EP68
199:焦げ臭い風
南から吹き抜ける風が、頬を撫でる。本来ならば、それは春の訪れを告げる柔らかなものであるはずだった。雪解けの匂いと、芽吹く草木の香りを運んでくるはずのものだった。けれど今、私たちの鼻腔を満たしているのは、喉を焼くような刺激臭と、脂が焦げたような生々しい臭気だった。
「酷い匂いだ」
ガブが鼻をつまみ、顔をしかめた。彼の鋭敏な嗅覚にとって、この風は拷問に近いだろう。
「リゼ、これ、ただの火事じゃないぞ。木が燃えてるだけなら、もっと軽い匂いのはずだ。これは……肉と、革と、鉄が焼ける匂いだ」
ガブの言葉に、私は背筋が凍る思いがした。私たちは街道を外れ、森の木立に身を隠しながら、慎重に斜面を下っていた。木々の隙間から見える空は、夕暮れの茜色とは違う、不吉な赤黒い煙に覆われている。
パチッ、パチパチ……。遠くから、何かが爆ぜる音が聞こえる。乾燥した木材が火に耐えかねて悲鳴を上げている音だ。
「風向きが悪いわ。煙がこっちに流れてくる」
私は杖を握り直し、胸の前で印を結んだ。灰を含んだ煙を吸い込み続ければ、探索どころか、私たちの体が参ってしまう。
(大気を司る風の精霊たちよ。穢れを運び去り、清浄なる空気を我らの周囲に留めてください)
私は咳き込みそうになるのを堪え、意識を研ぎ澄ませて語りかけた。精霊魔法は、命令ではなく依頼だ。特に、このように空気が乱れ、精霊たちが怯えている場所では、より丁寧な対話が必要になる。
「『空気清浄』」
杖の先から淡い緑色の光が溢れ、私とガブの周囲を薄い膜のように包み込んだ。瞬時に、鼻をつく焦げ臭さが和らぎ、肺に冷たく清潔な空気が流れ込んでくる。
「ふぅ……助かった。鼻がもげるかと思った」
ガブが大きく息を吸い込み、乱れた呼吸を整える。しかし、その表情から緊張の色は消えていない。彼の瞳孔は細く収縮し、耳は絶えず周囲の音を拾おうとピクピクと動いている。野生の勘が、「ここは危険だ」と警鐘を鳴らしているのだ。
「ガブ、ここから先は戦闘態勢でいくわよ。誰がいるかわからない」
「ああ、わかってる。人間か、それとも……」
ガブは言いかけて口をつぐみ、腰のナイフに手をかけた。私たちは無言で頷き合い、足音を殺して前進を再開した。
森を抜けると、視界が一気に開けた。そこにあったのは、かつて『ノースウッド村』と呼ばれていたであろう場所の、無惨な残骸だった。
家々は骨組みだけを残して焼け落ち、黒い炭と化している。屋根は崩れ落ち、窓枠は歪み、かつて人々の生活があった場所は、今や燻る瓦礫の山となっていた。火の手はまだ完全には収まっておらず、あちこちで赤い炎が蛇のように這い回り、燃え残った柱を舐めている。
「遅かった……」
私は呆然と呟いた。村を守る柵はなぎ倒され、見張り台だった高い櫓も半ばから折れて地面に突き刺さっている。それは自然災害による火災ではない。明らかな「破壊」の意志によってもたらされた惨状だった。
風が唸り声を上げて吹き抜ける。舞い上がる黒い灰が、まるで雪のように降り注いでいた。白い雪山から下りてきた私たちを迎えたのは、黒い灰の雨だったのだ。
「誰も……いないのか?」
ガブが小声で囁く。動く影はない。聞こえるのは炎の音と、風の音だけ。人の声も、家畜の鳴き声もしない。圧倒的な「死」の静寂が、村全体を支配していた。
私は足を踏み出した。ブーツの底が、熱を持った地面を踏みしめる。恐怖がないと言えば嘘になる。逃げ出したい衝動が、胃の腑からせり上がってくる。けれど、生存者がいるかもしれない。もし誰かが瓦礫の下で助けを求めているなら、私の魔法で救えるかもしれない。
「行きましょう、ガブ。警戒を怠らないで」
「おう。リゼ、オレから離れるな」
ガブが私の前に出る。小さな背中だが、今は誰よりも頼もしい盾に見えた。私たちは、焦げ臭い風に逆らうようにして、地獄と化した村へと足を踏み入れた。
200:焼け落ちた村
村の中へ進むにつれ、熱気は肌を刺すほどに強くなった。『空気清浄』の結界がなければ、熱風だけで喉が焼かれていただろう。
道の両側には、生活の残骸が散乱していた。割れた壺、焼けた荷車、子供の玩具のような木片。それらは皆、煤にまみれ、主を失って転がっている。
「酷いな……」
ガブが低く唸る。彼は地面に視線を走らせながら歩いていた。
「リゼ、見てみろ。この跡」
彼が指差した地面には、無数の足跡が乱雑に残されていた。火災の熱で土が乾燥して固まっているため、痕跡がはっきりと残っている。
