EP66
194:多分、来ない
風が雪の斜面を駆け上がってくる。その風には、もう冬の刺すような殺意はなく、春の匂いが混じっていた。
「多分、来ないわ」
私は、ガブの目を見てはっきりとそう言った。ガブの大きな瞳が、少しだけ揺れたように見えた。彼は私の言葉の意味を咀嚼するように、数秒間沈黙した。
「なんでだ?嫌な場所じゃなかっただろ?」
ガブが食い下がる。
「ここは頑丈だし、水もある。オレたちが作ったかまどもある。最高の隠れ家じゃないか」
確かにそうだ。この洞窟は、私たちにとって揺り籠であり、砦であり、唯一の安息の地だった。ここでの記憶は、苦しいことも含めて、私にとって宝石のように大切なものだ。だからこそ、戻ってきてはいけないのだと思う。
「ガブ、あなたは『繭』を知っている?」
私は問いかけた。
「マユ?あの、虫が作る白いやつか?」
「そうよ。芋虫は、蝶になるために繭を作るわ。その中でじっと寒さに耐えて、体を作り変えて、やがて殻を破って空へ飛び立つ」
私は、黒く口を開けた洞窟の入り口を指差した。
「あそこは、私たちの繭だったのよ」
冬の間、私たちはあの中でじっとしていた。私は高熱に耐え、ガブは言葉と知恵を身につけ、私たちは互いの絆という新しい翼を作っていた。
「蝶になった虫は、もう一度繭に戻ったりしないわ。空が待っているのに、狭い殻の中に戻る必要なんてないもの」
ガブは「ふうん」と言って、自分の手を見つめた。ゴツゴツとした緑色の手。けれど、以前よりも力強く、器用になり、そして何より「守るべきもの」を知った手だ。
「オレたちは、蝶になったのか?」
ガブが真顔で聞くので、私は思わず吹き出しそうになった。
「ふふ、蝶というよりは……そうね、もっと獰猛でたくましい何かかしら」
「ドラゴンか!?」
ガブの目が輝く。
「いいな、ドラゴン!オレは繭から生まれたドラゴンだ!」
単純な反応に救われる。でも、本質は伝わったようだ。
「戻らないというのは、ここを忘れるということじゃないわ」
私は洞窟に向かって、もう一度深く頭を下げた。
「ここは思い出の場所として、心の中にしまっておくの。物理的に戻る場所じゃなくて、私たちが強くなった場所として」
私たちは前に進む。戻る場所を作ってしまえば、辛い時に逃げ込みたくなる。でも王を目指す彼も、真理を求める私も、逃げ道を用意して旅をするわけにはいかない。
「そっか……」
ガブは納得したように頷くと、くるりと洞窟に背を向けた。その動作には、未練を断ち切るような潔さがあった。
「じゃあ、もう振り返らないぞ!オレは未来のゴブリン王だからな。城を持つなら、あんな岩穴じゃなくて、もっとデカイところがいい!」
「ええ、そうね。もっと日当たりが良くて、風通しのいいお城にしましょう」
私たちは並んで、雪の斜面を見下ろした。眼下に広がる世界。昨日見た景色と同じはずなのに、今は「これから踏破すべき道」として、より鮮明に目に映る。
「行くぞ、リゼ!」
ガブが叫んだ。
「お別れだ!達者でな、オレの繭!」
その声が山々にこだまする。私も心の中で、最後の別れを告げた。
(さようなら。私を生かしてくれて、ありがとう)
私たちは一歩を踏み出した。ザクッ。その音は、過去への決別と、未来への宣言だった。もう振り返らない。私たちの背後で、洞窟は静かにその口を閉ざし、ただの自然の一部へと戻っていった。
195:前に進むから
下山は、登りよりも遥かに困難だった。気温の上昇により、雪の表面が緩んでいるのだ。一見しっかりしているように見えても、体重をかけるとズブズブと沈み込んだり、シャーベット状になって滑り落ちたりする。
「おっとっと!」
先頭を歩くガブが、足を滑らせて体勢を崩した。しかし、彼は驚異的なバランス感覚で持ち直し、尻餅をつくのを回避する。
「危ない!雪が腐ってる!」
ガブが忌々しそうに吐き捨てる。「腐れ雪」というのは言い得て妙だ。春の雪は水分を含んで重く、足にまとわりついて体力を奪う。
「気をつけて、ガブ。急ぐ必要はないわ」
私は杖を雪に深く突き刺し、慎重に足場を確認しながら進んだ。病み上がりの体に、この不安定な足場は堪える。膝が笑い出しそうだ。
ふとガブが立ち止まり、こちらに手を差し出した。
「リゼ、捕まれ。ここからはオレが手を引く」
「大丈夫よ、一人で歩けるわ」
「強がるな。さっきから呼吸が荒いぞ」
図星だった。私は観念して、彼の手を握った。分厚く、温かい手。その熱が革手袋越しに伝わってくる。
「ありがとう。でも、あなたも転ばないでよ?」
「へっ、オレを誰だと思ってる。雪山の王だぞ」
軽口を叩きながらも、ガブの歩みは慎重になった。私のペースに合わせてくれているのだ。
私たちは一歩一歩、確実に高度を下げていった。太陽が高くなり、汗が滲む。真っ白だった世界に、少しずつ色が混じり始めた。岩の黒、針葉樹の深い緑、そして地面の茶色。
難所に差し掛かった。急な斜面で、雪解け水が小川のように流れている場所だ。濡れた岩場は氷のように滑る。
私は杖を構え、呼吸を整えた。ここで転べば、谷底まで滑落しかねない。魔法の助けが必要だ。
