EP48
141:暗闇の行軍
背後で重厚な扉が完全に閉ざされると、そこは真の闇だった。地上の夜とは違う。月も星もない、質量を持った黒い虚無が、物理的な重圧となってのしかかってくるようだ。
「すごい圧迫感ね」
私は無意識に自分の肩を抱いた。『精霊の外套』が微かに発光し、温もりを与えてくれるが、それでも肌が粟立つのを感じる。
「そうか?オレはなんか、落ち着くけどな」
ガブの声が、暗闇の中から響いた。彼のゴブリンとしての本能なのだろう。洞窟は彼らにとって、母なる胎内のようなものなのかもしれない。
「リゼ、明かり。足元が見えないと、さすがに走れない」
「ええ、わかってるわ」
私は杖を掲げ、意識を集中させた。
(光の精霊さん、お願い。私たちの道標になって)
杖の先端に埋め込まれた魔石が、ボウッと柔らかな白い光を放つ。光の球体は私の頭上にふわりと浮かび、半径5メートルほどを照らし出した。
浮かび上がったのは、かつての文明の残骸だ。床には錆びついた2本の鉄のレールが無限に続き、壁には等間隔にガス灯らしき器具が設置されているが、もちろん火は消えている。天井は高く、石材が見事に組み合わされており、ドワーフの建築技術の高さが窺える。
「すっげー……これ、ずっと奥まで続いてんのか?」
ガブがレールの先、光の届かない闇を見つめる。
「地図によれば、山脈を完全に横断しているわ。歩いて数日はかかる距離よ」
「数日かぁ。太陽が見れないのはちょっと寂しいな」
ガブは言いながらも、先頭に立って歩き出した。彼の新しい装備、『鉄木の胸当て』は金属音がしない。カツ、カツという足音だけが、静寂の中に反響して吸い込まれていく。
私たちはレールに沿って進んだ。空気は乾燥しており、カビと鉄錆、そして微かに硫黄の匂いが混じっている。時折、天井から水滴が落ちてくる音が、ピチャリ……と響く。そのたびに私はビクリと肩を震わせた。
「リゼ、大丈夫か?」
ガブが振り返る。
「顔色が悪いぞ。もしかして、怖いのけ?」
「こ、怖くなんてないわよ。ただ、閉鎖空間に慣れてないだけ」
私は強がって見せたが、実際、神経は張り詰めていた。いつどこから魔物が現れるかわからない。崩落の危険もある。
「危ないっ!」
突然、ガブが私の腕を引いた。
「きゃっ!?」
私はバランスを崩し、ガブの胸に倒れ込んだ。私の足元、ほんの数センチ先。床の石畳が抜け落ち、ぽっかりと黒い穴が開いていたのだ。
ヒュオオオ……。穴の底から、冷たい風が吹き上げている。石ころを蹴り入れてみたが、落ちる音が聞こえない。底なしだ。
「危なかった」
私は冷や汗を拭った。もしガブがいなかったら、今頃私は奈落の底だった。
「リゼ、オレの後ろを歩け」
ガブの声色が、いつになく真剣だった。
「ここの床、腐ってるところがある。オレが匂いと音で判断するから、オレの足跡の上を歩くんだ」
「匂いで床の強度がわかるの?」
「なんとなくな。『嫌な匂い』がする場所は危ないんだ。それに、風の音も違う」
頼もしい。地上では私が知識で彼を導いていたが、この地下世界では完全に立場が逆転していた。彼はこの暗闇の王者だ。
「わかったわ。頼りにしてる、相棒」
私は彼の背中の、鉄木鎧の年輪模様を見つめながら歩いた。
それから数時間。私たちは黙々と歩き続けた。時間の感覚が狂い始める。今が昼なのか夜なのかもわからない。ただひたすらに、レールの続く先へ。
「腹減った」
ガブの唐突な一言が、緊張感を破った。グゥゥゥ、と彼の腹が盛大に鳴る音が、トンネル内にこだました。
「ふふっ、すごい音ね」
私もつられて笑ってしまった。
「そうね。少し休憩にしましょうか」
私たちは比較的安全そうな、開けた空間を見つけて荷物を下ろした。暗闇の行軍は、神経を削る。休息と食事は、命綱だ。
142:コウモリのシチュー
休憩地点は、かつての資材置き場のような場所だった。朽ちた木箱や、錆びたツルハシが転がっている。
「飯だ、飯だー!」
ガブが嬉しそうにリュックを開ける。エルフの里でもらった保存食がある。干し肉に、木の実を固めたビスケット。どれも栄養価は高いが、正直、飽きが来ていた。
「あーあ。温かい肉が食いたいなぁ」
ガブが乾いたビスケットを齧りながらぼやく。
「肉汁がジュワッて出るやつ。エルフの飯は上品すぎて、腹にたまらねぇ」
「贅沢言わないの。火を起こすのも危ない場所かもしれないし……」
その時だった。キィキィキィ!頭上から、耳障りな金切り声が降ってきた。
「敵襲!」
ガブが瞬時にビスケットを放り投げ、腰のナイフを抜く。闇の中からバサバサと羽音を立てて現れたのは、猫ほどの大きさもある巨大なコウモリの群れだった。『吸血大コウモリ(ヴァンパイア・バット)』だ。
「リゼ、光を消せ!集まってくるぞ!」
「えっ、でも!」
「いいから!」
私は慌てて魔法を解除した。再び訪れる漆黒の闇。しかし、その中でガブが動く気配がした。
「そこだッ!」
ドスッ。ギャッ!
