EP56
164:外は吹雪
ゴオォォォォォォ……ッ。地響きのような音が絶え間なく続いている。継ぎ接ぎだらけの毛布から顔を出すと、洞窟の中は薄暗かった。かまどの火が小さくなっている。
「すごい音ね」
私は寝ぼけ眼をこすりながら呟いた。隣で丸まっていたガブも、その轟音に耳をピクリと動かして目を覚ました。
「んあ?なんだ、山でも崩れたか?」
「いいえ。風の音よ」
私たちは身支度を整え(といっても毛布から出るだけだが)、洞窟の入り口の方へと向かった。しかし、本来なら外の光が差し込んでくるはずの場所が、薄暗いグレーの壁に覆われていた。
「うわっ、なんだこれ!出口がなくなってるぞ!」
ガブが駆け寄り、その壁に手を触れる。
「冷た!これ、全部雪か!?」
一晩のうちに、猛烈な吹雪が洞窟の入り口を雪で埋め尽くしてしまったのだ。高さ2メートルはある入り口が、完全に塞がれている。風の通り道が変わったのか、吹き溜まりになってしまったらしい。
「完全に閉じ込められたわね」
私は冷静に状況を分析した。天井の換気口からはまだ微かに空気が流れているので、窒息の心配はない。だが、物理的に外へ出ることは不可能に近い。
「ど、どうする!?掘るか!?」
ガブがパニックになりかけて、雪の壁を素手で掘ろうとする。
「待ってガブ。闇雲に掘っても、外が吹雪ならまたすぐに埋まるわ。それに、もし外気温がマイナス30度とかになっていたら、穴を開けた瞬間にここが冷凍庫になる」
まずは状況確認だ。私は杖を手に取り、雪の壁の前に立った。物理的に見るのではなく、精霊の力を借りて「外」を感じ取るのだ。
私はそっと雪壁に手を当て、意識を研ぎ澄ませた。
(冷たく、清らかなる氷の精霊たちよ。そして、その向こうで踊り狂う風の精霊たちよ。今の外の世界を、私の心に映してくれませんか?)
以前のような探知魔法の強制詠唱ではない。雪の中に潜む精霊たちに、感覚を共有してもらうための対話。すると、指先から冷やりとした感覚と共に、真っ白な映像が脳内に流れ込んできた。
――視界ゼロ。天地の境目すらわからない、荒れ狂う白の世界。風はもはや空気の流れではなく、凶器のような圧力を持って木々を薙ぎ倒そうとしている。生き物の気配は皆無。すべてが凍りつき、拒絶されている。
「……っ!」
あまりの凄まじさに、私は思わず手を引っ込めた。
「どうだリゼ?外に出られそうか?」
「無理よ。絶対に無理」
私は首を横に振った。
「外は地獄そのものだわ。あの中に飛び出したら、数分で道を見失って、一時間で凍った彫像になる」
ガブがゴクリと唾を飲み込む。
「マジかよ……。最強の大家(熊)さんも、これを知ってたからあんなに必死に冬眠してたんだな」
「そうね。自然の前では、熊もゴブリンも人間も等しく無力だわ」
私たちは入り口の雪壁を補強するように、さらに内側から毛皮や荷物を積み上げてバリケードを作った。冷気を遮断し、この小さな空間の熱を守るために。
作業を終え、かまどの前に戻ると、改めてこの空間のありがたさが身に沁みた。外は死の世界。でも、ここには火があり、食料があり、仲間がいる。
「なんか、不思議な気分だな」
ガブが干し肉をかじりながら言う。
「外がヤバければヤバいほど、ここが天国みたいに思える」
「相対的な幸福ってやつね。でも、これで確定したわ」
私はかまどの火に薪をくべた。
「吹雪が止むまで、私たちはここから一歩も出られない。それが3日なのか、1週間なのかわからないけど」
「へへ、食い物はあるし、リゼ先生の裁縫教室も終わったしなぁ」
ガブが大の字になって寝転がる。そう、私たちは再び「暇」という最強の敵と向き合うことになったのだ。
音だけが響いている。ゴオォォォ……という風の唸り声。時折、ドォン!と何かがぶつかるような衝撃音。外の世界が荒れ狂う音を聞きながら、私たちは嵐の中の小船のように、洞窟の中でじっと時が過ぎるのを待つしかなかった。
