EP45
132:復讐心はない
白み始めた空の下、私は小川で顔を洗った。冷たい水が、寝不足の頭をシャキッと引き締める。水面に映る自分の顔は、少し目が腫れていた。ガブの過去を聞いて泣いたせいだ。
「よし」
私は頬をパンと叩き、気合を入れた。今日は重要な日だ。ファレル隊長と共に『東の森』の異変を調査し、安全が確認できれば、そのままエルフの里を発つことになる。
広場に戻ると、ガブがすでに準備体操をしていた。
「いち、に!さん、し!」
短い手足を精一杯伸ばし、屈伸運動をしている。その姿に、昨夜の弱々しさは微塵もない。
「おはようガブ。調子はどう?」
「おう、リゼ!バッチリだ!昨日の酒は凄かったけど、今は力がみなぎってるぞ!」
ガブはニカっと笑い、その場でバク宙を決めた。見事な着地。けれど、私の目は自然と彼の左耳――先端が欠けた耳へと向いてしまう。
「ねえ、ガブ」
私は荷物をまとめながら、どうしても確認しておきたいことを口にした。
「昨日の話の続きだけど……本当に、その『ボス』を許せるの?」
ガブが動きを止めた。
「ん?」
「私なら無理よ。もし私を虐げた父や、アカデミーの教師たちが目の前に現れたら……きっと許せない。見返してやりたい、あわよくばギャフンと言わせたいって思うわ」
それは正直な気持ちだった。貴族社会を追放された私の原動力の一部は、間違いなく彼らへの反骨心だ。「ざまあみろ」と言ってやりたいという暗い情熱だ。
ガブは首を傾げ、少し困ったような顔をした。
「うーん……オレも昔はそう思ってたかも。いつか強くなって、ボスをぶっ飛ばしてやるって」
「今は違うの?」
「違う」
ガブはきっぱりと言った。
「だって、オレがボスを殴ったら、オレもボスと同じになる」
「え?」
「『気に入らないやつを力でねじ伏せる』。それがゴブリンのやり方。オレが復讐のために力を使ったら、オレは結局、あの洞窟のゴブリンたちと変わらない」
私はハッとした。ガブは棍棒をポンと叩いた。
「オレは、違う王様になりたいんだ。花を踏み潰す王様じゃなくて、花を見つけて『きれいだな』って笑える王様に。だから、復讐心はいらない。そんな重いもん持ってたら、空高く飛べない!」
ガブはあっけらかんと笑った。その言葉は、どんな高潔な騎士の誓いよりも、私の胸に深く突き刺さった。
彼は「諦め」で復讐を捨てたのではない。「矜持」として捨てたのだ。自分のなりたい自分であるために。
「完敗ね」
私は小さく呟いた。人間である私の方が、よほど過去に囚われ、ドロドロとした感情を引きずっている。この小さなゴブリンの魂は、私よりもずっと気高く、自由だ。
「おーい!そろそろ出発だぞ!」
ファレル隊長の声が響いた。彼は数名の部下を引き連れ、弓を背負ってこちらへ歩いてきた。
「準備はいいか?東の森、『迷いの森』深部の調査だ。精霊たちの怯えの原因を突き止め、排除する。それがお前たちの、エルフの里での最後の任務となる」
「はい、隊長!」
ガブがビシッと敬礼した。
「いつでもいけるぞ!オレたち最強コンビだからな!」
私も杖を構え、ファレルに向き直った。
「準備完了です。行きましょう」
心なしか、杖の魔石がいつもより明るく輝いている気がした。ガブの言葉で、私の迷いも少し晴れたのかもしれない。復讐のためではなく、未来のために戦う。そう決意を新たにして、私たちは朝霧の立ち込める東の森へと足を踏み入れた。
133:今が全て
エルフの里の東側に広がる森は、里の中心部とは打って変わって鬱蒼としていた。樹齢数百年を超える巨木が立ち並び、枝葉が空を覆い尽くしているため、昼間でも薄暗い。
「空気が重いな」
ファレル隊長が足を止め、周囲を警戒する。
「世界樹の浄化は成功したが、この辺りは地下迷宮からの『瘴気』の吹き溜まりになっていた場所だ。悪い残滓が残っている可能性がある」
私の『真実の眼』にも、それははっきりと見えていた。森の色彩が濁っている。本来なら緑や金色の光を放つ精霊たちが、ここでは灰色にくすみ、物陰に隠れて震えているのだ。
「誰か来る!」
ガブが鼻をひくつかせ、姿勢を低くした。
ズズズッ。地面から、黒い泥のようなものが染み出し、それが実体を持って立ち上がった。形は不定形だが、強いて言うなら「苦痛に歪む顔」の集合体に見える。
「『怨嗟の泥』か!」
ファレルが叫び、矢をつがえる。
「過去に森で死んだ者たちの無念や、地下の魔物たちの負の感情が実体化したものだ!物理攻撃は効きにくいぞ!」
泥の怪物が、不快な音を立てて私たちに迫ってくる。その虚ろな目(のような穴)を見ていると、頭の中に嫌な声が響いてきた。
――お前は無力だ。――誰にも愛されない。――どうせまた失敗する。
「っ!」
私は頭を押さえた。精神攻撃だ。私の心の奥底にある劣等感やトラウマを、無理やり引きずり出そうとしてくる。父の冷たい視線。姉たちの嘲笑。足がすくむ。杖を持つ手が震える。
「リゼット!心を強く持て!飲まれるな!」
ファレルの声が遠くに聞こえる。わかっている。でも、黒い感情が足元から這い上がってきて、体を縛り付けるようで――。
「うらぁあああッ!!」