「逃げ惑う人々の足跡……それと、これを追う者の足跡ね」
私は杖をつき、地面を観察した。裸足やサンダルのような軽い足跡に混じって、重厚なブーツの跡がある。深く、そして整然とした踏み込み。
「組織的な襲撃だわ」
私は結論づけた。
「ただの盗賊や、野良の魔物の群れじゃない。統率された集団が、この村を襲ったのよ」
さらに進むと、私たちは目を背けたくなる光景に遭遇した。広場のような場所。そこには、逃げ遅れたであろう人々の遺体が横たわっていた。多くは火に巻かれたというより、背後から斬りつけられたり、何かで殴打されたりした痕跡があった。
私は思わず口元を押さえた。アカデミーの授業で、戦場の悲惨さについては学んでいた。図解入りの書物も読んだ。けれど、実物は違う。匂いが、温度が、そして「つい数時間前まで生きていた」という生々しさが、知識としての理解を拒絶させる。
「見るな、リゼ」
ガブが私の視界を遮るように立った。
「お前は慣れてないだろ。オレが先を確認する」
「いいえ、大丈夫よ」
私は震える声で言った。
「私は魔法使いよ。現実を見据えなければ、正しい判断はできない」
私はガブの肩に手を置き、彼を横へ促した。そして、遺体の一つに近づき、祈るように手を合わせた後、その傷口を確認した。
「鋭利な刃物による傷。それと、これは……爪?」
遺体の背中には、剣で斬られたような傷の他に、獣の爪で引き裂かれたような粗雑な傷跡も混在していた。
「剣と爪……人間と魔物が協力して襲ったってことか?」
ガブが首を傾げる。
「ありえないわ。魔物をテイム(使役)できるのは高位の魔法使いだけ。それに、これだけの規模の襲撃に魔物を使うなんて、軍隊でもなければ不可能よ」
謎が深まる。誰が、何のために、この辺境の村を焼き払ったのか。
その時。ガシャン!
村の奥、焼け残った石造りの倉庫の方から、何かが崩れるような音がした。私とガブは弾かれたように顔を見合わせた。
「音だ」
「ええ、風の音じゃない。何か質量のあるものが動いた音よ」
生存者か、それとも略奪者か。私たちは無言で頷き、音のした方角へと走り出した。
熱気が渦巻く路地を抜け、崩れかけた倉庫の前へ出る。入り口の扉は破壊され、中は暗い。屋根の一部が焼け落ちており、そこから差し込むわずかな光が、瓦礫の山を照らしていた。
「誰かいるのか?」
ガブが、あえて人間の言葉で呼びかけた。返事はない。ただ、瓦礫の下から、微かな、本当に微かな呻き声が聞こえた。
「――っ……うぅ……」
「生きてる!」
私は叫び、倉庫の中へと飛び込んだ。熱された石材が発する熱気の中で、私は瓦礫の隙間を覗き込んだ。
そこにいたのは、初老の男性だった。太い梁の下敷きになり、身動きが取れなくなっている。服は血と煤で汚れ、意識は朦朧としているようだ。
「しっかりして!今、助けるから!」
私は杖を放り出し、梁を持ち上げようとした。重い。魔法使いの腕力では、びくともしない。
「ガブ!手を貸して!」
私が叫ぶと、ガブが即座に駆け寄ってきた。
「任せろ!こういうのは得意だ!」
ガブが梁の下に潜り込み、全身の筋肉を隆起させた。冬の間に鍛え上げられ、進化したゴブリンの怪力。
「ぬんっ!」
気合一閃。ミシミシと音を立てて、巨大な梁が持ち上がった。
「今だリゼ!引きずり出せ!」
「ええ!」
私は男性の脇を抱え、必死に後ろへと引っ張った。ズルズルと体が抜け出し、安全な場所まで移動させる。その直後、ガブが手を離すと、梁はドスンと重い音を立てて元の場所に落下した。
「はぁ、はぁ……間に合った……」
私は荒い息をつきながら、すぐに男性の容態を確認した。足が折れている。頭からも出血している。けれど、脈はある。
(慈悲深き水の精霊よ。傷つきし者の痛みを和らげ、命の灯火を繋いでください)
私は男性の胸に手を当て、治癒の詠唱を紡いだ。
「『小治癒』」
柔らかな青い光が掌から溢れ、男性の傷を包み込む。致命的な出血が止まり、苦痛に歪んでいた男性の表情がわずかに緩んだ。
これでひとまず、命の危機は脱したはずだ。私は安堵の息を吐き、汗をぬぐった。しかしこれが新たな、そして決定的な苦難の始まりだとは、まだ気づいていなかった。
201:生存者の証言
「う……うぅ……」
魔法の効果で意識が浮上したのか、男性が呻き声を上げ、ゆっくりと目を開けた。白濁した瞳が、焦点を結ぼうと彷徨う。
