬を伝う。それが涙なのか雨粒なのか、自分でもわからなかった。
「私があなたを連れ出したから。私が魔法使いだったから……あなたまで、こんな……」
私一人ならまだいい。でもガブは違う。彼はただ、新しい世界を見たくてついてきただけなのに。人間の悪意が作り上げた「魔物のステレオタイプ」に押し込められ、世界中から命を狙われることになってしまった。
「謝るな、リゼ」
ガブが私の手を握った。濡れた手だが、温かい。
「この絵、全然似てない。オレはもっとイケメンだろ?」
彼はニッと歯を見せて笑った。
「それに、有名になったってことは、王への第一歩だ。悪名だって、名声の一種だろ?」
「バカね。ポジティブすぎるわよ」
私は泣き笑いのような表情で彼を見た。彼の強さに救われる。けれど、現実は甘くない。
ザッ、ザッ。雨音に混じって、足音が聞こえた。宿場の見回りか、あるいは賞金稼ぎか。
「誰だ!そこで何をしている!」
男の声。ランタンの光がこちらに向けられる。
「やべっ!逃げるぞリゼ!」
ガブが私の手を引く。光が私たちの顔を、そして手配書を照らし出した。
「あっ!その杖……それに緑色の肌!」
男が目を見開く。恐怖と、そして欲望の色が浮かぶ。
「いたぞ!手配書の奴らだ!百枚の首だぞ!」
男が笛を吹こうとする。私は反射的に杖を振った。
「『風の弾丸』!」
圧縮された空気が男のランタンを吹き飛ばし、闇を作り出す。
「今のうちに!」
私たちは泥を跳ね上げて走り出した。背後から、男の叫び声と、宿場中がざわめく音が聞こえてくる。
もう、どこにも安息の地はない。一枚の紙切れが、私たちを「人間」から「狩られるべき獣」へと変えてしまった。
「魔女と小鬼」。その呼び名は、これから先、呪いのように私たちについて回るだろう。雨の夜道、私たちはただ南へと――いや、死の影から逃れるように、闇の奥へと駆け込んでいった。私の手は、ガブの手を強く握りしめていた。この手だけは、何があっても離さない。たとえ世界中が敵に回っても。




