EP60
176:高熱の悪夢
熱い。体の中をマグマが流れているようだ。それなのに、皮膚の表面は氷漬けにされたように寒い。
暗闇の中で、私は誰かの声を聞いた気がした。でもその声は遠く、すぐにノイズにかき消されてしまう。
――ズズズ……。
風景が変わる。そこは、王都の魔法アカデミーの巨大図書館だった。天井まで届く本棚。埃っぽい紙の匂い。私は机に向かい、山積みの羊皮紙と格闘している。
『リゼ。君ならできるはずだ』
『首席なのだから、失敗は許されない』
『感情に流されるな。論理こそが魔法使いの武器だ』
顔のない教授たちが、私を取り囲んで囁く。期待という名の鎖。称賛という名の重石。私はペンを走らせる。計算式を書く。魔方陣を描く。でも、手が震えて止まらない。
『助けて……』
声に出そうとしても、音にならない。周りには誰もいない。同期の生徒たちは遠巻きに私を見ているだけ。「天才」「才媛」「氷の女」。誰も私に触れようとしない。寒い。知識の塔の頂上は、いつも風が強くて寒いのだ。私は一人で膝を抱える。誰か、温めて。誰か、私をただの「リゼ」として見て。
その時、冷え切った私の額に、冷たくて気持ちいい何かが触れた。
「おい、リゼ。死ぬなよ」
野太い、聞き慣れた声。図書館の幻影が揺らぎ、不格好な緑色の顔が割り込んできた。ガブ?どうしてあなたがここにいるの?ここは神聖なアカデミーよ。魔物は立ち入り禁止なのに。
現実の感覚が一瞬だけ戻ってくる。私は洞窟にいる。額に乗せられているのは、雪を包んだ革袋だ。ガブが必死に看病してくれている。
「う、ぅ……」
私はうわ言を漏らした。喉が張り付いて痛い。
「気がついたか!?水だ、水を飲め!」
ガブが私の首を持ち上げ、水筒を口元に当ててくる。冷たい水が喉を通り過ぎるが、それは焼き石に水のようなもので、体内の熱気ですぐに蒸発してしまう感覚だった。
「ごめん……なさい……」
私は掠れた声で謝った。
「私……計算、間違えた……こんなところで……」
「馬鹿野郎!計算とかどうでもいい!」
ガブが怒鳴る声が、頭に響く。
「お前はいつも考えすぎなんだ!今は寝てろ!」
ガブの手が、私の手を握りしめる。ゴツゴツして、硬い豆だらけの手。でも、夢の中の誰よりも温かかった。
(精霊さん……助けて……)
私は無意識のうちに、救いを求めて魔力を練ろうとした。魔法使いの性だ。困った時は魔法。それが私の生存戦略。
(清らかなる水の精霊よ……我が熱を冷まし、癒やしの雫を……)
心の中で丁寧に語りかけようとする。しかし、言葉がまとまらない。魔力の糸が絡まり、プツプツと切れていく。精霊たちの姿が見えない。私の声が届かない。『魔力欠乏』と『高熱による回路遮断』。今の私は、ただの無力な少女だった。
「ハァ、ハァ……熱い……」
再び意識が混濁し始める。ガブが慌ただしく動き回る気配がする。雪を取り替え、毛布を掛け直し、火を調節している。
「くそっ、熱、全然下がらない!」
ガブの焦燥感が伝わってくる。
「リゼの体、炭みたいに熱い。このままじゃ燃え尽きる!」
彼は私の顔を覗き込み、何かを決意したように唸った。
「人間の薬なんて持ってない。なら、ゴブリンのやり方でやるか」
夢の世界へ引きずり込まれる寸前、私はガブが立ち上がる音を聞いた。待って、行かないで。一人は嫌。あのアカデミーの、広い図書館に一人きりで戻るのは嫌。
私は手を伸ばそうとしたが、指先すら動かなかった。そして再び、私は高熱の悪夢――終わらない試験と孤独の迷宮へと落ちていった。
