EP67
197:変わったこと、変わらないこと
雪のない地面を踏みしめる感触は、どこか懐かしく、そして新しい。私たちは古い街道と思しき道を南へと歩いていた。
道幅は馬車一台がようやく通れるほどで、両脇からは笹や雑草が浸食し始めている。けれど、確かにそこには人の営みの痕跡があった。轍の跡、朽ちかけた道標、そして誰かが落としたであろう錆びた鉄屑。
「リゼ、この道標、なんて書いてあるんだ?」
先頭を歩いていたガブが立ち止まり、苔むした石柱を指差した。私は杖をつきながら彼に追いつく。この冬の間、ガブの歩幅は大きくなった。以前なら私が彼の歩調に合わせていたのに、今は彼が意識してゆっくり歩いてくれないと、すぐに置いていかれそうになる。
「ええと……『王都まで三十里』、その下に『ノースウッド村まで五里』とあるわね。ただ、文字が古いわ。五十年以上前のものかもしれない」
「ふうん。王都か。人間の一番偉い王様がいるところだな」
ガブは顎に手を当て、考え込むような仕草を見せた。変わったこと。それはまず、彼のその姿だ。背が伸び、筋肉の質が変わり、顔つきが精悍になった。かつての愛嬌のあるマスコットのような雰囲気は消え、若き戦士の風格が漂っている。そして、知性。文字に興味を持ち、地図を理解し、私の言葉をほぼ完全に理解して会話ができるようになった。あの洞窟での極限状態と、私のスパルタ講義が、彼の潜在能力を一気に開花させたのだ。
「五里ってことは、今日の夕方にはその村に着ける距離か?」
「計算上はね。でも、この道の荒れ方を見ると、その村が今も存在している保証はないわ」
「廃村なら、また雨風をしのぐ場所にはなるだろ。行ってみよう」
ガブはニカっと笑った。
その笑顔を見て、私はふっと肩の力が抜けた。変わらないこと。それは、彼のこの屈託のない笑顔と、底抜けのポジティブさだ。どれだけ賢くなっても、どれだけ強くなっても、ガブはガブだ。美味しいものを食べるのが好きで、新しい発見に目を輝かせ、私のことを絶対的に信頼してくれている。
「リゼ、足元気をつけろ。ここ、根っこが出てる」
ガブが自然に手を差し出し、私の腕を支えた。
「ありがとう。随分とエスコートが様になってきたわね」
「だろ?王様になるには、レディへの気遣いも必要だって本に書いてあったからな」
彼は得意げに鼻を鳴らす。
以前の彼なら、根っこに足を取られて転ぶのは彼の方だったかもしれない。あるいは、「リゼ、転ぶなよー」と口だけで注意して、自分はさっさと先に行っていたかもしれない。今の彼は、周囲の状況を常に把握し、私という「戦力としては優秀だが、体力面で劣るパートナー」を最適に運用しようとしている。それは、私たちがただの「逃亡者と道連れ」から、真の意味での「パーティ」へと進化した証だった。
昼休憩。私たちは街道脇の開けた場所で腰を下ろした。ガブが手際よく枯れ枝を集め、あっという間に小さな焚き火を起こす。雪山でのサバイバル生活が、彼の野営スキルを飛躍的に向上させていた。
「今日の昼飯は、昨日の残りの干し肉と、道端で拾った野草のスープだ」
ガブが鍋を火にかける。私はリュックから、最後のパンの欠片を取り出した。カチカチに硬くなっているが、スープに浸せば食べられるだろう。
「ねえ、ガブ」
「ん?」
「あなたがこんなに頼りになるなんて、出会った頃は想像もしなかったわ」
私の正直な感想に、ガブは火を吹きながら目を丸くした。
「そうか?オレは最初から『大物』の予感がしてたはずだけどな」
「いいえ、最初はただの食いしん坊の小鬼だったわよ。でも、命の恩人になっちゃったわね」
ガブは照れくさそうに頭をかいた。
「恩人ってのはやめろ。オレたちは相棒だろ?助け合うのは当たり前だ」
相棒。その言葉が、胸にじんわりと染みる。人間社会から追放され、孤独だった私。群れからあぶれ、孤独だった彼。二つの孤独が寄り添い、冬を越えて、強固な一つの塊になった。
