EP59
173:香辛料の奇跡
「はぁーっ……食った、食った!」
ガブが満足げに腹を叩き、そのまま後ろにゴロンと転がった。空っぽになった鍋と、綺麗に舐めとられた木の器が、私の完全勝利を物語っている。
「どう?いつもの干し肉スープとは違うでしょ?」
私は少し得意げに尋ねた。私自身、久しぶりに「味のある食事」をして高揚していた。口の中に残るピリピリとした感覚が、生きている実感を呼び覚ましてくれる。
「ああ、違うなんてもんじゃない!」
ガブが天井を見上げながら叫ぶ。
「なんかこう、腹の中から太陽が昇ってきたみたいだ!手足の先までジンジンするし、力がみなぎってくる!」
その言葉通り、ガブの緑色の肌はほんのりと赤みを帯び、額には玉のような汗が浮かんでいた。外は極寒の吹雪だというのに、私たちはまるで真夏の砂漠にいるかのような熱気を感じていた。これがスパイスの力、「カプサイシン」による血行促進効果だ。
「これを『香辛料の奇跡』と呼ぶのよ」
私も汗を拭いながら解説する。
「ただ辛いだけじゃない。薬膳としての効果があるの。停滞していた代謝を一気に高めて、寒さで強張った体を内側から解きほぐす……」
言いながら、私は自分の体が異常に軽いことに気づいた。ここ数日、なんとなく感じていたダルさや、節々の重さが嘘のように消えている。まるで、錆びついた歯車に最高級の潤滑油を差したようだ。
「すげぇな、リゼの魔法料理は!これなら吹雪の中でも素っ裸で踊れそうだ!」
「それはやめなさい。湯冷めするわよ」
ガブが立ち上がり、シャドーボクシングを始めた。キレのある動きだ。
私も立ち上がってみる。フラつくこともない。視界も明瞭だ。
(すごい……これなら、徹夜で魔導書の解読だってできそう)
私たちは興奮状態にあった。閉塞感による鬱屈も、寒さへの恐怖も、スパイスの熱が一瞬で吹き飛ばしてくれたのだ。洞窟の中は、笑い声と熱気に満ちた祝祭の空間へと変わった。
「リゼ、オレの負けだ!こんな美味いもん食えるなら、一生料理当番はお前でいい!」
「あら、賭けの内容を忘れたの?負けたあなたは『何でも言うことを聞く』係よ」
「おう!皿洗いでも肩もみでも、何でもやってやる!」
ガブは宣言通り、鼻歌交じりに食器を洗い、薪を割り、私の寝床の毛皮をふかふかに整えてくれた。至れり尽くせりだ。
「おやすみ、リゼ。いい夢見ろよ!」
ガブは自分の寝床に潜り込むと、わずか数秒で幸せそうな寝息を立て始めた。
私も毛布に潜り込んだ。暖かい。いつもなら、足先が冷たくてなかなか寝付けないのに、今日は足の裏までポカポカしている。継ぎ接ぎの毛布が、まるで高級な羽毛布団のように感じられた。
(勝ったわね)
私は暗闇の中で小さくガッツポーズをした。知恵と工夫で、環境を改善する。これこそが魔法使いの生き様だ。
けれど、眠りに落ちる直前、ふと奇妙な違和感が胸をよぎった。熱すぎる。スパイスの効果にしては、少し持続しすぎではないだろうか?心臓の音が、耳元でドクドクと鳴っている。呼吸が、普段よりも少しだけ浅く、速い。
(興奮しているだけね。久しぶりの刺激物だったから……)
私はそう自分に言い聞かせた。まさか、この「奇跡のような全能感」が、ロウソクが燃え尽きる直前の最後の輝きだとは知らずに。
体の中で、何かが境界線を越えようとしていた。スパイスが無理やり引き出した元気は、私の体力が底をついている事実を、一時的に覆い隠してしまっただけだったのだ。
心地よい熱に浮かされながら、私は深い闇へと沈んでいった。それが、安らかな眠りではなく、昏睡に近いものであることにも気づかずに。
174:風邪の予兆
朝が来た。いや、朝だとは思うのだが、感覚が曖昧だ。
目が覚めた瞬間、世界が重かった。まぶたが鉛でできているかのように開かない。喉の奥に、焼き付くような渇きと痛みがある。
「……ん、ぅ……」
声を出そうとしたが、カサカサとした掠れ声しか出ない。昨夜のあの全能感はどこへ行ったのか。今の私は、まるで重力魔法を5倍にしてかけられたかのように、地面に縛り付けられていた。
「おーい、リゼ!朝だぞー!」
ガブの元気な声が響く。その声が、頭の中でガンガンと反響して痛い。
「う、るさいわね……」
私は力を振り絞って身を起こした。ズキン、とこめかみに痛みが走る。視界が少し揺れた。
ガブがのっそりと近づいてきた。
「お、起きたか。外はまだ吹雪いてるけど、風は少し弱くなった気がするぞ」
彼は私の顔を覗き込み、ピタリと動きを止めた。
「ん?リゼ、顔が赤いぞ」
「え?」
「なんか、目がトロンとしてるし。昨日のスパイス、まだ残ってるのか?」
私は慌てて顔を手で覆った。掌に触れる頬が、驚くほど熱い。
(熱がある……?)
