EP49
144:逃走経路確保
「風の精霊よ、私の足を運んで!」
私は『精霊の外套』を翻し、風魔法で自身の身体を軽くして駆け出した。
目指すは、頭上5メートルほどの位置にある岩壁の亀裂。人工的な通気口か、古い排水路の跡だろう。あそこなら、巨体の怪物は入ってこられない。
しかし私が動いた風切り音に、洞窟竜が反応した。鼻孔をピクつかせ、ガブへの追撃を止めて、急に首をこちらへ捻ったのだ。
「しまった、風の音に反応した!?」
怪物は賢い。単純な音よりも、魔力の波動や風圧を「獲物の動き」として優先して認識したのだ。
バシュッ!!丸太のような太い尾が、私の進路上の岩壁を粉砕した。崩れ落ちる岩。足場がなくなる。
「きゃぁっ!」
私はバランスを崩し、湖面へと滑り落ちそうになった。下の水面には、溶解液が混じった波が渦巻いている。落ちればただでは済まない。
「リゼッ!!」
遠くにいたはずのガブが、信じられない速さで戻ってきていた。彼は私の襟首を掴むと、渾身の力で岩場へ引きずり上げた。
「バカ!なんで戻ってきたのよ!」
「相棒を見捨てるか!オレにつかまれ!」
ガブは私を背負うと、垂直に近い岩壁を、爪と足裏のグリップ力だけで駆け上がり始めた。まるでヤモリのような身軽さだ。
「グググゥゥッ!」
洞窟竜が迫る。その巨大な口が、ガブの足元――私のすぐ下まで迫っていた。生臭い息と、何層にも重なった鋭い歯が目の前に迫る。
「食わせてたまるかぁッ!」
ガブが壁を蹴り、さらに一段高く跳躍した。
ガチンッ!!怪物の顎が閉じる音が、すぐ背後で響いた。間一髪。私たちは横穴の縁に手をかけ、転がり込むように中へ入った。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
横穴の中は狭く、大人が屈んでやっと通れるほどの高さしかなかった。冷たく乾いた風が吹いている。
直後、ドオォォン!という衝撃音が響き、地面が激しく揺れた。入れなかった洞窟竜が、苛立ち紛れに頭突きをしたのだ。
「入って……こられないわね」
私は震える声で確認した。入り口から覗く怪物の鼻先は、どう頑張ってもこの狭い穴には通らない。
「へっ、ざまぁみろ!」
ガブが息を切らしながら、入り口に向かって舌を出した。
「オレたちは逃げ切ったぞ!お前なんか、そこで泥水でも啜ってろ!」
とりあえずの安全は確保できた。この横穴は奥へと続いている。風が流れているということは、どこか別の空間――おそらく正規ルートの先へと繋がっているはずだ。
「ありがとう、ガブ。また助けられちゃった」
「お互い様だろ。リゼが風を使って軽くしてくれたから、壁を登れたんだ」
ガブは笑って見せたが、その頬には岩で擦ったような切り傷があり、緑色の血が滲んでいた。私はすぐにハンカチを取り出し、傷口を押さえた。
「手当するわ。じっとしてて」
水魔法で傷を洗い、エルフの里でもらった薬草軟膏を塗る。
「いてて……染みるなぁ」
「我慢なさい。男の子でしょ」
私たちは狭い通路の奥で、小さく身を寄せ合った。外からはまだ、怪物が壁を叩く音と、不気味な唸り声が聞こえてくる。だが、ここまでは届かない。私たちは安堵のため息をつき、奥へと進み始めた。これが、さらなる悪夢の入り口だとも知らずに。
145:崩落
横穴――どうやら古代ドワーフが掘った換気用の坑道らしい――を、私たちは匍匐前進に近い姿勢で進んでいた。光魔法の明かりを頼りに、埃っぽい闇の中を進む。
ズドォォン……。ズズズ……。
背後から、断続的に地響きが伝わってくる。諦めの悪い洞窟竜が、まだ壁に体当たりを繰り返しているのだ。
「しつこい野郎だな。頭、痛くならないのか?」
ガブが振り返り、悪態をつく。しかし、私は別のことに不安を抱いていた。
「ガブ、急ぎましょう。この坑道、古いわ」
天井を見上げる。岩盤には無数の亀裂が走り、木の支柱は腐り落ちている。ただでさえ脆い構造なのに、あの怪物が外から衝撃を与え続けているのだ。
