EP63
185:雪解け水
ポチョン。ポチョン、ポチョン。
その音は、まるで壊れた時計の秒針のように、不規則ながらも絶え間なく続いていた。私が病床から身を起こすと、洞窟内の空気が以前とは決定的に異なっていることに気づく。湿っているのだ。乾燥して喉を張り付かせるようだったあの冷気は消え、代わりに土の匂いを含んだ湿度が、肌にしっとりとまとわりついてくる。
「音がする」
私は掠れた声で呟いた。かまどの前で火の番をしていたガブが、振り返ってニカっと笑う。
「起きたか、リゼ。うるさいか?天井から水が垂れてくるんだ」
ガブが指差した先、岩の亀裂から雫が滲み出し、床に置かれた手鍋の中に落ちていた。その手鍋はすでに半分ほど水で満たされている。
「雪解け水……」
私は杖を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。まだ足元は少しフラつくけれど、昨日のような鉛を詰め込まれたような重さはない。体の中の魔力回路も、少しずつ繋がり始めているのを感じる。
「ガブ、そのお水、もらえる?」
「ああ、いいぞ。でも冷たいぞ?」
ガブが手鍋を渡してくれる。私は両手でそれを受け取り、口をつけた。――甘い。雪を無理やり火で溶かした時の、あの少し焦げ臭いような味とは違う。岩のフィルターを通し、ゆっくりと時間をかけて濾過された、大地の味がする。喉を通る冷たさが、心地よい刺激となって胃に落ちていく。
「生き返るわ……」
私が息をつくと、ガブが嬉しそうに頷いた。
「だろ?外の雪壁もだいぶ小さくなった。さっき見てきたら、陽が当たるところからどんどん溶けてる」
私は洞窟の入り口へと視線を移した。私たちが積み上げた雪のバリケードは、心なしか嵩が減り、表面がガラスのように透明化してキラキラと光っている。外からの光の侵入量が増えているのだ。
「冬が終わるのね」
「ああ、やっとだ。長かったなぁ」
ガブがしみじみと言う。本当に長かった。ただの数週間だったかもしれないが、この閉鎖空間での生活は、永遠のようにも感じられた。食料の不安、寒さとの戦い、そして私の発熱。ギリギリのところで命を繋ぎ止めていた細い糸が、ようやく太いロープへと変わりつつある。
「ねえガブ。入り口の雪、少しどかしましょうか」
私は提案した。
「外の空気を入れたいの。淀んだ空気を入れ替えましょう」
「おっ、やる気だな!でもリゼは座ってろ。力仕事はオレの役目だ」
ガブは腕まくりをして、入り口へと向かった。
私は岩に腰掛け、彼が雪壁を崩す様子を見守った。ザクッ、ザクッ。スコップ代わりの平たい石で、ガブが雪を掘る。以前ならカチンコチンに凍っていて歯が立たなかった雪壁が、今はザラメのように脆く崩れていく。
崩れた雪の隙間から、眩い光が「線」となって差し込み、洞窟の暗闇を切り裂く。その光の中を、塵がキラキラと舞っている。
私は杖を握り直し、小さく呼吸を整えた。
(氷の精霊たちよ。あなた方の姿が変わっていくのを感じます)
心の中で語りかける。凍りつき、沈黙を守っていた氷の精霊たちが、姿を解いて流動的な水の精霊へと還っていく気配。
「『浄化』」
私は小さく詠唱した。指先から生まれた小さな光の泡が、洞窟内を漂う埃や、病魔の残り香を包み込んで消滅させていく。
「お、空気がうまくなった!」
ガブが鼻をヒクつかせた。
「リゼの魔法か?なんかこう、森の中にいる時みたいな匂いがするぞ」
「ふふ、換気のお手伝いよ。ガブ、そこまででいいわ」
ガブが人の頭ほどの穴を開けたところで、私は彼を止めた。一気に開けすぎると、まだ冷たい風が入りすぎてしまう。
その小さな穴から、ポタポタと水滴が垂れていた。外の雪が溶け、滴り落ちているのだ。その一滴一滴が、地面に落ちて小さな水溜まりを作っている。
私はその水溜まりを見つめながら、ふと思った。この水は、やがて川になり、海へと流れていくのだろうか。私たちもまた、ここから流れ出さなくてはならない。停滞していた時間は動き出した。あの高熱の夜、ガブが必死に繋ぎ止めてくれた命を使って、私はまた歩き出さなければならないのだ。
「ガブ」
「ん?」
「ありがとう。この雪解け水、すごく美味しいわ」
私の唐突な感謝に、ガブは照れくさそうに頭をかいた。
「へへっ、またそれか。気にするな!」
洞窟の中に響く水音は、春へのカウントダウンのように聞こえた。私たちの旅の再開を告げる、静かなファンファーレ。私はコップの中の残りの水を飲み干し、決意を新たにした。さあ、回復の時間だ。
186:春の足音