177:ガブの奔走
オレは、震えるリゼの手を毛布の中に押し込んだ。熱い。異常な熱さだ。雪で作った氷枕も、すぐに溶けてぬるま湯になってしまう。
「こいつはヤバい……」
オレはゴクリと唾を飲み込んだ。野生の勘が警鐘を鳴らしている。この熱は、ただ寝ていれば治るようなもんじゃない。「魔力枯渇症」か何かか?詳しくはわからないが、このままじゃリゼは死ぬ。
リゼが死ぬ。その想像をしただけで、オレの心臓が早鐘を打った。嫌だ。せっかく面白い相棒ができたのに。美味い飯を作ってくれて、変な歌を歌って、オレを対等に扱ってくれる人間。こいつがいなくなったら、オレはまた一人で、ただの「はぐれゴブリン」に戻ってしまう。
「考えるな、動け!」
オレは自分の頬をパチンと叩いた。
昔、母ちゃんが言っていた。
『熱で体が燃える時は、雪の下に眠る【氷針草】を探せ』
と。ゴブリンの知恵袋だ。人間が使うポーションみたいに上品なもんじゃないが、熱を無理やり引き下げる強力な解熱作用がある。
問題は外だ。オレは洞窟の入り口を塞いでいるバリケードを見た。隙間からヒューヒューと冷気が漏れ出している。外はまだ吹雪。死の世界だ。
「行くしかないな」
オレは覚悟を決めた。リゼのリュックを漁り、予備の毛皮を体に巻き付ける。足元にはボロ布を何重にも巻いて、即席の防寒ブーツにする。腰にはナイフ。
「リゼ、ちょっと待ってろ。すぐに戻る」
返事はない。苦しそうに呼吸を繰り返すだけだ。オレはかまどに薪をありったけ放り込んだ。数時間は保つはずだ。
入り口の雪壁に向き合う。
「うらぁッ!」
オレは固まった雪をナイフと手で掘り崩した。冷たさが指先を噛むが、構ってはいられない。
ズボッ。穴が開いた瞬間、猛烈な風雪が顔面に叩きつけられた。
「ぐわっ……!」
息ができない。目も開けられない。リゼが「地獄」と言った意味がわかった。これは生き物が居ちゃいけない場所だ。
でも行くんだ。オレは這い出るようにして外に出た。視界は真っ白。上下左右の感覚すら怪しい。
「(……匂いだ)」
オレは鼻をヒクつかせた。視覚は役に立たない。頼れるのはゴブリンの嗅覚だけだ。雪と氷の匂いの中に混じる、微かな植物の匂いを探せ。
『氷針草』は、岩場の影や、雪が深く積もった場所に生える。苦い、独特の青臭い匂いがするはずだ。
ザクッ、ザクッ。腰まで埋まる雪をかき分けて進む。風が体温を一瞬で奪っていく。リゼの魔法で守られていた旅が、どれだけ恵まれていたかを痛感する。今のオレは、ただの小さな肉の塊だ。
「(負けない……!)」
オレは歯を食いしばった。昨日の夜、あんなに美味いシチューを食ったんだ。そのエネルギーがまだ残ってるはずだ。リゼは言った。『香辛料の奇跡』だって。なら、今度はオレが奇跡を起こす番だ。
「リゼ……!」
名前を呼ぶと、少し力が湧いた。あいつは賢くて強いけど、今は弱っちい子供みたいに寝てる。守ってやらなきゃいけない。それが「パーティ」ってやつだろ?
オレは四つん這いになって、雪に顔を近づけた。クンクン……クンクン……。冷気で鼻の奥が痛い。でも、嗅ぎ分けるんだ。風の匂い、土の匂い、魔物の気配……。
その時。風の切れ間から、ツンとした鋭い香りが漂ってきた。ミントよりも強く、泥よりも生々しい、生命の匂い。
「あった!」
オレは風上に向かって走り出した。転んで雪まみれになっても、すぐに起き上がる。匂いは、あの岩陰からだ!
