EP7
19:「ウマい」の定義
ワイルドボアの燻製肉作りがひと段落し、私たちの旅には穏やかな時間が流れていた。保存食は確保できたものの、毎日同じ干し肉ばかりでは飽きが来る。そこで私たちは、歩きながら「おやつ」を探すことにした。
森は豊かな食料庫だ。私の図鑑知識と、ガブの野生の勘が合わされば、飢えることはない。赤い木苺、酸っぱいが瑞々しい山葡萄、炒ると香ばしい木の実。私たちはそれらを分け合いながら、のんびりと北を目指していた。
「リゼ!これ!すごいご馳走!」
倒木の陰をガサガサと漁っていたガブが、興奮した声を上げた。彼の手には何かが握られている。期待して近づいた私は、その中身を見て硬直した。
彼の緑色の手のひらの上で、乳白色をした親指大の「幼虫」が、うねうねと蠢いていたのだ。朽ち木の中に住む甲虫の幼生だろう。丸々としていて艶がある。
「ガブ。それ、どうするの?」「食う。これ、森のバター。甘い。トロトロ」
ガブは目を輝かせている。そしてあろうことか、その幼虫を私の方へ突き出した。
「リゼにやる。半分こ」「えっ」「ガブ、昨日、肉たくさん食べた。だから、一番いいやつ、リゼにあげる」
彼の顔には、一点の曇りもない笑顔が張り付いている。『真実の眼』で見える彼の色は、眩しいほどの「献身」の金色と、「親愛」のピンク色。つまりこれは彼にとって、宝石を差し出すのと同義なのだ。自分の好物を、我慢して仲間に譲る。最大級の愛情表現。
――でも、無理だ。生理的に、無理だ。
私の顔が引きつるのが自分でも分かった。王都の貴族令嬢として育った私に、生きた虫を踊り食いするスキルはない。しかし、ここで「気持ち悪い!」と叫んで拒絶すれば、彼の純粋な好意を踏みにじることになる。私は冷や汗をかきながら、言葉を選んだ。
「あ、ありがとう、ガブ。すっごく嬉しいわ。でもね」「?」「人間の体は、それを受け付けないの。生のその、元気すぎる食べ物は、お腹の中で暴れてしまうのよ」
苦しい言い訳だ。ガブは不思議そうに首を傾げた。「暴れる?噛めば死ぬぞ?プチッて」「ひぃッ!そ、想像させないで!とにかく、人間は弱い生き物だから、加熱していない虫さんは食べられないの!」
私が必死に訴えると、ガブはようやく納得した(あるいは諦めた)ようで、残念そうに眉を下げた。「そっか。人間、不便だな」「ええ、本当にね」「じゃあ、俺が食う」
彼は躊躇なく幼虫を口に放り込んだ。プチュッ。そんな音が聞こえた気がして、私は慌てて顔を背けた。
「んー!ウマイ!」という歓喜の声が聞こえる。
しばらくして私は彼に尋ねた。「ねえ、ガブにとっての『ウマい』って、どういうこと?」
ガブは口元の汁を拭いながら考え込んだ。「ウマいは、力が湧くこと。腹が熱くなること。脂がいっぱいで、生き延びられる味がすること」「なるほどね」
生存本能に直結した定義だ。高カロリーこそが正義。確かに、明日をも知れぬ野生の世界では、それが正しいのだろう。
「リゼの『ウマい』は?」今度は彼が聞いてきた。私は空を見上げて考える。
「そうね。もちろん、お腹がいっぱいになるのも大事だけど。私は『安心する味』が好きかな」「アンシン?」「うん。温かくて、香りが良くて。食べていると、怖かったことや辛かったことを忘れられるような心が解けるような味」
屋敷での食事は豪華だったが、常に緊張を強いられた。だから、あの場所の料理を「美味しい」と思ったことは一度もなかった。私が本当に美味しいと感じたのは、家出をして、この森でガブと一緒に食べた、ただの干し肉のスープだった。
「ふうん。リゼは心で食うのか」ガブは分かったような分からないような顔をして、ポケットから何かを取り出した。それは、さっき見つけた赤い木の実だった。
「これ、甘い。リゼ、好きそう」彼はそれを、自分の服でキュッキュッと拭いてから、私に手渡してくれた。泥も虫もついていない、綺麗な赤い実。
受け取った瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。彼は私の「ウマい」の定義を、彼なりに理解しようとしてくれたのだ。虫は私が嫌がる。でもこの実は私が喜ぶ。その「選別」こそが、何よりのスパイスだった。
