EP61
179:冷たい手、温かい手
ガブはすぐに薬の準備に取り掛かろうとしたが、手が震えてナイフが握れない。あまりにも体が冷え切っているのだ。
「くそっ……動け、オレの指……!」
彼はかまどの炎に手を近づけ、無理やり感覚を取り戻そうとした。ジリジリと焼けるような痛みが走る。凍えた皮膚に熱が戻る時の激痛だ。だが、ガブは顔をしかめながらも手を引っ込めない。一刻を争うのだ。
一方、リゼは高熱の海を漂っていた。意識は断続的だ。夢と現の境界が溶け合い、自分がどこにいるのかもわからない。
(熱い……)
全身の血液が沸騰しているようだ。誰か火を消して。誰か私をここから出して。
その時、額に何かが触れた。それは驚くほど冷たく、硬い感触だった。
「ん……」
リゼが小さく声を漏らす。その冷たさが、焼き尽くされそうな思考に一瞬の安らぎを与えてくれた。もっと触れていてほしい。この灼熱地獄から救い出してほしい。
それはガブの手だった。彼はリゼの様子を見るために、思わず素手で彼女の額に触れてしまったのだ。外気で氷のように冷え切ったゴブリンの手。
「あ、わるい……冷たかったか?」
ガブはハッとして手を引っ込めようとした。病人に冷たい手で触れるなんて、驚かせてしまうと思ったのだ。
しかし、リゼはその手を求めた。彼女は弱々しく手を伸ばし、ガブの手首を掴んだのだ。
「いかないで……」
掠れた声。熱に潤んだ瞳が、うっすらと開いてガブを見ている。
「冷たくて……気持ちいいの……」
「リゼ……」
ガブは躊躇したが、リゼがその手を自分の頬に押し当てるのを見て、そのままにした。
ゴツゴツとした、節くれだった大きな手。爪は割れ、泥と血がついている。かつての貴族令嬢であったリゼなら、悲鳴を上げて拒絶したかもしれない不潔な手だ。けれど今の彼女にとって、それは世界で一番優しい救いの手だった。
リゼは感じていた。表面的な冷たさの奥にある、確かな「温かさ」を。それは体温ではない。吹雪の中を駆け抜け、傷つきながらも戻ってきてくれた、この小さな相棒の「心」の温かさだ。
(ガブ……帰ってきてくれたのね……)
言葉にはならなかったが、安堵が胸に広がる。彼は私を見捨てなかった。この孤独な雪原で、私のためだけに命を懸けてくれた。
ガブは反対の手で、リゼの乱れた前髪を優しく払った。その手つきは、岩を砕くゴブリンのものとは思えないほど繊細だった。
「待ってろ。今、すごい薬を作ってやる」
ガブはそう囁くと、リゼの手を布団の中に戻し、立ち上がった。
リゼの視界が再び霞む。遠ざかる背中。かまどの前で座り込み、何かを懸命にすり潰す音。ゴリ、ゴリ、ゴリ……。その一定のリズムが、子守唄のように響く。
冷たい手。けれど誰よりも温かい手。その感触を頬に残したまま、リゼは再び高熱の波に飲まれていった。だが、さっきまでの絶望的な孤独感はもうなかった。闇の向こう側で、灯火が揺れているのを知っていたから。
180:不味い薬湯
洞窟の中に、強烈な匂いが充満していた。土の匂いと、青臭い草の匂い、そして鼻を突くような苦みを含んだ刺激臭。先日のスパイシーなシチューの香りとは対極にある、生存本能が「口に入れるな」と警告する類の匂いだ。
ガブは石のボウルの中で、『氷針草』の根をペースト状になるまですり潰していた。そこに雪解け水を加え、かまどの火で煮出す。グツグツと煮立つ液体は、毒々しい深緑色に変色していた。
「よし……できた」
ガブはボウルを布で包んで持った。ゴブリン族に伝わる秘薬、特製解熱スープだ。見た目は最悪。匂いも最悪。だが、効果は保証付きだ。ガブ自身、幼い頃に高熱を出した際、これを飲まされて地獄を見た記憶がある。
「リゼ、起きろ。薬だ」
ガブはリゼの上半身を抱き起こし、自身の体に預けさせた。リゼの頭がガブの肩にカクリと乗る。彼女の体は燃えるように熱い。
「んぅ……くさい……」
リゼが顔をしかめて呻いた。意識が混濁していても、この匂いは強烈らしい。
「ああ、臭いぞ。ゴブリンの靴下の煮汁みたいな匂いだ」
ガブは冗談めかして言ったが、表情は真剣そのものだ。
「でも、これが命綱。飲め」
ガブは木のスプーンで深緑色の液体を掬い、リゼの口元に運んだ。リゼは本能的に口を閉ざし、顔を背けようとする。無理もない。貴族の舌を持つ彼女にとって、これは拷問に近い。
「わがまま言うな!これ飲まないと死ぬ!」
ガブは少し強引に、スプーンを唇の隙間にねじ込んだ。
とろりとした液体が、リゼの口内に流れ込む。
「!!!」
リゼの目がカッと見開かれた。苦い。苦いなんてものではない。舌が痺れ、喉が収縮するほどの強烈なエグみ。泥と雑草と、未知の苦味成分を凝縮したような味。
「ごほっ、ごほっ!ま、まずい……っ!」
リゼが激しく咳き込み、吐き出そうとする。
「吐くな!飲み込め!」
ガブがリゼの口を手で押さえる。鬼のような所業だが、ここで吐かせては元の木阿弥だ。
リゼは涙目でガブを睨み、必死に喉を動かした。ゴクリ。地獄の嚥下。
「はぁっ、はぁっ……あなた……私を殺す気……?」
