EP51
149:白い世界
寒さで目が覚めた。『精霊の外套』にくるまっていても、鼻先がツンと痛むほどの冷気が、ここが極寒の地であることを主張している。
「んぅ……」
私が身じろぎすると、隣で丸くなっていたガブも目を覚ましたようだ。
「ふわぁ……。おはよう、リゼ。すっげー寒いな」
「おはよう、ガブ。そうね、冷蔵庫の中みたい」
私たちは身を起こし、周囲を見渡した。昨晩、日没ギリギリで見つけたこの洞窟。森の縁にある岩山にぽっかりと開いた穴は、入り口こそ狭いが、中は意外と奥行きがありそうだった。昨日は暗くて奥まで確認できなかったため、入り口付近で身を寄せ合って眠ったのだ。
「さて、外はどうなっているかしら」
私は強張った体をほぐしながら、洞窟の出口へと向かった。外からは、眩いばかりの光が差し込んでいる。
「うわっ!」
一歩外へ出た瞬間、私は思わず腕で顔を覆った。視界が真っ白に染まったのだ。
「なんだなんだ!?敵か!?」
ガブが私の後ろから飛び出してくるが、彼もすぐに目を細めた。
「目が!目がチカチカする!」
「敵じゃないわ。雪よ」
目が慣れてくると、目の前に広がる光景の全貌が見えてきた。そこは、圧倒的な「白い世界」だった。
昨日の夕暮れ時に見た景色とはまた違う。真上から降り注ぐ太陽の光を、一面の雪原が鏡のように反射している。地面も、遠くの山々も、針葉樹の枝も、すべてが白銀に輝き、青すぎる空とのコントラストが目に痛いほど鮮やかだ。
「すっげー……。世界中が宝石になったみたいだ」
ガブがポカンと口を開けている。
「リゼ、見てみろ。あの木の枝、ガラス細工みたいだぞ」
「霧氷ね。空気中の水分が凍って木に付着したのよ」
美しい。言葉を失うほどに。けれど、この美しさは拒絶の美しさでもある。生命の気配が一切ない、清浄すぎて恐ろしい世界。
「ここが、私たちが暮らす場所……」
私は白い息を吐きながら呟いた。
ドワーフのトンネルを抜け、たどり着いた北の果て。私たちの「冬越え」の舞台だ。
「へへッ、気に入ったぞ!」
ガブが雪原に向かって大きく伸びをした。
「真っ白で、広くて、誰もいない!オレたちの庭だ!」
「庭にしては広すぎるけどね。でも、まずはこの拠点の周りを確認しましょう」
私たちは洞窟を背にして、改めて「白い世界」と向き合った。この眩しさは、希望の光か、それとも私たちを閉じ込める檻の輝きか。それを確かめるための、新しい一日が始まった。
150:足跡ひとつない
洞窟の前に広がる雪原に、私たちは最初の一歩を踏み出した。キュッ、と乾いた音が鳴る。夜の冷え込みで表面がクラスト(凍結)しており、足が沈み込みすぎず、比較的歩きやすい。
「見て、ガブ。足跡がひとつもないわ」
私は杖で雪面を指した。
見渡す限り、獣の足跡も、鳥が降り立った跡すらもない。まるで、世界が今朝生まれたばかりのような、完璧な無垢。風が作り出した雪紋だけが、波のように続いている。
「本当だ。誰も通ってないな」
ガブが鼻をヒクヒクさせる。
「匂いもしない。昨日は『獣の匂いがする』って思った。気のせいだったか?」
「風向きが変わったのかもしれないわね。それに、この寒さじゃ動物たちも穴に籠もっているでしょうし」
足跡がないということは、二つの意味を持つ。一つは、外敵が近くにいないという安全の証明。そしてもう一つは、食料となる獲物も見当たらないという過酷な現実だ。
「水は雪を溶かせばいいけど、食べ物はどうしようか」
私はリュックの中身を思い浮かべた。エルフの里でもらった保存食(干し肉と堅焼きパン)はまだあるが、一冬を越すには心もとない。
「大丈夫だリゼ!オレが狩ってくる!」
ガブが雪玉を作って投げた。
「真っ白だから隠れる場所はないけど、逆に言えば獲物も見つけやすいってことだろ?」
「そうね。頼りにしてるわ」
私たちは洞窟の周囲、半径100メートルほどを探索してみた。洞窟がある岩山は、森と平原のちょうど境界線にある。裏手には針葉樹の森が広がっており、ここなら薪には困らなそうだ。
「おっ、ここの雪、深いぞ!」
森の方へ踏み入ったガブが、ズボッと腰まで埋まった。木々の間は日陰になり、雪が柔らかいまま積もっているのだ。
「うわ、冷たい!ズボンに入ってきた!」
ガブが慌てて這い出す。
「ふふ、気をつけて。濡れたら凍傷になるわよ」
私は振り返り、自分たちがつけてきた足跡を見た。広大なキャンバスに描かれた、たった二筋の線。この広い世界で、動いているのは私たちだけ。