翌日。私の体調は劇的に良くなっていた。まだ全快とは言えないけれど、杖をついて歩き回れる程度には回復している。ガブ特製の「地獄の苦味スープ」と、十分な睡眠、そして何より「希望」が一番の薬だったようだ。
「リゼ、見てみろ!これ!」
入り口の偵察に行っていたガブが、興奮した様子で戻ってきた。彼の手には、何やら茶色いものが握られている。
「何?また変な虫とかじゃないでしょうね?」
私が少し身構えると、ガブは手のひらを開いて見せた。そこにあったのは、湿った黒土と、そこからひょっこりと顔を出している、指の先ほどの小さな緑色の芽だった。
「草の芽……?」
「ああ!入り口の岩陰の、雪が解けたところから生えてた!」
ガブの目が輝いている。
「すごいな。あんなに寒かったのに、こいつら生きてた」
私はその小さな命を、そっと指先で撫でた。柔らかく、頼りない緑色。けれど、その内側には岩を押しのけるほどの強烈な生命力が詰まっている。
「春の足音ね」
私は微笑んだ。
「足音?」
「ええ。春という季節が、すぐそこまで歩いてきている証拠よ」
「へぇ……足音か。おしゃれな言い方だな」
ガブは感心したように芽を見つめ、また大切そうに入り口の方へ戻しに行った。
「踏まないようにしないと」
私は杖をつき、ガブの後を追って入り口まで歩いた。昨日よりも大きく開けられた穴から、外の世界を覗き込む。
眩しい。反射的に目を細めてしまうほどの光量。雪原はまだ白く輝いているが、その白さの質が変わっていた。以前のような、すべてを拒絶する死の白ではない。光を吸い込み、温かさを孕んだ柔らかい白だ。
そして、風。頬を撫でる風に、あからさまな殺意がなくなっている。まだ冷たいけれど、その奥に微かな温もりを含んでいる。
(風の精霊たち、ごきげんよう)
私は心の中で挨拶をし、小さく魔法を紡いだ。
「『風読み』」
ふわりと、私の髪が舞い上がる。風の情報を読み取る初歩的な魔法だ。風が運んでくるのは、遠くの森の木の香り、湿った土の匂い、そして……かすかな獣の気配。
「どうだリゼ?明日は外に出られそうか?」
ガブが期待に満ちた顔で尋ねてくる。彼はもう、洞窟の中に閉じこもっていることに飽き飽きしているのだ。
「ええ、いけるわ。風向きが変わったもの」
私は南の方角を指差した。
「南風が吹いている。春を運んでくる風よ」
その時、頭上で「ピィ!」という鋭い鳴き声がした。見上げると、青空を背景に、白い鳥が一羽、悠々と旋回しているのが見えた。雪雲に覆われていた空は、今は突き抜けるような群青色だ。
「鳥だ!あいつ、美味そうだな」
ガブが即座に狩猟本能丸出しの感想を漏らす。私は苦笑した。
「感動のないゴブリンね。あれは雪告鳥。冬の終わりを告げる鳥よ」
「ふーん。で、味は?」
「さあね。食べたことはないわ」
「じゃあ、今度捕まえてみよう!」
ガブは楽しそうに笑う。その笑顔を見て、私は本当に安心した。あの吹雪の夜、死にそうな顔で私を看病していた彼は、もういない。いつもの、食いしん坊で元気な相棒に戻っている。
でも、変わったこともある。彼が入り口付近の雪を片付ける時、さりげなく私の足元が滑らないように平らな石を置いてくれたり、風が直接当たらない位置に私を立たせてくれたりする。その不器用な優しさが、春の陽気のように私の心を温める。
「ガブ、明日は久しぶりに外を歩きましょう」
「おう!探検だ!」
私たちは洞窟の中に戻り、旅立ちの準備を少しずつ始めた。長くお世話になったこの場所とも、もうすぐお別れだ。春の足音は、私たちの旅立ちを急かすドラムの音のようにも聞こえた。ドクン、ドクン。胸が高鳴る。外の世界が、私たちを待っている。
187:冬眠明けの動物たち
その夜、私たちは奇妙な物音で目を覚ました。ガサッ……ガリガリ……。洞窟の入り口付近から聞こえる、何かを引っ掻くような音。私は身を起こし、枕元の杖を掴んだ。ガブもすでに起きていて、ナイフを構えて音の方向を睨んでいる。彼の耳がピクピクと動いている。
「魔物?」
私が小声で尋ねると、ガブは鼻をヒクつかせて首を横に振った。
「いや、魔物の嫌な臭いはしねぇ。獣だ。それも、腹を空かせたやつだ」
ガリッ、ボロッ。音は入り口のバリケードの向こう側から聞こえる。どうやら、何かがこちらの匂いを嗅ぎつけて、中に入ろうとしているらしい。
「リゼ、灯りを消せ」
ガブが囁く。私は指先で小さく魔法陣を描き、かまどの残り火の光を遮断した。完全な暗闇が訪れる。
私たちは息を殺して待った。しばらくすると、バリケードの隙間から、二つの小さな光る目が覗き込んできた。月明かりに照らされたそのシルエットは、丸みを帯びていて、長い毛に覆われている。
(アナグマ?)