「崩れるってことか?」
「ええ。振動が共鳴してる。早く広い場所に出ないと……」
パラパラと、砂が落ちてきた。私の言葉を裏付けるように、頭上の亀裂がミシミシと音を立てて広がり始めた。
「走るぞ!」
ガブが私の手を引き、速度を上げる。狭い通路を、中腰で駆け抜ける。
ドォォォォォン!!!今までで一番大きな衝撃が襲った。世界が傾いたかと思うほどの揺れ。怪物が、坑道の入り口付近の岩盤を破壊したのだ。
「きゃあッ!」
私は足を取られて転倒した。
「リゼ!」
その瞬間、私たちの頭上で「パキッ」という乾いた音が響いた。岩盤を支えていた要石が砕けた音だ。
「まずい!」
ガブが私に覆いかぶさろうとした。しかし、崩落は私たちの「間」で起こった。
ガラガラガラッ!!天井が抜け、大量の土砂と巨大な岩塊が、私とガブの間に落下してきたのだ。猛烈な砂煙。視界が遮られ、轟音で耳が聞こえなくなる。
「ガブッ!!」
私は叫んだ。手を伸ばしたが、指先が触れたのは冷たい岩肌だけだった。
数秒、あるいは数分。永遠にも感じる時間の後、揺れが収まった。私の周りは真っ暗だった。光魔法の集中が切れ、明かりが消えていたのだ。咳き込みながら杖を握りしめ、再び光を灯す。
「ごほっ、ごほっ……」
狭い空間。私の目の前――進行方向は、完全に土砂で塞がれていた。そして背後も、先ほどの衝撃で崩れているようだ。私は長さ3メートルほどの、密閉された空間に閉じ込められてしまった。
「ガブ!ガブ、聞こえる!?」
私は土砂の壁に取り付き、叫んだ。嫌な汗が背中を伝う。もし彼が、この岩の下敷きになっていたら。もし、押しつぶされていたら。
最悪の想像が頭をよぎり、呼吸が浅くなる。閉所恐怖と孤独感が、黒い泥のように押し寄せてくる。
「……ゼ……!」
微かに、声が聞こえた気がした。
「ガブ!?ガブなの!?」
私は壁に耳を押し当てた。
「リゼ!無事か!?」
くぐもっているが、確かにガブの声だ!岩の隙間を通して、声が届いている。
「無事よ!怪我はないわ!あなたは!?」
「オレも平気だ!ちょっと尻尾が挟まりかけたけどな!」
いつもの軽口。私は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。生きてる。彼も無事だ。
「よかった……本当によかった……」
涙が滲む。しかし、状況は最悪だ。私たちは巨大な岩壁によって、完全に分断されてしまった。
「そっちはどうなってる?」
ガブの声が問いかけてくる。
「行き止まりよ。前も後ろも塞がれてる」
「こっちもだ。参ったな。掘り進むには、岩がデカすぎる」
私の魔法で岩を砕くことはできるかもしれない。だが、この脆い地盤で爆発を起こせば、二次崩落(余震によるさらなる崩壊)を招き、今度こそ生き埋めになるだろう。
「どうしよう、ガブ」
不安が口をついて出る。暗闇の中で一人。相棒は近くにいるのに、触れることができない。
「大丈夫だ、リゼ」
壁の向こうから、ガブが壁をコンコンと叩く音がした。
「オレたちは生きてる。声も聞こえる。離れてても、オレたちはずっと相棒だ」
その力強い音に、私は励まされた。そうだ。泣いている場合じゃない。
「ええ、そうね。出口を探しましょう」
私は涙を拭い、立ち上がった。瓦礫の向こう側にいる彼と、再び合流するために。
146:瓦礫の向こう側
崩落現場で分断された私たち。岩壁越しに会話をすることで、冷静さを取り戻そうとしていた。
「リゼ、そっちの空気はどうだ?」
ガブが聞いてきた。
「空気?少し埃っぽいけど、息苦しくはないわ。風の流れも止まっているけど」
「こっちはな、なんかスースーするんだ」
ガブの声が弾んでいる。
「崩れた天井の隙間から、冷たい風が入ってきてる。匂いがするぞ」
「何の匂い?」
「雪だ。それと、鉄の匂い」
雪と鉄。それはつまり、外の世界――あるいはドワーフの居住区に近いということか?