「ありがとう、ガブ」口に含むと、甘酸っぱい果汁が広がった。「うん、美味しい。すごく、ウマいよ」
「だろ?ガブ、すごい」
彼は得意げに鼻を鳴らす。私たちは並んで歩き出した。種族が違えば、味覚も違う。彼にとってのご馳走が、私にとっては劇物かもしれない。けれど、「相手に喜んでほしい」と思って差し出されたものの味は、きっと共通している。それは「優しさ」という味がするのだと、私は赤い実の種を吐き出しながら思った。
20:焚き火の番
夜の森は昼間とは全く別の顔を持つ。風が木々を揺らす音は魔物の囁きに聞こえ、闇の奥からは常に誰かに見られているような視線を感じる。そんな夜の帳の中で、私たちの小さなキャンプ地だけが、焚き火のオレンジ色の光に守られた聖域だった。
パチッ。薪が爆ぜる音で、私はふと目を覚ました。毛布から顔を出すと、焚き火の向こう側で、ガブが膝を抱えて座っているのが見えた。彼の背中が小さく揺れている。
ガブは毎晩、こうして火の番をしてくれていた。私が「交代しよう」と言っても、彼は頑として聞き入れない。「ゴブリンは夜目が効く」「俺はあまり眠らなくていい」と言い張って。けれど、私の『真実の眼』は誤魔化せない。彼の背中からは、疲労を示す鉛色の靄が立ち上っていた。当然だ。昼間は先頭に立って歩き、狩りをし、夜はこうして警戒を続けているのだから。
「ガブ」私が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせ、瞬時にこちらを向いた。手にはしっかりと白い棍棒が握られている。
「リゼ?どうした。敵か?」「ううん、違うわ。目が覚めちゃっただけ」
私は毛布を抜け出し、彼の隣に座った。夜風が冷たい。私は焚き火に新しい枝をくべた。ガブの横顔を盗み見る。大きな黄色い瞳の下に、隈のような影ができている気がする。
「ガブ、寝て。交代よ」「だめだ。リゼは寝てろ。森の夜は危ない」「あなたが倒れたら、もっと危ないわ。私の『眼』には見えてるのよ、あなたが疲れてる色が」
私が指摘すると、ガブはバツが悪そうに視線を逸らした。「ゴブリン、丈夫だ。これくらい平気」「平気じゃない。私たちは契約したでしょ?『お互いを守る』って。あなたが無理をして倒れるのは、契約違反よ」
少し強い口調で言うと、ガブはうぐっと言葉に詰まった。彼は「契約」という言葉に弱い。しばらくの沈黙の後、彼は渋々といった様子で棍棒を地面に置いた。
「少しだけだぞ。月が、あの枝のところに行くまで」「はいはい。分かったから」
ガブは私の足元近くで丸くなった。野生動物のように警戒心が強い彼が、私のすぐそばで背中を見せて横になる。その信頼が嬉しくもあり、責任の重さを感じさせもした。
数分もしないうちに、彼の呼吸が深く、規則正しくなった。スピー、スピー、という高い寝息。私は彼の寝顔を覗き込んだ。起きている時は野性味あふれる顔つきだが、眠っている時は無防備で、幼い子供のようだ。尖った耳が、時折ピクリと動く。夢の中で何かを追っているのだろうか。
私は一人、火を見つめた。炎のゆらめきが、過去の記憶を呼び起こす。実家の屋敷でも、夜はずっと誰かの気配があった。廊下を見回る兵士、部屋の外に控えるメイド。彼らは私を「守る」ためにいたけれど、同時に私を「監視」し、「逃がさない」ためにそこにいた。だから、屋敷の夜はいつも息苦しかった。
でも今は違う。今、私が起きているのは、この小さな相棒を守るためだ。誰かに命じられたわけでも、義務でもない。私がそうしたいからそうしている。「能動的に誰かを守る」という行為が、こんなにも誇らしく、心が満たされるものだなんて知らなかった。
ガサッ。遠くで枝が落ちる音がした。私は反射的に杖を握りしめた。緊張が走る。『真実の眼』を凝らす。悪意の色はない。ただの小動物か、風のいたずらだ。
私はほっと息を吐き、再びガブを見た。彼は一度も目を覚まさなかった。私を信じて、完全に意識を手放している。
「おやすみ、ガブ」