いや、認めてはいけない。ここで「病気です」なんて言ったら、ガブがパニックになる。それに、私はこのパーティの頭脳であり、指導者なのだ。体調管理もできないなんて、示しがつかない。
「な、なんでもないわ。ちょっと……寝起きで血の巡りがいいだけよ」
私は精一杯の虚勢を張った。
「それより、朝の支度をしなきゃ。火、消えかけてるわね」
私は杖を手に取り、かまどに向かった。残り火が白い灰の中で燻っている。いつものように、火の精霊に語りかけて火力を上げてもらうだけだ。簡単なこと。
(火の精霊さん、おはようございます。起きて、私たちを温めて……)
意識を集中しようとするが、思考がまとまらない。いつもなら見えるはずの精霊の姿が、ぼやけて見えない。魔力の糸を手繰り寄せようとしても、指先からスルリと抜けていってしまう。
「リゼ?どうした?詠唱しないのか?」
ガブが不思議そうに見ている。
「い、今やるわよ。静かにしてて」
私は焦った。魔力が練れない。体の中の熱が、魔力の回路をショートさせているようだ。
(お願い、少しだけでいいの……!)
私は無理やり魔力を押し出した。ボッ!かまどから不自然に大きな炎が噴き上がり、すぐにシュンと消えた。
「うわっ!あぶない!」
ガブが飛び退く。
「ご、ごめんなさい……手元が狂ったわ」
私は震える手で杖を握り直した。おかしい。こんな初歩的な制御ミスをするなんて。呼吸が荒い。立っているだけで、足の筋肉がワナワナと震えているのがわかる。
「おい、リゼ。やっぱおかしいぞ」
ガブが真剣な顔で近づいてくる。彼の野生の勘は、私の嘘を見抜いているようだ。
「息の匂いが、病気の獣と同じだ。熱い匂いがする」
「失礼ね、獣と一緒にしないで」
私は強がって見せたが、その言葉には何の力もなかった。視界の端が暗くなっていく。寒気がするのに、汗が止まらない。
(これは……風邪?それとも、過労?)
思い当たる節はありすぎる。ドワーフの遺跡からの強行軍、連日の夜更かし、そして昨夜の急激な代謝アップによる反動。糸は、とっくの昔に切れかかっていたのだ。
「大丈夫よ……ちょっと座ってれば治るわ」
私はフラフラと壁際に戻ろうとした。その一歩が、致命的だった。
ガクン。膝の力が、突然抜けた。
175:リゼ、倒れる
世界の上下が反転した。いや、私が崩れ落ちたのだと気づくまでに、数秒の遅れがあった。
「リゼッ!!」
ガブの悲鳴のような叫び声が聞こえた。硬い岩の床に打ち付けられる――と身構えた瞬間、私の体は柔らかい何かに受け止められた。熊の毛皮の匂いと、ゴブリン特有の土と草の匂い。ガブがスライディングするように飛び込み、私を抱き留めたのだ。
「おい!しっかりしろ!リゼ!」
ガブの大きな顔が目の前にある。その表情は、魔物に襲われた時よりも必死に見えた。
「あ、れ……?私……」
言葉がうまく紡げない。舌が痺れている。ガブの腕の中にいるのに、まるで氷漬けにされたように寒い。ガタガタと歯の根が合わない。
「熱っ!お前、すごい熱だぞ!煮えた鍋みたいだ!」
ガブが私の額に触れ、その熱さに驚愕している。
「嘘……寒いのよ……すごく、寒い……」
「寒いわけあるか!触れないくらい熱いんだぞ!」
高熱による悪寒だ。私の体温調節機能は完全に崩壊していた。視界が明滅する。ガブの緑色の顔が、二重にも三重にも重なって見える。
「寝床だ!寝床に戻すぞ!」
ガブは私を軽々と抱き上げた。普段なら「重いから降ろして!」と抗議するところだが、指一本動かす気力がない。私の体は、まるで中身が鉛に変わってしまったように重かった。
毛布の上に寝かされると、ガブはありったけの毛皮を私に被せた。
「これでどうだ?まだ寒いか?」
「うぅ……」
返事をする力もない。ただ、苦しい。息を吸うたびに、肺が焼けるようだ。頭の中で、誰かが金槌で頭蓋骨を叩いているような痛みが続く。
(どうしよう……)
薄れゆく意識の中で、恐怖がこみ上げてきた。ここは雪山の洞窟だ。医者もいない、薬もない。あるのは素人のゴブリンと、限られた食料だけ。
私が倒れたら、誰が判断を下すの?誰が魔法で火を守るの?誰がガブを導くの?
「ガブ……火を……」
私はうわ言のように呟いた。
「火を、絶やしちゃだめ……」
「わかってる!火はオレが見てる!だから喋るな!」
ガブが私の手を握った。彼の手はゴツゴツして硬いが、驚くほど温かかった。その温もりが、唯一の命綱のように感じられた。
「死ぬなよ、リゼ。オレを置いて死ぬなよ……!」
ガブの声が震えている。泣いているのだろうか?
(死なないわよ……馬鹿ね……)
そう言いたかったが、声にならなかった。視界が完全に闇に包まれる。意識の糸が、プツリと切れた。
最後に感じたのは、自分の内側から湧き上がる灼熱の炎と、私を呼び続ける相棒の声だけだった。アカデミーの優等生リゼの冒険は、ここで最大の危機を迎えていた。魔物との戦いではなく、目に見えない病魔との戦い。そして、私の命運は、無学で粗野な一匹のゴブリンの手に委ねられたのだった。