しかし、ただ待つだけでは精神が摩耗する。人間とゴブリンは、退屈に耐えられない生き物なのだ。私は膝を抱え、洞窟の天井を見上げた。そこには、新たな発見の種が隠されていた。
165:洞窟内の反響音
閉鎖空間での生活、4日目。外の轟音にも耳が慣れてしまい、それが当たり前のBGMになりつつあった。私たちは言葉少なに、それぞれの時間を過ごしていた。ガブはナイフの手入れ。私は瞑想(という名の居眠り)。
その時、ガブが手を滑らせた。カランッ。研いでいたナイフの背が、石の床に当たって乾いた音を立てた。
カラン……カラン……ン……ン……。
音が、跳ねた。洞窟の奥へと吸い込まれ、そして予期せぬ方向から戻ってきた。
「ん?」
ガブが顔を上げる。
「今の、変な音だったな」
「反響ね」
私は目を開けた。
「ここはドーム状になっているし、壁の岩が硬いから、音がよく響くのよ」
私が試しに手を叩いてみる。パンッ!パァン……ァン……ァン……ン……。
まるでコンサートホールのような、深みのある残響音。ただの拍手が、重層的な音の波となって空間を満たす。
「おおっ!なんかカッコいい!」
ガブが面白がって、自分も手を叩いた。バチンッ!バチィン……ィン……ィン……。
彼の手は大きくて肉厚なので、私よりも低く、重い音が響く。
「すげぇ!オレの拍手が強そうだ!」
「強そうって何よ……。でも、面白い響き方ね」
私は立ち上がり、洞窟の中を歩き回ってみた。場所によって、響き方が微妙に違うのだ。入り口付近では音がこもるが、奥のドームの中心に行くと、音が頭上から降り注ぐように聞こえる。
「ここだわ。ここが一番響く」
私はかまどの少し奥、天井が高くなっている場所に立った。
「あー、あー、マイクテスト」
あー、あー、まいくてすと……。
自分の声が、まるで他人の声のように艶やかに聞こえる。天然のリバーブ効果だ。
「マイク?なんだそれ」
「声を大きくする魔法の道具よ。ねえガブ、あっちの壁際で何か喋ってみて」
ガブが壁際に移動し、ボソボソと言った。
「肉が食いたい」
にくが……くいたい……たい……。
切実な欲望が、神聖な神託のように響き渡った。私たちは顔を見合わせて吹き出した。
「わはは!自分の声じゃないみたいだ!」
ガブが笑うと、その笑い声も増幅されて、洞窟内が賑やかになる。二人しかいないのに、大勢の観客がいるようだ。
「よし、実験よ」
私は子供のような好奇心に駆られた。
「いろんな音を出してみましょう」
私たちは手当たり次第に音を出した。石と石を叩き合わせる音。カッカッ……。干し肉を齧る音。バリッ……。水筒の水を振る音。チャプン……。
普段なら聞き流してしまうような些細な生活音が、この空間では意味ありげな「音楽」に変わる。
「リゼ、これ見てろ!」
ガブが深呼吸をして、お腹に力を入れた。ゲェェェェップ!!
盛大なゲップだ。それが反響し、増幅され、まるでドラゴンの咆哮のように洞窟を震わせた。ゴオォォォ……ォォォ……。
「最低」
「へへっ、最強のゲップだろ!」
呆れる私をよそに、ガブは得意満面だ。でも、不思議と不快ではなかった。閉塞感で息が詰まりそうだったこの空間に、笑いという空気が満ちたからだ。
「音が響くってことは、ここは天然の劇場なのよ」
私はスイートスポットに戻り、くるりと回った。ローブの裾が風を切り、それすらも微かな音色となる。
「劇場?芝居でもするのか?」
「それもいいけど……もっと単純なことよ」
私は咳払いを一つした。コホン……という音さえも美しく響くこの場所で、試してみたいことがあった。私の心の中に眠っていた、かつての記憶。アカデミーの聖堂で聞いた、美しい旋律。
「ねえガブ、音楽は好き?」
「音楽?太鼓叩いて踊るやつか?」
「それも音楽ね。でも、私が知っているのは少し違うの」
私は目を閉じた。外の吹雪の音に対抗するように。この閉ざされた灰色の世界に、色彩を与えるために。
166:歌を歌ってみる
私は胸に手を当て、息を深く吸い込んだ。肺いっぱいに満ちた洞窟の冷たく乾燥した空気が、喉を潤す。