178:雪の中の薬草
そこは、切り立った岩壁の窪みだった。風が渦を巻いて雪を吹き飛ばしているため、地肌がわずかに露出している。オレはその岩陰に滑り込んだ。
「ハァ、ハァ……どこだ……」
手がかじかんで感覚がない。オレはナイフを捨て、素手で凍った土と氷を掘り返した。爪が割れ、指先から血が滲む。でも、痛みよりも焦りが勝る。
リゼの顔が浮かぶ。『ガブ、夕食の当番よ』と笑う顔。『歌を教えて』と目を輝かせる顔。あいつを死なせるわけにはいかない。
ガリッ。指先に硬い植物の感触があった。オレは慎重に周囲の氷を砕いた。
現れたのは、親指ほどの大きさの、青白い葉を持つ草だった。葉の縁がギザギザしていて、まるで氷の結晶のようだ。【氷針草】だ。間違いない。冬の間、雪の下でじっと耐え、春を待つ強い草。
「よし……よし!」
オレは震える手でそれを引き抜いた。根っこまで丁寧に。薬効は根に一番詰まっているからだ。一本、二本、三本。ここにある全部を持っていく。
草を懐の、肌に一番近い場所に入れた。体温で凍らせないようにするためだ。
「帰るぞ……!」
目的は達した。あとは戻るだけだ。だが、帰路こそが最大の難関だった。
洞窟を出た時よりも、吹雪が強まっている。自分の足跡はすでにかき消され、どっちが洞窟なのかわからない。白い闇。方向感覚が狂い、平衡感覚が失われる。
「(落ち着け……リゼならどうする?)」
オレは立ち止まり、目を閉じた。あいつなら、きっと風を読む。精霊の声を聞く。オレには精霊の声は聞こえない。でも、風の音は聞こえる。
『ゴオォォォ……』
風は、山の上から下へと吹き下ろしている。洞窟は、風を背にする位置にあったはずだ。つまり、風に向かって少し斜めに進めば、岩壁にぶつかる。
「信じるしかない!」
オレは顔を上げ、嵐の中へと踏み出した。
一歩進むごとに、体力が削り取られていく。睫毛が凍りつき、目を開けていられない。足が重い。眠い。ああ、このまま雪の中に寝転がったら、どんなに楽だろう。母ちゃんの子守唄が聞こえる気がする。
『ドン、ドン、グオォ……』
いや、あれはオレの歌だ。この前、リゼが褒めてくれたオレの歌。「魂が震えた」って言ってくれた。
「うぉおおおおっ!」
オレは叫んだ。声を出すことで、体の中の火を燃やした。死んでたまるか。ここでオレが死んだら、リゼも死ぬんだ。二つの命を背負ってるんだ。ゴブリンなめんな!
ドンッ。肩が硬いものにぶつかった。岩壁だ。オレは壁に手をつき、這うようにして横移動した。どこだ、入り口はどこだ。
その時、微かな匂いがした。煙の匂い。薪が燃える匂い。そして、スパイシーな残り香。
「リゼ!」
オレは雪の山に飛び込んだ。そこは、オレが這い出してきた穴だった。雪で埋まりかけていたが、まだ通れる。
ズリズリと這い進み、洞窟の中へと転がり落ちた。
「ハァッ、ハァッ……!」
風の音が遠のき、代わりに静寂と、パチパチという焚き火の音が聞こえた。暖かい。生きて戻った。
オレは倒れ込みそうになる体を叱咤して、かまどの近くへ這っていった。リゼは、まだ毛布の中で苦しそうに呼吸をしている。生きてる。
「待たせた……今、薬を作る」
オレは懐から、少し温まった氷針草を取り出した。これをすり潰して、湯に溶かして飲ませる。猛烈に苦いし、不味い。リゼはきっと文句を言うだろう。
「へへ……文句言えるくらい、元気にしてやる」
オレは凍傷で感覚のない指で、石のボウルを掴んだ。ここからが看病の本番だ。外の吹雪なんて、今のオレたちの絆の前には敵じゃない。
リゼの命の火を、オレが守り切ってみせる。