「こっちもだ!」
ドカッ。グチャッ。
暗闇の中で、正確無比な打撃音が響く。ガブは夜目が効くだけでなく、音の反響で敵の位置を把握しているのだ。数分後。羽音が消え、静寂が戻った。
「もういいぞ、リゼ」
ガブの声に従い、私は再び光を灯した。床には、5匹の巨大コウモリが転がっていた。
「うわぁ……気持ち悪い……」
鋭い牙と、皮膜の翼。見るからに凶悪な魔物だ。しかし、ガブの目は違った。彼は涎を拭いながら、コウモリを持ち上げたのだ。
「へへッ、上等な肉が手に入ったぞ!」
「は?」
「これ、食おう!焼くより煮込んだ方が柔らかくなるかな?」
ガブが目を輝かせている。
「待って待って!正気!?コウモリよ!?魔物よ!?」
私は全力で拒否した。
「病気とか大丈夫なの?それに吸血って……血を吸ってるのよ?」
「火を通せば大丈夫だ!それに、こいつらは果物も食う種類だ。見てみろ、丸々太ってる」
ガブは手際よくナイフを入れ、解体を始めてしまった。皮を剥ぎ、内臓を取り除く手つきは、恐ろしいほど熟練している。
「オレがいた洞窟じゃ、コウモリはご馳走だったんだ。栄養満点だぞ」
ガブは携帯用の小鍋を取り出し、水魔法で出した水を入れた。そこへ、一口大に切ったコウモリ肉を投入する。
「うう……嘘でしょ……」
私は顔を覆った。貴族令嬢として育った私が、まさかコウモリを食べることになるなんて。
ガブはさらに、リュックから乾燥ハーブ(エルフの里でもらった薬草)と、塩を取り出して鍋に入れた。そして、私の魔法で小さな火を起こし、煮込み始めた。
グツグツ……。意外なことに、漂ってきた匂いは悪くなかった。肉の脂が溶け出し、ハーブの香りと混ざり合って、食欲をそそる香ばしい匂いへと変わっていく。
「できたぞ、リゼ。毒見はオレがした。旨いぞ!」
ガブがシェラカップに注いで渡してくる。スープの色は少し濁っているが、見た目は鶏肉のシチューと変わらない。
私は覚悟を決めた。これも冒険だ。郷に入っては郷に従え。恐る恐る、スプーンで一口啜る。
「!」
目を見開いた。
「どうだ?」
「悔しいけど、美味しい」
肉は弾力があるが、噛むと濃厚な旨味が溢れ出した。臭みはハーブが消してくれていて、むしろ野性味のあるジビエ料理のようだ。冷えた体に、温かいスープが染み渡る。
「だろー?オレ様の特製『コウモリシチュー』だ!」
ガブが得意げに胸を張る。
「あなた、意外と料理上手なのね」
「生きるためには何でも食う。それがゴブリン流だ!」
私たちは鍋を囲み、ハフハフとシチューを平らげた。グロテスクな見た目の魔物も、調理次第で命の糧になる。私の常識の殻が、また一つ破られた気がした。
満腹になると、恐怖心も薄れていた。
「ごちそうさまでした。ありがとう、ガブ」
「おう!食ったら寝る!少し仮眠しよう」
ガブはすぐさま丸くなり、寝息を立て始めた。私はその寝顔を見ながら、この頼もしい(そしてゲテモノ食いの)相棒に感謝しつつ、壁に寄りかかって目を閉じた。
143:地下湖の怪物
仮眠の後、私たちは再び歩き出した。コウモリシチューのおかげで体力は回復していたが、トンネルの空気は徐々に変化し始めていた。
湿度が上がっている。乾燥していた空気が、じっとりと肌にまとわりつくような湿気を帯びてきたのだ。そして、前方から微かに「音」が聞こえてくる。
ザザ……ザザ……。水の音だ。それも、小川のようなせせらぎではない。大きな水面が揺れるような音。
「リゼ、明かりを弱めて。何か広い場所に出る」