「ガブ、そっちに抜け道があるの?」
「ああ、天井の方に穴が開いてる。狭いけど、オレなら登れそうだ。リゼの方は?」
私は周囲を見渡した。私のいる空間は完全に閉ざされているように見えた。だが、足元に違和感があった。崩れてきた土砂の中に、人工的な金属板が混じっていたのだ。
「待って。何かあるわ」
私は杖の光を足元に向け、土を払いのけた。そこにあったのは、錆びついたマンホールのような鉄の蓋だった。
「床に、鉄の蓋があるわ。メンテナンス用のハッチかもしれない」
「おっ!そこに入れるか?」
私は取っ手に手をかけ、渾身の力で引っ張った。ギギギ……と嫌な音がしたが、動かない。錆びついて固着している。
「くっ……開かない!」
魔法で吹き飛ばすのは危険だ。どうすれば……。
その時、私はエルフの里で学んだことを思い出した。『精霊は万物に宿る。鉄にも、錆にも』。私は目を閉じ、鉄の蓋に触れた。
「土の精霊さん、金属の精霊さん……お願い。長年の眠りを解いて」
魔力を注ぎ込む。すると、錆がボロボロと剥がれ落ち、蝶番の隙間にミクロ単位の振動が生まれた。私はもう一度、取っ手を引いた。
ガコンッ。重い音と共に、蓋が開いた。
「開いたわ!下に行ける!」
中を覗き込むと、梯子が下へと続いていた。そして、そこからは微かに風が吹き上げている。
「やったなリゼ!さすがだ!」
ガブの声が遠くから聞こえる。彼も登り始めているようだ。
「ガブ、私はこの下へ行ってみる。あなたは上の穴へ進んで」
「おう!どっかで繋がってるはずだ!『鼻』を頼りに合流するぞ!」
「ええ。絶対に生きて会うのよ」
「当たり前だろ!オレはまだコウモリしか食ってない!ドワーフの旨いもん食うまでは死ねない!」
その減らず口に、私は笑みをこぼした。もう恐怖はない。私たちは別々のルートを進むが、目指す場所は同じだ。
私は梯子に足をかけ、暗闇の底へと降りていった。梯子は長く、降りるたびに錆びた鉄粉が舞う。10メートルほど降りたところで、平らな通路に出た。
そこは、先ほどの坑道よりも広く、整備された通路だった。壁にはパイプが走り、床は金属製のグレーチング(格子)になっている。明らかに、ドワーフの技術で作られたエリアだ。
『緊急排気路・第三区画』壁に残されたプレートの文字を読み取る。どうやら私は、トンネルの深部にあるメンテナンスエリアに入り込んだらしい。
一方、ガブはどうしているだろうか。瓦礫の向こう側、遥か頭上を進んでいるはずだ。
私は通路を歩き出した。カツン、カツンと足音が響く。先へ進むにつれ、空気がさらに冷たくなっていく。そして、前方に微かな光が見えてきた。
松明の光ではない。魔法の光でもない。青白く、澄んだ自然の光。
「出口?」
私は駆け出した。光の源へと近づくにつれ、風の音が強くなる。そして、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「おーい!リゼーーッ!!」
見上げると、通路の天井部分が吹き抜けになっており、その上の岩棚からガブが顔を出して手を振っていた。
「ガブ!」
「やっぱり繋がってたな!オレの鼻は最強だろ!」
ガブは岩棚から飛び降り、私の目の前に着地した。煤だらけの顔で、ニカっと笑う。
「もう……心配させないでよ」
私は駆け寄り、彼を強く抱きしめた。硬い『鉄木の胸当て』の感触と、埃っぽい匂い。でも、それが今は何よりも愛おしかった。
「へへ、再会を祝してハグだな」
ガブも私の背中をポンポンと叩く。
再会した私たちは、通路の先にある光の方へと目を向けた。そこには、巨大な鉄格子の隙間から、眩いばかりの光が差し込んでいた。
「行こう、リゼ。あそこが『光の出口』だ」
「ええ。長い長い暗闇も、これでおしまいね」
私たちは手を取り合い、光の中へと歩み出した。その先に広がる景色を、まだ誰も知らない。