精霊たちにお願いする魔法ではない。これは、私自身の魂を震わせる魔法だ。
――♪
私が口ずさんだのは、エルフの里で聞いた子守唄でも、ゴブリンの戦歌でもない。かつて王都の魔法アカデミーで、卒業式の夜に聖歌隊が歌っていた古いバラードだった。「星降る夜の祈り」。遠く離れた故郷を想い、旅立つ者の無事を祈る歌。
「静寂の海を渡り銀の船は行く嵐の夜も凍える朝も灯火は消えない~♪」
私の声は、決してプロのように上手くはない。けれど、この洞窟が最高の楽器になってくれた。高音は透き通るように伸び、低音は柔らかく広がる。岩肌が声を抱きとめ、幾重にも重ねて私の耳に返してくる。
自分が一人で歌っているのに、まるで誰かとハーモニーを奏でているような錯覚。気持ちいい。声という「波」に乗って、心が解放されていく。
私は目を開けた。目の前で、ガブがポカンと口を開けて固まっていた。手に持っていた干し肉が、手から滑り落ちていることにも気づいていない。
「どうかあなたの道に優しい風が吹きますように~♪」
最後のフレーズを歌い終え、その残響が完全に消えるまで、私たちは動かなかった。シーン……。再び静寂が戻ってくるが、それは先ほどまでの重苦しい静寂とは違う、余韻を含んだ温かい静寂だった。
「すっげぇ」
ガブが絞り出すように呟いた。
「リゼ、それ……魔法か?攻撃魔法じゃなくて、なんかこう、心がビリビリする魔法」
「ふふ、ただの歌よ。人間に伝わる古い民謡」
私は少し照れくさくなって、頬をかいた。
「どう?うるさかった?」
「まさか!すっげー綺麗だった!」
ガブが興奮気味に身を乗り出す。
「なんか、胸の奥がキュッてなって、でもポカポカして……。オレ、こんな音聞いたことない」
ゴブリンの文化に、こうした旋律的な音楽は少ないのかもしれない。彼らの音楽はリズム(太鼓や足踏み)と叫びが主体だ。「メロディ」という概念が、彼には新鮮な衝撃だったようだ。
「リゼの声、キラキラしてたぞ。風の精霊みたいだった」
「ありがとう。この洞窟のおかげよ」
ガブの純粋な称賛は、どんな貴族からの拍手よりも嬉しかった。種族の壁を超えて、何かが伝わった感覚。
「な、なぁ!オレもやってみたい!」
ガブが立ち上がり、私のいたスイートスポットに立った。
「その歌、教えてくれ!オレも歌う!」
「ええ、いいわよ。真似してみて」
私は彼にメロディを教えようとした。
「最初は低く、静かに……『静寂の海を~』」
「せいじゃくの~うみを~!!」
ビリビリビリッ!洞窟の空気が悲鳴を上げた。ガブの声は大きく、力強く、そして絶望的に音程が外れていた。
「違う違う!もっと優しく!怒鳴らないで!」
「ええっ!?優しくってなんだよ!声はデカいほうが強いだろ!」
「歌は強さ比べじゃないの!心を乗せるのよ」
「心……肉が食いたい心か?」
「違う!」
何度やっても、ガブの歌は「歌」というより「演説」か「威嚇」になってしまう。
「銀の船は行く~!」
と彼が叫ぶたびに、洞窟内にダミ声が反響し、さっきまでの神秘的な雰囲気は木っ端微塵になった。
でも、楽しい。私はお腹を抱えて笑った。
「あはは!ガブ、それじゃ船が沈没しちゃうわよ!」
「うるさい!オレは本気だぞ!」
ガブも顔を赤くして笑っている。外の吹雪なんて、もうどうでもよかった。私たちは歌い、笑い、そして喉が枯れるまで騒いだ。
ふと、ガブが真面目な顔で言った。
「人間の歌は難しいな……。リゼ、やっぱりオレには合わないかも」
「そんなことないわ。練習すれば上手くなるわよ」
「いや、そうじゃなくて」
ガブは少し恥ずかしそうに鼻をこすった。
「オレも、なんか思い出したんだ。オレの母ちゃんが歌ってたやつ」
「えっ、ゴブリンの歌?」
「ああ。リゼの歌とは全然違うけど……聞いてくれるか?」
私は目を輝かせて頷いた。
「もちろん!聞かせて、ガブの歌」
これが、次なる騒動(?)の幕開けになるとは知らず、私は耳を傾けた。異文化交流は、いつだって予想の斜め上を行くものなのだ。




