EP62
182:回復の朝
目が覚めた時、最初に感じたのは「静寂」だった。
昨日まで洞窟の外で轟いていた、あの世界を引き裂くような吹雪の音が消えている。代わりに聞こえるのは、ピチ、ピチ……という、微かな水の滴る音だけ。
「ん……」
私は重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。視界がぼやけている。頭がぼんやりとして、自分の体が自分のものではないような感覚だ。けれど、あの体を焼き尽くすような灼熱感は消えていた。代わりに、全身が鉛のように重く、気だるい。魔力欠乏と体力消耗の証拠だ。
(生きてる……)
私は天井の岩肌を見つめながら、ゆっくりと呼吸をした。肺に吸い込まれる空気が、熱風ではなく、ひんやりとした冷気であることが心地よかった。
体を起こそうとしたが、力が入らない。それに、右手が何かに固定されているように動かなかった。
「?」
視線を下に向けると、私の右手は、ゴツゴツとした大きな緑色の手に包み込まれていた。ガブの手だ。彼は私の寝床の横、冷たい岩の床に突っ伏すようにして眠っていた。私の手を、命綱のように握りしめたまま。
記憶が、霧の向こうから少しずつ戻ってくる。高熱の悪夢。終わらない試験。孤独な図書館。その闇の中で、ずっと私を呼び続けていた声。
『死ぬな、リゼ』
そして口の中に残る、泥と雑草を煮詰めたような最悪の苦味。
(あいつ、本当にあの『ゴブリン汁』を飲ませたのね)
私は苦笑しようとしたが、頬の筋肉がうまく動かなかった。口の中がカラカラに乾いている。
私は動かない体を引きずり、左手で枕元にあった水筒を探った。しかし、水筒は空っぽだった。昨夜、ガブが私に飲ませきってしまったのだろう。
(水……)
喉が張り付いて痛い。私は魔法で水を出そうとした。意識を集中する。体の中の魔力回路は、昨夜のオーバーヒートで焼き切れたようにスカスカだ。けれどほんの少しだけ、残りカスのような魔力をかき集める。
私は目を閉じ、周囲の気配を探った。かまどの火は消えかけているが、洞窟内の空気は湿り気を帯びている。
(空気中に漂う、小さな水の精霊たち。聞こえますか?)
私は心の中で、力の限り丁寧に呼びかけた。命令ではなく、嘆願。
(私の喉を潤すための、ほんの少しの雫を……分けていただけませんか?)
静寂の中、微かな気配が動いた。私の指先に、ひんやりとしたものが集まってくる。目を開けると、親指の先ほどの小さな水球が、プルプルと震えながら浮かんでいた。
(ありがとう……)
私はその水球を口に含んだ。たった一口の水。けれど、それは今まで飲んだどんな高級ワインよりも甘露だった。水が食道を通り、胃に落ちていく感覚が、私の体に「生」を再起動させていく。
洞窟の入り口の方を見る。私たちが築いた雪のバリケードの隙間から、突き刺さるような鋭い光の筋が差し込んでいた。その光は、吹雪の日の薄いグレーではなく、澄み切った黄金色をしていた。
朝が来たのだ。長い嵐が去り、回復の朝が。
私は再び視線を、隣で眠る相棒へと戻した。私の手を握ったまま、ピクリとも動かないガブ。その寝息は深く、安らかだった。
183:ガブの寝顔
私は、握られたままの自分の手をそっと動かしてみた。ガブは反応しない。泥のように深く眠っている。
私は体を少しだけ横に向け、彼の寝顔をじっと見つめた。普段は生意気なことばかり言う、大きな口とギョロリとした目。でも今の彼は、どこか幼い子供のように無防備な顔をしていた。
(ひどい顔)
心の中で毒づく。彼の顔は煤と泥で汚れ、緑色の肌が黒ずんで見える。頬には、鋭い何かで切りつけられたような細かい傷が無数にあり、血が滲んで固まっていた。これは、氷の粒が混じった暴風雪に顔を晒した証拠だ。
そして、私の手を包んでいる彼の手。そっと自分の手を引き抜き、彼の手のひらを返してみた。
「……っ」
私は息を呑んだ。その手はボロボロだった。爪は割れ、指先は凍傷で紫色に変色し、あちこちの皮が剥けて赤く腫れ上がっている。
高熱のうわ言の中で聞いた、彼の声を思い出す。
『雪の下に眠る氷針草を探せ』
『ゴブリンの知恵袋だ』
彼は、あの地獄のような猛吹雪の中、外へ出たのだ。道具もろくにない状態で、凍った地面を素手で掘り返し、私のために薬草を探してきてくれた。この傷だらけの手は、その代償だ。
(馬鹿ね……死んだらどうするつもりだったのよ)
視界が滲んだ。涙がこぼれ落ちそうになり、私は慌てて枕に顔を押し付けた。
いつもは私が彼を守っているつもりだった。知識を与え、魔法で道を切り開き、食事の管理をする。彼は私の「旅の友」であり、ある意味で私の庇護下にある存在だと思っていた。
でも違った。私が一番弱かった時、私を死の淵から引き戻したのは、私の魔法でも知識でもなく、この無学で粗野なゴブリンの、命がけの献身だった。
『オレは、お前がいないとダメなんだ』
夢うつつの中で聞いた、彼の泣き声が蘇る。
(それは私のセリフよ……)
私はそっと手を伸ばし、彼のごわごわした頬に触れた。冷え切っていた彼の手とは対照的に、頬は温かかった。
ガブが「んご……」と寝言を言って、私の手に頬を擦り寄せてきた。まるで甘えるような仕草に、胸が締め付けられる。