(眠れる大地の精霊たちよ。柔らかな雪の下にある、揺るぎなき岩盤の力をお貸しください)
私は意識を足の裏、ブーツの底を通して、その下にある大地へと同調させる。
「『大地の把持』」
静かな詠唱と共に、私とガブの足元に淡い土色の光が灯った。ブーツの底が、まるで磁石のように地面に吸い付く感覚。摩擦係数を魔術的に強化し、滑りを防止する魔法だ。
「おっ、すげぇ!足が滑らないぞ!」
ガブが驚いて足踏みをする。
「魔法の効果よ。今のうちにこの難所を越えましょう」
私たちは魔法の恩恵を受けて、滑りやすい岩場をクリアした。ガブの身体能力と、私の魔法知識。この二つが噛み合えば、どんな道でも進んでいける。そんな確信が芽生え始めていた。
「ねぇガブ」
歩きながら、私は問いかけた。
「山を降りたら、まずは何をする?」
ガブは少し考えてから答えた。
「そうだな……まずは、人間がいるところに行ってみたいな」
「人間?危ないかもしれないわよ。ゴブリンを見たら攻撃してくる人もいるわ」
「わかってる。だから、隠れながら様子を見るんだ」
ガブの目が真剣だ。
「オレは王になるんだろ?だったら、敵である人間のことも知らなきゃダメだ。リゼがいつも読んでる本に書いてあったこととか、本当なのか確かめたい」
知的好奇心。それは、以前の彼にはなかった動機だ。「食欲」や「生存本能」だけでなく、「知りたい」という欲求が彼を突き動かしている。
「いい心がけね」
私は微笑んだ。
「じゃあ、先生として案内してあげるわ。人間の社会がどれだけ複雑で、面倒くさくて、でも面白いか」
「へへっ、頼むぞ先生!」
私たちは笑い合った。後ろを振り返ると、私たちの足跡が雪の上に長く続いていた。その足跡も、昼過ぎには溶けて消えてしまうだろう。でもそれでいい。私たちは「ここ」に留まらない。常に「先」へ進むのだから、痕跡なんて残らなくても構わないのだ。
前に進むから。そのシンプルな意思だけが、私たちを突き動かすエンジンだった。
196:旅の再開
太陽が西に傾き始めた頃、私たちはついに「雪の境界線」を越えた。
足元の感触が変わる。グズグズの雪から、湿った落ち葉の積もった土へ。周囲の景色は、完全な森になっていた。頭上を覆う木々の枝。そこから差し込む木漏れ日。鳥のさえずりが、雪山の鋭い鳴き声から、もっと軽やかで賑やかなものに変わっている。
「土だ……」
ガブが地面に膝をつき、土の匂いを嗅いだ。
「久しぶりだな、地面!」
私も深く息を吸い込んだ。濃密な森の香り。腐葉土、樹液、苔、そして名もなき花々の微かな香り。無菌室のような雪山とは違う、圧倒的な「生命の密度」がここにはある。
「戻ってきたのね」
私はリュックを下ろし、近くの切り株に腰掛けた。どっと疲れが出たが、それは心地よい疲労感だった。
ガブは興味津々といった様子で、あたりの木々を観察している。
「リゼ、見てみろ。木の種類が違うぞ。上の方にあった針みたいな葉っぱの木じゃなくて、もっと葉っぱが広い」
「ええ、ここは広葉樹林帯よ。標高が下がった証拠ね」
ガブの観察眼は鋭くなっている。以前なら「木は木だ」と一括りにしていたものを、彼は今、違いを見分け、分析しようとしている。言葉を覚えたことで、世界を認識する解像度が上がったのだ。
「あっちに道があるぞ!」
ガブが指差した先。草むらの中に、獣道よりも少し広い、踏み固められた跡があった。
「あれは……古い街道かもしれないわね」
私は立ち上がり、その道を確認した。今は使われていないようだが、かつて人が、あるいは馬車が通った痕跡。轍の跡がうっすらと残っている。
「道があるってことは、どこかに繋がってるってことだよな?」
「ええ。道は必ず、誰かの住処へと続いているわ」
私たちはその古道に足を踏み入れた。雪のない平らな地面を歩くのが、こんなに楽だとは。ブーツが土を噛む音が、旅の再開を告げるリズムを刻む。
旅の再開。私たちは逃亡者でありながら、自由な旅人でもある。アカデミーの追っ手、という懸念事項はまだ消えていないけれど、この冬の間に彼らの追跡も途絶えたかもしれないし、逆に網を張っているかもしれない。不安はある。けれど、今の私たちには、それを乗り越える自信があった。
「リゼ」
前を歩くガブが振り返った。木漏れ日を浴びて、彼の緑色の肌が輝いて見える。
「世界って、こんなに広かったんだな」
彼は両手を広げた。
「洞窟にいた時は、あそこが世界の全部みたいに思えてたけど、外に出たら、あそこなんてほんの小さな点だ」
「そうよ。世界は広くて、未知に満ちているわ」
私は言った。
「だからこそ、学びがいがあるし、征服しがいがあるんじゃない?」
「おう!全部オレの庭にしてやる!」
ガブが高らかに笑う。
風が南から吹いてきた。その風に乗って、遠くから微かに煙の匂いがした気がした。焚き火か、それとも村の煮炊きの煙か。誰かがそこにいる。
「行くわよ、ガブ」
「おう!」
私たちは歩調を早めた。止まっていた時計の針が、再びカチリと動き出した。