私が心の中で推測する。雪山に住む『大雪アナグマ』だろうか。冬眠から目覚め、強烈な空腹状態で餌を探し回っているのだ。彼らにとって、この洞窟から漂う匂いは、ご馳走のサインに見えるに違いない。
フゴフゴ……という鼻息が聞こえる。獣は必死に鼻を突っ込み、中の様子を探っている。
ガブが音もなく立ち上がった。狩人の目だ。私たちの備蓄食料は、干し肉があと数枚残っているだけ。新鮮なタンパク質は、喉から手が出るほど欲しい。
(やる気?)
私が目配せすると、ガブはニヤリと笑って頷いた。
「向こうから来た」
とでも言いたげだ。
しかし、その時。ギャアアアッ!
突如、外で甲高い悲鳴のような鳴き声が響いた。続いて、ドサッという重い音と、激しい争いの気配。バサバサバサ!という羽音。
「な、なんだ!?」
ガブが驚いて声を上げる。アナグマの気配が一瞬で消え、代わりに何か別の、もっと大きな存在の気配がした。
私たちは顔を見合わせ、慎重に入り口へと近づいた。ガブがバリケードの隙間から外を覗く。
「うおっ」
ガブが声を漏らした。
「どうしたの?」
「リゼ、見てみろ。自然界の厳しさだ」
私も覗き込む。月明かりの下、雪原の上には、先ほどのアナグマらしき獣が横たわっていた。そして、その上には巨大な影が乗っている。翼を広げれば2メートルはあろうかという、白い猛禽類――『スノー・オウル(大雪フクロウ)』だ。
フクロウは鋭い爪で獲物を押さえつけ、黄色い瞳で周囲を警戒しながら、戦利品をついばみ始めていた。冬眠明けで動きの鈍いアナグマは、空からのハンターにあっけなく狩られてしまったのだ。
「先を越された……」
ガブが悔しそうに舌打ちする。
「でも、すごいわね。動物たちも必死だわ」
私は、その残酷でありながらも美しい光景に見入ってしまった。
冬の間、雪の下で眠っていた命が一斉に目覚める。それはつまり、食うか食われるかの生存競争が一斉に再開されるということだ。静寂の冬は終わり、喧騒と闘争の春が始まる。
フクロウはこちらに気づいたのか、グルリと首を回して洞窟の方を見た。そして、獲物を掴んだまま、力強く羽ばたいて夜空へと消えていった。
後には、雪の上に散った数滴の赤い血と、アナグマの足跡だけが残された。
「あああー!オレの肉がー!」
ガブがバリケードを叩いて嘆いた。
「せっかく向こうから来てくれたのに!」
「仕方ないわよ。早い者勝ちだもの」
私は苦笑しながら、ガブの肩を叩いた。
「でも、これでわかったわね。外には獲物がたくさん動き出しているってことよ」
「そうだな……!」
ガブの瞳に、再び炎が宿る。
「冬眠明けの動物は脂が乗ってないかもしれないけど、干し肉よりはマシだ!明日は絶対、何か狩ってやる!」
ガブのお腹が、グゥ~と盛大に鳴った。私もつられて、小さくお腹が鳴る。病み上がりで食欲が戻ってきた証拠だ。
「ええ、期待してるわ。ハンターさん」
私たちは寝床に戻ったが、興奮してすぐには眠れなかった。外の世界は、もう眠っていない。無数の命が蠢き、春を謳歌しようとしている。私たちも、その輪の中に戻る時が来たのだ。
明日は、新鮮な肉を手に入れよう。そして、太陽の下でそれを焼いて食べよう。想像するだけで、口の中に唾が溜まってくる。生きることは、食べること。そんな当たり前の真理を、私たちは今、全身で感じていた。