(ありがとう)
声に出すと起きてしまいそうだから、心の中で呟いた。
私はもう一度、自分の手を彼の手の中に滑り込ませた。彼が無意識に握り返してくる。その温かさと、少し痛いくらいの握る力が、私が生きているという証だった。
かまどの火が完全に消え、炭がチロチロと赤い光を放っている。洞窟の中の気温が下がり始めていたが、不思議と寒くはなかった。隣にある、小さなストーブのような彼の体温が、私を温めてくれていたから。
もう少しだけ。彼が目を覚ますまで、こうしていよう。私は彼の寝顔を見守りながら、嵐が去った後の穏やかな静寂に身を委ねた。彼が目覚めたら、ちゃんと伝えなくちゃいけない言葉がある。
184:ありがとう
「んがッ!?」
突然、ガブが跳ね起きた。まるで敵襲を察知したかのような勢いだ。
「リゼ!?リゼ、生きてるか!?」
彼は寝ぼけ眼で周囲を見回し、目の前でこちらを見ている私と目が合った。
「おはよう、ガブ。生きてるわよ」
私が掠れた声で答えると、ガブは目を丸くして固まった。
彼は恐る恐る手を伸ばし、私の額に触れた。
「熱くない。すげぇ、本当に熱が下がってる」
ガブの顔が、みるみるうちに安堵で崩れていった。大きな目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「よかった……!本当によかったぁ……!」
彼は私のベッド(毛皮)に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくった。
「死んでしまうかと思った!全然起きないし、体が火事みたいに熱いし……!」
「ごめんね、心配かけて。痛っ」
彼の頭を撫でようと腕を上げたら、節々が痛んだ。
「あっ、動くな!まだ病み上がりだ!」
ガブが慌てて涙を拭い、私の体を支えた。
「腹減ったか?水飲むか?あ、またあの苦い薬作るか?」
「薬はもういいわ。お水が欲しい」
私が言うと、ガブは弾かれたように立ち上がり、水筒を持って走り出した。
「水だな!今すぐ新しい雪を溶かしてくる!」
彼はかまどに新しい薪をくべ、火打ち石で火を起こし始めた。その背中を見ながら、私は呼吸を整えた。言わなきゃ。ちゃんと目を見て。
数分後、ガブが温かい白湯が入った木の器を持ってきた。
「ほら、熱いから気をつけろ」
「ありがとう」
私は器を受け取り、両手で包み込んで少しずつ飲んだ。温かい液体が体に染み渡り、強張っていた内臓が解けていくようだ。
飲み終えて、私は一息ついた。そして、目の前で心配そうに私の顔色を窺っているガブを、真っ直ぐに見つめた。
「ガブ」
「ん?まだ具合悪いか?」
「ううん、違うの。座って。話があるの」
私が改まって言うと、ガブは少し緊張した面持ちで、岩の床に正座した。
「ガブ……助けてくれて、ありがとう」
私は深く頭を下げた。今まで、彼に何度「ありがとう」と言っただろうか。崖から引き上げてくれた時、コウモリの肉をくれた時。でも、今回の「ありがとう」は、それらとは重みが違った。
「あなたが外に行って薬草を取ってきてくれなかったら、私は間違いなく死んでいたわ。命の恩人よ」
ガブは顔を真っ赤(緑色だけど)にして、視線を泳がせた。
「べ、別に……大したことじゃない。相棒が病気になったら助けるのは当たり前だ」
彼は照れ隠しに鼻の下をこする。その指先の包帯(私が以前巻いてあげたボロ布)が痛々しい。
「それに……あの吹雪の中、一人で怖かったでしょう?ごめんね、辛い思いをさせて」
私が傷だらけの彼の手をそっと握ると、ガブはビクッと肩を震わせた。
「怖くなんかない。オレはゴブリンだぞ」
彼は強がったが、その声は少し震えていた。
「でも……お前が死ぬほうが、もっと怖かった」
その言葉に、私の胸がいっぱいになった。種族も、生まれも、考え方も違う私たち。でも、互いを失うことを何よりも恐れる気持ちは同じだった。
「もう大丈夫よ。私はここにいるわ」
私は彼の手を握り返した。
「あなたのおかげで、私は戻ってこれたの。本当に、ありがとう、ガブ」
ガブはしばらく黙っていたが、やがてニカっと笑った。いつもの、太陽のような笑顔だ。
「へへっ、礼を言うなら、元気になったらまた美味い飯を作ってくれ!あの辛いシチュー、また食いたい!」
「ふふ、いいわよ。でも、スパイスはほどほどにするわね」
私たちは顔を見合わせて笑った。笑うと、まだ体が痛むけれど、それが生きている実感だった。
ふと、入り口の方から音がした。ポチョン。雪が溶けて、水滴が落ちる音だ。
「ガブ、外を見てきてくれる?」
「おう!」
ガブが入り口の雪のバリケードを少し崩して、外を覗き込んだ。途端に、眩い光が洞窟内になだれ込んできた。
「うわっ、まぶしっ!」
ガブが目を細める。
「リゼ、すごいぞ!空が真っ青だ!それに……」
彼は振り返り、興奮した声で言った。
「なんか、空気が違う!あの刺すような冷たさじゃない!」
私は光の方へ目を細めた。雪解け水の音。黄金色の陽光。そして、和らいだ空気。それは、長く厳しい冬が終わりを告げようとしている合図だった。
私たちは生き延びたのだ。この冬越えの洞窟で。