私は小声で呟き、彼の肩にかかっていた毛布をかけ直した。火の番は退屈だ。寒くて、少し怖い。けれど、この静寂な時間は、私にとって必要なものだった。自分が「守られるだけの存在」から、「誰かを守れる存在」へと変わっていくための、大切な儀式のような時間。
私は薪をもう一本くべた。炎が燃え上がり、私たちの小さな居場所を暖かく照らし出した。朝が来るまで、この火と、この寝息を絶やさないようにしよう。私は杖を抱きしめ、夜の森に目を凝らし続けた。
21:星空と片言
ガブが目を覚ましたのは、私が約束した「月が枝にかかる時間」をとうに過ぎ、空が白み始める直前だった。彼は飛び起きて、慌てて周囲を見回した。
「リゼ!寝過ごした!なんで起こさない!」「気持ちよさそうに寝てたから。たまにはいいでしょ」「むぅ。ガブ、失態。番犬失格」
彼はしょげかえって耳を垂れた。その様子がおかしくて、私はクスクスと笑った。ふと見上げると、夜明け前の空は、雲ひとつなく晴れ渡っていた。満天の星。まるで宝石箱をひっくり返したように、無数の光の粒が瞬いている。森の木々に切り取られた空ではなく、街道跡の開けた場所だからこそ見える絶景だった。
「わあ綺麗」私は息を呑んだ。ガブもつられて空を見上げる。彼の黄色い瞳に、星々が映り込んでキラキラと輝いた。
「星、多い。今日、虫、いっぱい」「虫じゃないわよ、あれは星。お星様」「ホシ?ああ、あの光る石か」
ガブは空を指差した。その指先は、ひときわ明るく輝く青白い星を捉えていた。「あれ、ゴブリン、言う。『牙の石』」「へえ、牙の石?」「うん。鋭い。冬に来る。寒い時、一番光る」「人間だと『シリウス』って呼ぶわ。でも、『牙の石』の方が強そうでかっこいいかもね」
ガブは嬉しそうに笑い、別の星の集まりを指差した。「あそこ、ごちゃごちゃしてるやつ。『喧嘩カエル』」「あはは、カエルなんだ。私たちは『スバル』って呼ぶのよ」
私たちは並んで座り、即席の天体観測会を始めた。ガブの語彙は少ない。「光る」「石」「虫」「獣」。彼の知っている言葉だけで、あの雄大な空を表現しようとする。けれど、その片言の言葉には、彼独自の感性が詰まっていた。流れ星を「空のよだれ」と言った時は吹き出してしまったけれど。
「リゼ」ガブが不意に私の顔を見た。真剣な眼差しだ。彼は何かを伝えようとして、言葉を探している。口を開いては閉じ、眉間に皺を寄せ、一生懸命に頭の中の引き出しを漁っている。
「リゼはあのホシ、みたい」「私が?星みたい?」「うん。遠い。ピカピカ。でも、今は、ここ」
彼は自分の胸をドンドンと叩いた。「ガブ、言葉、むずかしい。でも、リゼがいると、暗い道、見える。ホシとおんなじ」
たどたどしい言葉。文法もめちゃくちゃだ。けれど、私の『真実の眼』には、彼の言いたいことが色彩となって流れ込んでくるようだった。
――お前は、俺にとっての道しるべだ。――暗闇の中で迷わないための光だ。――遠い世界の住人だと思っていたけれど、今、こうして隣にいてくれることが嬉しい。
そんな複雑で、温かい感情が、淡いクリーム色と深い藍色のグラデーションになって、彼から溢れ出していた。言葉足らずな彼の「片言」は、どんな詩人が紡ぐ愛の言葉よりも、雄弁に私の心に届いた。
「ありがとう、ガブ」私は目頭が熱くなるのを感じた。私は家を捨て、名を捨て、何も持たないただの少女になったつもりだった。でも、この小さな相棒は、私を「星」だと言ってくれた。彼の道を照らす光だと。
「私もよ。ガブは、私の『焚き火』かな」「タキビ?」「そう。暖かくて、獣を追い払ってくれて、そばにいると安心できる。なくてはならないものよ」
私が言うと、ガブはニカッと歯を見せて笑った。照れているのか、鼻の頭が少し赤い。「ガブ、タキビ。リゼ、ホシ。うん、悪くない」
空の端が白み始め、星々が一つ、また一つと朝の光に溶けていく。夜が終わる。でも、私たちの旅は続く。「行くか、リゼ」ガブが立ち上がり、白い棍棒を腰に差した。「ええ、行きましょう」私はリュックを背負う。
言葉は完全に通じなくてもいい。文化が違っても構わない。見上げる空が同じで、隣にいる相手の体温を感じられるなら、それだけで私たちは「最高のパーティ」なのだから。私たちは朝霧の中、まだ見ぬ北の果てを目指して歩き出した。