スープが煮える良い匂いがしてきた。ガブが味見をして、「うめぇ!」と声を上げる。
「ほら、リゼの分。熱いからな」
差し出された木の椀。そこには、変わらない温かさがあった。
私たちは並んでスープを飲んだ。鳥のさえずりが聞こえる。風が木々を揺らす音がする。平和だ。洞窟の中の閉塞感とは違う、開放的な平和。
けれど私は知っている。変化とは、常に良い方向ばかりに進むとは限らないことを。私たちが強くなったように、私たちを取り巻く世界もまた、刻一刻と変化しているはずだ。アカデミーの追っ手はどうなったのか。王国の情勢はどうなっているのか。私たちが冬眠している間に、世界は私たちの知らない顔を持っているかもしれない。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
私は椀を置いた。
「おう!食ったら出発だ。日が暮れる前に、その『ノースウッド村』まで行こう」
ガブが立ち上がり、私の荷物を持とうとする。
「いいわ、リュックくらい自分で背負う」
「無理するな。リゼは頭脳労働担当、オレは肉体労働担当だ」
彼は強引に私のリュックを奪い、軽々と片肩に担いだ。
頼もしい背中。その背中を見ながら、私はふと思った。もし、この先の世界が私たちを拒絶しても、この背中があれば、どこへだって行ける気がする。
変わった私たち。変わらない関係。その二つを武器に、私たちは再び歩き出した。南へ。春の風が吹く方角へ。
198:南風に乗って
午後になり、私たちは標高をさらに下げた。雪はもう完全になくなり、足元には湿った黒土と、枯葉の絨毯が広がっている。道脇の草むらには、気の早い緑色の芽が顔を出し始めていた。
「暑いな……」
ガブが額の汗をぬぐいながら、着込んでいたボロボロの毛皮を脱いだ。
「雪山とは大違いだ。リゼ、これが『春』ってやつか?」
「ええ。正確には初春ね。南から暖かい空気が流れ込んでいるのよ」
私も防寒用のマントをリュックにしまい、軽装になった。体が軽い。厚着から解放されただけでなく、空気そのものが濃く、柔らかくなっている気がする。
私たちは古い街道を歩き続けた。ガブは時折、道端の木に登って遠くを眺めたり、珍しい虫を見つけては報告してくれたりした。その姿は、まるで遠足に来た少年のようだが、その目は以前よりも鋭く周囲を警戒している。楽しんでいるように見えて、彼は常に「王」としての領土視察を行っているのだ。
「リゼ、この風、いい匂いがするぞ」
ガブが鼻を高く上げて、空気を吸い込んだ。
「なんというか……花の匂いと、土の匂いと、生き物の匂いが混ざってる」
「南風よ。海の向こうや、遠くの森から、いろいろなものを運んでくるの」
「へぇ、運び屋か。じゃあ、うまい肉の匂いも運んでくるかな?」
「運んでくるかもしれないわね。あるいは、新しい出会いとか」
私たちはそんな軽口を叩きながら、穏やかな時間を噛み締めていた。洞窟での閉塞感から解き放たれ、世界が広がる感覚。未知への不安よりも、期待の方が勝っていた。アカデミーの追っ手も、この広大な森の中までは追ってこれないだろうという楽観もあった。
しかし、太陽が西に傾き始めた頃、風の様子が変わった。
それまでそよそよと優しく吹いていた風が、急に強さを増したのだ。木々の梢がザワザワと騒ぎ出し、落ち葉が舞い上がる。
「ん?」
ガブが足を止め、耳をピクリと動かした。彼の表情から、先ほどまでの無邪気な笑顔が消えた。
「どうしたの、ガブ」
「静かになった」
「え?」
「鳥の声だ。さっきまでうるさいくらい鳴いてたのに、急に黙った」
言われてみれば、周囲の森は不気味なほど静まり返っていた。聞こえるのは、風が木々を揺らす「ゴォォォ」という低い唸り声だけ。生き物たちが息を潜め、何かを恐れているような気配。
(風の精霊たちが、ざわめいている?)