「なんだか、不思議な気分」
孤独感がないと言えば嘘になる。けれど、隣にはガブがいる。足跡が二つ並んでいるだけで、この寂しい景色が「二人の冒険の記録」に見えてくるから不思議だ。
「よし、とりあえず周りに危険な魔物はいないみたいだな」
ガブが雪を払いながら戻ってきた。
「この洞窟、やっぱり最高の物件だぞ。見晴らしはいいし、森も近い」
「ええ。問題は……」
私は洞窟の入り口を見上げた。風が直接吹き込むわけではないが、開放されすぎている。そして何より、私の指先が限界を訴え始めていた。
「寒い……」
探索を終えて立ち止まると、途端に冷気が襲ってくる。動いている間はごまかせていたが、この極寒の地では、体温こそが生命線だ。
「戻りましょう、ガブ。体が冷え切る前に」
私たちは自分たちの足跡を辿って、仮の我が家である洞窟へと急いだ。
151:体温の重要性
洞窟の中に戻っても、寒さはすぐには和らがない。外の風がない分マシだが、岩壁自体が氷のように冷え切っており、冷蔵庫の中にいるのと変わらないのだ。
「うぅ……手が、動かない……」
私は杖を壁に立てかけ、両手をこすり合わせた。指先の感覚がなくなり、白く変色している。『精霊の外套』も、魔力消費を抑えるために発熱機能を弱めていたのが仇になった。
「リゼ、大丈夫か!?」
ガブが私の手を取った。
「うわっ、氷みたいだ!リゼの手、死んでるみたいだぞ!」
「死んでないわよ……ただの冷え性……」
言い返そうとしたが、口もうまく回らない。これはまずい。低体温症の前兆だ。
「火!火を起こさないと!」
ガブがリュックから火打ち石と、さっき森の入り口で拾った小枝を取り出す。しかし、枝は湿気を含んでいて、なかなか火がつかない。
「くそっ、つかない!」
ガブが焦って火花を散らす。
「ガブ……待って。それじゃ間に合わない……」
私はガタガタと震えながら、彼を呼び止めた。
「温めて……」
「え?」
「あなたの体温を……分けて」
私はプライドも遠慮もかなぐり捨てた。今は生存本能が優先だ。ガブは一瞬キョトンとしたが、すぐに状況を理解し、真剣な顔で頷いた。
「わかった!来い!」
ガブは床(岩場)に座り込み、マントを広げた。私はそこに潜り込み、彼の胸に背中を預けるようにして座った。そして、二人を包むように『精霊の外套』を上から被る。
密閉された空間。そこには、驚くべき熱源があった。
「あったかい」
ガブの体温は高かった。人間よりも平均体温が高いのだろうか。まるで小さな暖炉を背負っているようだ。彼の硬い胸板から伝わる熱が、私の凍えた背中をじんわりと解かしていく。
「リゼ、冷たいな。よしよし、温まれー」
ガブが私の両手を、彼自身の大きく温かい手で包み込んでくれる。ゴツゴツとした、タコだらけの手。けれど、今はどんな高級な手袋よりも頼もしい。
「ありがとう、ガブ」
震えが少しずつ収まっていく。心臓の音が聞こえる。私の速い鼓動と、ガブの力強くゆっくりとした鼓動。二つの命が、この白い世界で寄り添っている。
「へへ、オレって意外と役に立つだろ?」
背後でガブが得意げに言う気配がした。
「リゼは頭がいいけど、体はひ弱だからな。オレが暖めてやる」
「ふふ、そうね。最高の湯たんぽだわ」
「ゆたんぽ?なんだそれ、強そうな武器か?」
軽口を叩けるくらいには回復した。しかし、これで問題が解決したわけではない。今はガブの体温で助かったが、一冬ずっとこうしているわけにはいかないのだ。
「ガブ、私たちには『家』が必要ね」
私は彼の温もりを感じながら言った。
「家?ここが家だろ?」
「ええ。でも、ただの穴じゃダメ。ちゃんと寒さを防いで、火を焚けるように改造しないと」
私は外套の隙間から、洞窟の奥の暗闇を見つめた。この洞窟はまだ「物件」としては未完成だ。
「もっと奥はどうなっているのかしら。風が通り抜けない部屋があるかもしれない」
「そうだな。さっきは入り口しか見なかったけど、奥からなんか匂いがするし」
「匂い?」「ああ。なんかこう……獣臭いような、甘いような……」
私は少し不安になったが、ガブの体温に守られている今、その不安はすぐに溶けていった。まずは体を完全に温めること。そして次は、この洞窟を本当の意味での「理想の物件」にするための探索だ。
私たちはしばらくの間、言葉もなく抱き合っていた。外では風が吹き始め、白い粉雪が舞っている。本格的な冬は、すぐそこまで来ていた。