リゼが恨めしげに呟く。
「殺すか。生かすためにやってる」
ガブは二杯目を掬った。
「ほら、あと半分だ。頑張れ」
「いや……もう無理……」
「リゼは強いんだろ?熊だって倒したんだ、草ごときに負けるな」
ガブは子供をあやすように、しかし断固としてスプーンを運び続けた。リゼも抵抗する力が残っておらず、観念して口を開ける。
一杯、また一杯。そのたびにリゼの眉間に深い皺が刻まれる。しかし不思議なことに、薬湯が胃に落ちるたびに、体の中の灼熱が少しずつ鎮火していくような感覚があった。焼けるような熱さが、冷たい氷の針によって刺し貫かれ、霧散していく。
「冷たい……」
リゼが呟いた。温かいスープなのに、胃の中から冷気が広がっていくのだ。これが『氷針草』の名たる所以。
「そうだ、効いてる証拠だ」
ガブは最後の一滴まで飲ませると、リゼを再び寝かせた。そして、すぐに新しい水を用意し、口直しに含ませてやる。
「よく頑張ったな、えらいぞ」
ガブはリゼの頭を撫でた。その手つきは、不器用ながらも慈愛に満ちていた。
リゼの呼吸が、少しずつ落ち着き始めていた。浅く速かった呼吸が、深くゆっくりとしたものに変わっていく。薬の効果は劇的だった。しかし、それは同時に体力を激しく消耗させる荒療治でもある。
リゼは泥のような眠りに落ちていった。今度は悪夢ではない。薬草の成分による、深い強制的な睡眠だ。口の中に残る最悪の苦味だけが、これが現実であることを証明していた。
ガブは空になったボウルを置き、大きく息を吐いた。
「ふぅ。一番キツイ仕事だった」
魔物との戦闘よりも神経を使った。だが戦いはまだ終わっていない。熱が完全に下がるまで、今夜が山場だ。
181:「死ぬな」
夜が深まった。外の吹雪の音は少し遠ざかり、洞窟の中は薪が燃える音だけが支配している。かまどの炎が小さくなり、ガブは新しい薪をくべた。パチッ、と火の粉が舞う。
ガブはリゼの枕元に座り込み、じっと彼女の寝顔を見つめていた。薬の効果で熱のピークは越えたようだが、まだ顔は赤く、額には脂汗が滲んでいる。
ガブ自身も限界だった。雪山への強行軍、冷たい水での看病。彼もまた、疲労と寒さで体が悲鳴を上げている。それでも彼は眠らなかった。もし自分が眠っている間に、リゼの容態が急変したら……その恐怖が彼を突き動かしていた。
「リゼ」
ガブは独り言のように呼びかけた。返事はない。彼女は深い眠りの中にいる。
ガブはリゼの手を、両手で包み込んだ。細く、白い指。魔力を操り、知識を語り、時に自分を叱りつけてくれる手。それが今は、折れそうな小枝のように頼りない。
「死ぬな」
ガブの声が震えた。
「オレを置いていくな。オレは、お前がいないとダメだ」
これまで、ガブはずっと強がってきた。
「未来のゴブリン王」だと豪語し、リゼを守る最強の相棒だと振る舞ってきた。けれど本当は知っていた。リゼがいなければ、自分はただの「ちょっと変わったゴブリン」でしかないことを。
「お前が名前をくれたから、オレはガブリエルになれた。お前が世界を見せてくれたから、オレは洞窟の外に出られたんだ」
ガブは自分の額を、リゼの手の甲に押し当てた。
「リゼがいない世界なんて、ただの暗闇だ。太陽があっても、真っ暗だ」
ゴブリンとしての野生の本能が告げている。この人間は、ただの「ボス」ではない。魂の片割れ。群れよりも大切な、唯一無二の存在。
「だから……お願いだ。死ぬな」
一滴の雫が、リゼの手に落ちた。ガブは泣いていた。熊のような魔物に襲われても、怪我をしても泣かなかった彼が、リゼを失う恐怖の前では無力な子供のように涙を流していた。
その時。ピクリ、とリゼの指が動いた。
「ん……」
リゼが小さく呻き、眉間のしわを緩めた。そしてガブの手を、弱々しく握り返した。
「ガブ……」
寝言のような、小さな囁き。
「なかないで……」
ガブは顔を上げた。リゼは目は閉じたままだが、口元が微かに動いている。意識があるのか、夢うつつなのかはわからない。けれど、彼女はガブの声を聞いていたのだ。
「うるさい、泣いてない」
ガブは袖で乱暴に顔を拭った。
「お前が弱いから、目にゴミが入っただけだ」
リゼの手から、灼熱のような熱さが引いていくのを感じた。代わりに、穏やかな温かさが戻ってきている。峠を越えたのだ。
「ありがとな、リゼ」
ガブは彼女の手をもう一度強く握りしめた。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
洞窟の入り口の隙間から、薄い光が差し込み始めていた。長い長い夜が明ける。吹雪は止み、新しい朝が来ようとしていた。
ガブは安堵と共に、強烈な睡魔に襲われた。緊張の糸が切れ、もう目を開けていられない。彼はリゼの手を握ったまま、その場に突っ伏すように眠りに落ちた。
二人の寝息が重なる。静かな洞窟の中で、かまどの残り火だけが優しく二人を見守っていた。死の淵から生還した朝。二人の絆は、どんな魔法よりも強固なものになっていた。