私も異変を感じ取った。魔法使いとして感じる「マナ」の流れが、乱気流のように荒れている。南から吹く風が、ただの自然現象ではない「何か」を含んで押し寄せてきている。
「リゼ、来るぞ」
ガブが低く警告した。
「何が?」
「わからない。でも、この風……さっきまでの優しい風じゃない。何かが混じってる」
彼は私を背に庇うようにして立った。道の先、南の方角にある木々の隙間から、強い風が吹き抜けてくる。それは春の嵐の前触れなのか、それとももっと悪いものなのか。
私たちは立ち止まり、その風を正面から受け止めた。逃げるわけにはいかない。私たちは「前に進む」と決めたのだから。
南から吹き抜ける風が、頬を撫でる。
198.1:南風に乗って-II
ガブの表情が険しくなる。私は杖を握り直し、風に意識を集中させた。魔法使いとして、風の精霊の声を聞く。
(自由なる風の精霊たちよ。南より来たりて、我らの頬を撫でる者たちよ。その翼に何を乗せてきたのか、教えてはいただけませんか)
私は静かに、歌うように詠唱した。
「『風の分析』」
ふわりと私の髪が舞い上がる。風の精霊たちが、情報の粒子となって私の感覚に飛び込んでくる。
花粉。湿気。遠くの川の飛沫。そして――
焦げ臭さ。鉄の錆びたような血の匂い。恐怖。悲鳴の残響。
「っ……!」
私は思わず口元を押さえた。物理的な匂いではない。風に乗って運ばれてきた「残留思念」のような、負のエネルギーだ。
「リゼ!?どうした、顔色が悪いぞ!」
ガブが駆け寄ってくる。
「焦げ臭い」
私はポツリと言った。
「何かが燃えているわ。それも、焚き火のような小さな火じゃない。もっと大きな……建物や、森が燃えるような匂い」
「火事か?」
「ただの火事ならいいけれど……血の匂いもするの」
ガブの顔から笑顔が消えた。彼は街道の先、南の方角を睨みつけた。木々に遮られて見えないが、空の向こう側が、心なしか澱んで見える。
「人間同士が、喧嘩してるのか?」
ガブが尋ねた。
「わからない。でも、穏やかな状況じゃないわ」
私たちは顔を見合わせた。冬の間、雪山に引きこもっていた私たちにとって、下界の情報は皆無だった。平和な春が待っていると思っていた。しかし南風が運んできたのは、争いと破壊の予感だった。
「どうする、リゼ?このまま進むか、それとも森に戻って隠れるか?」
ガブが私の判断を仰ぐ。安全策を取るなら、引き返すべきだ。人間社会のトラブルに首を突っ込むのは、逃亡者である私たちにとってリスクが高すぎる。
けれど、もし近くの村で何かが起きているなら、物資や情報を手に入れるチャンスかもしれない。それに、もし怪我人がいるなら、私の魔法で助けられるかもしれない。
「進みましょう」
私は決断した。
「ただし慎重に。街道を外れて、森の中を移動するわ。姿を見られないように」
「了解だ。隠密行動だな」
ガブが荷物を背負い直す。彼の目つきが、完全に「狩人」のものに変わった。
私たちは街道を離れ、藪の中へと入っていった。音を立てずに移動する。ガブは生まれついての才能で、私は魔法の補助で、気配を殺して進む。
一時間ほど歩いた頃だろうか。森が開け、視界が広がった場所に出た。そこは、少し小高い丘の上だった。眼下には、盆地のような地形が広がっている。
「あれは……」
私は息を呑んだ。ガブも絶句して立ち尽くしている。
夕暮れの光の中、盆地の中央にあるはずの「ノースウッド村」と思しき場所。そこから黒い煙が何本も立ち上っていた。建物は黒く焼け焦げ、屋根が落ちているものもある。遠目にもわかる破壊の跡。
そして、風に乗って微かに聞こえてくるのは、鐘の音ではない。怒号のような声と、何か硬いものがぶつかり合う金属音。
「燃えてる……」
ガブが呟いた。
「村が、全部……」
南風が強く吹いた。それは春の訪れを告げる優しい風ではなく、戦火の熱を運ぶ不吉な風だった。私たちの「回復の章」は終わりを告げたのだ。目の前に広がっているのは、理不尽で残酷な、現実の世界。
「行くわよ、ガブ」
私は震える手で杖を握りしめた。
「何が起きているのか、確かめないと」
私たちは丘を駆け下りた。南風に背を押されるようにして。その先に待つものが、私たちの運命を大きく狂わせることになるとも知らずに。