「聞こえますか?もう大丈夫ですよ」
私はできるだけ優しい声で語りかけた。目の前にいるのが怪しげな旅人ではなく、救助者だと認識させるために、努めて冷静に振る舞う。
「あ……あんたは……?」
男性が掠れた声で尋ねる。
「通りがかりの魔法使いです。火事を見て駆けつけました」
「魔法使い……?おお、神よ……」
男性の目に涙が浮かんだ。彼は私の手を、血まみれの手で握りしめた。その力は弱々しいが、すがるような必死さがあった。
「村は……みんなは……」
「わかりません。でも、私が来た時には、もう……」
私は言葉を濁した。残酷な真実を告げるには、彼はまだ弱りすぎている。
しかし、男性は何かを思い出したように、カッと目を見開いた。恐怖。極限の恐怖が、その瞳に宿った。
「そうだ……奴らだ……!奴らが来たんだ!」
男性が叫び出し、私の腕を痛いほど掴んだ。
「落ち着いてください!奴らとは?盗賊ですか?」
「違う!魔物だ!魔物の群れだ!」
――魔物?私は眉をひそめた。先ほど見た足跡は、確かにブーツの跡があった。魔物の群れだけで、これほど組織的な破壊ができるはずがない。
「どんな魔物だったんですか?」
私が尋ねると、男性はガタガタと震えながら、虚空を指差した。
「緑色の……小鬼たちだ!ゴブリンだ!奴らが、剣を持って、村を襲ったんだ!」
心臓が、早鐘を打った。ゴブリン。その単語が出た瞬間、私の背後で気配が動いた。ガブだ。彼は瓦礫の陰に身を隠し、こちらの様子を伺っていたのだ。
「ゴブリン……ですか?」
私は声を震わせないようにするのが精一杯だった。
「ああ、そうだ……!ただのゴブリンじゃない……奴らは鎧を着ていた。人間の言葉のようなものを叫びながら……家に火を放ち、女子供まで……!」
男性の証言は、あまりにも具体的だった。鎧を着たゴブリン。言葉を話すゴブリン。それはまるで、知性を得た変異種――今のガブのような存在が、集団で襲ってきたかのような描写だ。
(そんな馬鹿な……)
野生のゴブリンは、確かに危険だ。けれど、村一つを壊滅させるほどの組織力はない。誰かが意図的にゴブリンを使役したのか?それとも、ゴブリンに見せかけた「何か」なのか?
「くそっ、畜生め……!小鬼どもめ、見つけたら八つ裂きにしてやる……!」
男性の口から漏れるのは、底知れぬ憎悪だった。家族を、友人を、故郷を奪われた者の、煮えたぎるような怒り。
私は背後にいるガブのことを思った。彼は、この言葉を聞いている。自分と同族の名が、虐殺者の代名詞として叫ばれているのを。
もし今、ガブが姿を現したらどうなるか。この男性は、間違いなくパニックを起こすだろう。そして、私を「ゴブリンを手懐けている魔女」と認識するかもしれない。――ガブを隠せ。直感が警鐘を鳴らす。
「おじいさん、少し休んでいてください。私が水を持ってきますから」
私は男性を落ち着かせようとした。しかし、男性は私の手を離さなかった。
「騎士様は……騎士団はまだ来ないのか……?」
「騎士団?」
「ああ、国境警備の騎士団に伝令を出したんだ……もうすぐ来るはずだ……奴らが来れば、ゴブリンどもなんて……」
その言葉を聞いた瞬間、遠くから蹄の音が聞こえた。一つや二つではない。数十の蹄が、大地を叩く重い音。村の入り口の方から、こちらへと近づいてくる。
「来た……!来てくれたんだ!」
男性の顔に希望の色が戻る。
私は逆に、血の気が引いていくのを感じた。騎士団。国境警備隊。彼らは「魔物」を狩るプロフェッショナルだ。そして、この状況下で、ゴブリンを連れた謎の女を見つけたら、どう判断するか。
火のない所に煙は立たない。けれど、ここでは煙どころか、村ごと焼き尽くされている。そして「犯人」と目される種族が、私のすぐ後ろにいる。
私は振り返らずに、背中に向かって小さくハンドサインを送った。――逃げて。隠れて。
瓦礫の陰で、ガブの気配が小さくなった。彼は理解している。自分がここにいてはいけない存在だということを。
蹄の音が大きくなる。甲冑が擦れ合う音が聞こえる。
「生存者か!?」
野太い声が響いた。松明の灯りが、崩れた倉庫の壁を照らし出す。
私は立ち上がった。逃亡者としての本能が、全身の毛を逆立てている。冬の穏やかな日々は終わった。ここにあるのは、誤解と偏見、そして殺意に満ちた人間の世界だ。
私は、震える手で杖を握りしめ、現れた騎士たちの影を見据えた。