ガブが警戒を促す。私は光量を落とし、慎重に進んだ。
トンネルの出口が見え、視界が一気に開けた。そこは、巨大な地下空洞だった。天井は見えないほど高く、壁面には青白く発光する苔がびっしりと生えているため、魔法なしでも薄ぼんやりと明るい。
そして、私たちの眼下に広がっていたのは、広大な『地下湖』だった。黒く静まり返った水面が、苔の光を反射して幻想的に輝いている。レールは水没しており、対岸へ渡るには、湖の縁に沿って作られた細い岩場を歩くしかなさそうだ。
「地図に書いてあった『主あり』って場所、ここね」
私は地図を確認した。ドワーフたちは、この湖を避けるようにトンネルを掘ったようだが、崩落か増水で本来のルートが塞がれているのかもしれない。
「綺麗だけど……なんか嫌な感じがする」
ガブが耳を伏せ、水面を睨んでいる。
「水の中、すごく深いぞ。底が見えない」
「静かに渡りましょう。刺激しないように」
私たちは足音を忍ばせ、湖畔の岩場を進んだ。水面は鏡のように静かだ。時折、ポチャンと水滴が落ちる波紋だけが広がる。
岩場の半分ほどまで来た時だった。私の『真実の眼』が、水面下に巨大な熱源を捉えた。
「ガブ!止まって!」
私が叫んだ瞬間。
ドッバァアアアン!!水柱が高く上がった。大量の水飛沫と共に、湖の中から「それ」が姿を現した。
白い。全身が白骨のように白く、ぬめるような皮膚に覆われた、巨大な両生類。『盲目の洞窟竜』――いや、巨大サンショウウオの亜種か。体長は10メートルを超えている。目は退化して皮膚の下に埋もれているが、鼻孔が激しく開閉し、私たちの匂いを嗅ぎ取っている。
「グルルルルゥゥ……ッ!!」
怪物が大きく口を開けた。その口内には、鋭い歯がびっしりと並んでいる。
「デ、デカいッ!」
ガブが身構える。
バシュッ!怪物が長い尾を振るった。岩場が粉砕され、石礫が飛んでくる。
「くっ!『風の盾』!」
私は咄嗟に防御魔法を展開したが、衝撃で数メートル後ろへ飛ばされた。
「リゼ!」
ガブが私の前に立ちふさがる。
「こいつ、目がない!音と匂いで襲ってくるぞ!」
ガブが叫んだ。怪物は巨体を揺らし、陸地へと這い上がろうとしてくる。その動きは水中ほど速くはないが、圧倒的な質量だ。
「戦うの?ここで?」
私は杖を構えたが、冷や汗が止まらなかった。足場は狭く、背後は壁。逃げ場がない。水魔法は効きにくいだろうし、火魔法を使えば酸欠になる恐れがある。
「無理だ!硬すぎる!」
ガブが試しに投げた石が、怪物の皮膚に当たってカンッと弾かれた。粘液で覆われた皮膚は、物理攻撃を滑らせて無効化してしまうのだ。
「グルァアアッ!」
怪物が吠え、粘着性の溶解液を吐き出してきた。ジュワッ!液がかかった岩が、音を立てて溶けていく。
「逃げるわよ、ガブ!勝てない!」
「どっちにだ!?来た道は塞がれたぞ!」
怪物は私たちが来たトンネルの入り口付近に陣取ってしまった。前進するしかないが、前方の岩場は怪物の尾の一撃で崩れかけている。
絶体絶命。暗闇の行軍の果てに待っていたのは、静寂なる死の湖だった。
「あそこだ!リゼ、あそこの横穴!」
ガブが指差したのは、少し高い位置にある小さな亀裂だった。通気口か、あるいは排水路か。
「あそこまで走れる?」
「やるしかない!オレが囮になる!」
ガブが胸当てを叩き、あえて大きな音を立てた。
「やーい!デカブツ!こっちだ!」
怪物の巨大な頭が、ガブの方へ向く。その隙に、私たちは死に物狂いで駆け出した。逃走経路を確保するために。