突然、目の前で緑色の閃光が走った。ガブだ。彼は私の前に飛び出し、泥の怪物に向かって真っ向から飛び蹴りを食らわせたのだ。
ドゴォッ!物理攻撃は効きにくいと言われた泥が、ガブの一撃で大きく弾け飛んだ。
「へっ!なんだお前、ジメジメしたこと言うな!」
ガブが着地し、鼻の下をこする。怪物から放たれる精神攻撃の波を、彼は全く意に介していない。
「ガブ……平気なの?」
「なんかブツブツ言ってるけど、うるさいだけ!」
ガブは落ちていた太い枝を拾い、ブンブンと振り回した。
「『昔はよかった』とか『あの時こうしてれば』とか、知るか!オレは今、腹が減ってる!今、リゼとかっこいい冒険をしてる!それだけ!」
彼の言葉と共に、泥の怪物が怯んだように見えた。過去への執着の塊である怪物は、「今」を全力で生きるガブの輝きが苦手なのだ。
――今が全て。昨夜、彼が言ったことの証明だ。過去の傷も、未来への不安も、今の彼を縛ることはできない。
「リゼ!ぼーっとするな!あいつ、光が嫌いみたいだ!」
ガブの声で、私は我に返った。
そうだ。私は何をしているんだ。相棒がこんなに頑張っているのに、過去の亡霊に怯えている場合じゃない。
「ありがとう、ガブ」
私は杖を高く掲げた。震えはもう止まっている。イメージするのは、あの祭りの夜の温かい光。ガブの笑顔。
「光の精霊たち、集まって!今、この瞬間を照らして!」
私の呼びかけに応え、森中に隠れていた精霊たちが一斉に飛び出した。カッ!杖の先から眩い光が放たれ、薄暗い森を真昼のように照らし出す。
「ギャァアアア!」
泥の怪物が断末魔を上げ、光に焼かれて蒸発していく。ファレルたちの放った矢も光を帯び、残った泥を次々と貫いていった。
数分後。森には静寂が戻っていた。だが、先ほどまでの重苦しい空気はない。木漏れ日が差し込み、鳥のさえずりが聞こえ始めていた。
134:リゼの涙
怪物が消滅した跡地には、黒い染みが残っていたが、それも急速に薄れつつあった。そして、その染みの中心に、一輪の小さな花が咲いているのを私は見つけた。
青い、可憐な花。ガブが昔、洞窟で見つけて大切にしていたという花に似ている気がした。
「あ、花だ」
ガブも気づいて駆け寄った。彼は泥だらけの手で、花に触れないように周りの土を優しく整えた。
「無事だったか。よかったな、お前」
ガブが花に話しかける。その横顔を見て、私は胸がいっぱいになった。
さっきの戦闘。彼は「物理攻撃が効かない」相手に対し、ただの「元気」と「肯定」だけで打ち勝った。彼の魂の純粋さが、呪いを弾き飛ばしたのだ。
もし私が一人だったら、あの泥に飲み込まれていただろう。私の心には、まだ過去へのわだかまりが残っているから。でも、ガブがいてくれた。彼が「今」へ引き戻してくれた。
「うッ、うう……」
突然、涙が溢れて止まらなくなった。悲しいわけではない。怖いわけでもない。ただ、自分の未熟さが情けなく、そしてガブの強さが眩しくて、心が震えているのだ。浄化された森の空気が、私の心の澱も洗い流していくようだった。
「えっ、リゼ!?」
ガブが驚いて振り返る。
「ど、どうした!?怪我したか!?さっきの泥、目に入ったか!?」
彼は慌てふためき、私の周りをオロオロと回った。
「違うの……うぅ……ごめんね……」
私は涙を拭いながら首を横に振った。
「ガブが、すごすぎて……私、自分が恥ずかしくて……でも、嬉しくて……」
言葉にならない。ぐちゃぐちゃな感情が、涙となって溢れ出る。
「よくわかんないけど、泣くなよ」
ガブが困り顔で、私の顔を覗き込む。
「リゼが泣くと、オレも悲しくなるぞ。ほら、変な顔になってる」
「うっさいわね……変な顔で悪かったわね……」
私は泣き笑いのような顔で言い返した。
ファレル隊長が、静かに歩み寄ってきた。
「良い浄化だった」
彼は私の肩に手を置いた。
「リゼット、お前の涙は、心の毒素が出ている証拠だ。精霊魔法を使う者は、心が澄んでいなければならない。今日の戦いで、お前はまた一つ、強くなった」
「隊長……」
「東の森の異変は、これで収まるだろう。道は開かれた」
ファレルは東の空を指差した。木々の切れ間から、遠く雪をいただいた山脈が見える。ドワーフたちが住むという、険しい山々だ。
「さあ、涙を拭け。旅立ちの時は近い」
私は大きく深呼吸をした。肺いっぱいに吸い込んだ森の空気は、甘く、澄み切っていた。もう大丈夫。過去はここに置いていく。泥と一緒に浄化した。
私は袖で乱暴に目をこすった。まだ少し涙が滲んでくるけれど、視界はクリアだ。
「ガブ」
私はしゃがみこみ、心配そうに見上げている相棒と視線を合わせた。
「ありがとう。あなたのおかげよ」
ガブは私の涙で濡れた頬をじっと見つめ、そして、なぜかゴクリと喉を鳴らした。
「リゼの涙……」
ガブが不思議そうな顔で、私の顔に顔を近づけてくる。
「なんか、キラキラしてて、甘い匂いがしそうだぞ?」
「は?」
私は一瞬、思考が停止した。この感動的な場面で、このゴブリンは何を言っているのか。彼の舌が、チロリと覗いている。
――まさか。
次の瞬間、ガブの顔が急接近してきた。




