EP40
117:棍棒対決
地下迷宮の最奥部、巨大な空間に出た。そこは、世界樹の太い主根が天井を支える、天然のドームだった。しかし、その神聖な場所は、おぞましい気配で満ちていた。
中央には、脈打つ黒い繭のようなものがある。あれが「黒い虫」たちの巣であり、毒の発生源だろう。だが、その手前に、最後の壁が立ちはだかっていた。
「グルルルゥ……」
先ほど逃げ出した野良ゴブリンの群れだ。しかし、様子が違う。彼らは道を開けるように左右に並び、一匹の巨人を迎え入れていた。奥の暗闇から現れたのは、通常のゴブリンの二倍、いや三倍はある巨体。『ゴブリン・チャンピオン』だ。
全身の筋肉は岩のように隆起し、肌は黒に近い深緑。その手には、何かの巨大生物の大腿骨で作られた、極太の棍棒が握られている。
「デカい……」
ガブが息を呑んだ。私から見ても、その威圧感は圧倒的だった。単純な魔力値やレベルではない。生物としての質量が違う。
チャンピオンは、私のことなど眼中にないようだった。ただ、ガブだけを睨みつけている。そして、自分の棍棒を地面にドスンと突き立て、ガブを指差した。
「グオォ!ガァッ!」
咆哮。決闘の申し込みだ。群れのボスとして、よそ者の挑戦を受けるという儀式。
「私がやるわ」
私は前に出ようとした。
「魔法なら一撃よ。あんな筋肉ダルマ、燃やしてしまえば……」
「だめ!」
ガブが私の杖を手で制した。
「リゼ、手出しちゃだめ。これ、オレの喧嘩だ」
「ガブ?相手を見て。サイズが違いすぎるわ」
「関係ない」
ガブは自分の腰から棍棒を抜いた。私がプレゼントした、樫の木の棍棒。相手の骨棍棒に比べれば、まるで爪楊枝のようだ。
「あいつ、オレを馬鹿にした。オレの服、オレの道具、オレのリゼを馬鹿にした」
ガブの瞳が静かに燃えていた。
「だから、オレが勝つ。ゴブリンのやり方で、叩きのめす」
その言葉には、引けない覚悟があった。これは単なる戦闘ではない。彼の尊厳をかけた戦いだ。私が手を出せば、ガブは勝っても傷つくことになる。
「わかったわ。信じる」
私は一歩下がった。
「でも、死なないでよ」
「おう!行ってくる!」
ガブは広場の中央へと歩み出た。左手に「鍋のふたの盾」、右手に「樫の棍棒」。対するチャンピオンは、武器のみ。防具など必要ないと言わんばかりの裸体だ。
周囲の野良ゴブリンたちが、床を叩いてリズムを刻み始めた。ドン、ドン、ドン。戦いのドラムだ。
「フンッ!」
チャンピオンが鼻を鳴らし、巨大な骨棍棒を軽々と振り上げた。風を切る音だけで、その破壊力がわかる。直撃すれば、ガブの体などトマトのように潰れるだろう。
ガブは腰を落とし、重心を低くした。目は相手の足元と肩を見ている。
「来い、デカブツ!」
ガブが叫ぶと同時に、チャンピオンが動いた。
ブンッ!!豪速のスイング。ガブはバックステップでそれをかわす。ドゴォォォン!!空振りした棍棒が地面を叩き、石畳が粉砕されて破片が飛び散る。
「うわっ、すごい力!」
ガブが顔をしかめるが、動きは止まらない。相手が大振りをした隙を狙い、懐に飛び込む。
バシッ!ガブの棍棒が、チャンピオンの脇腹を打つ。しかし、分厚い筋肉に阻まれ、音の割にダメージが入っていない。
「グルァッ!」
チャンピオンが鬱陶しそうに腕を払い、ガブは転がるように距離を取った。
「硬い……岩みたいだ」
ガブが呟く。
パワーも、タフネスも、リーチも、全て相手が上。絶望的な戦力差。野良ゴブリンたちが「ギヒヒ」と嘲笑う声が聞こえる。
でも、私は見ていた。ガブの目が、恐怖で曇っていないことを。彼は観察しているのだ。どうすれば、この岩山を崩せるのかを。
118:勝者
戦いは防戦一方に見えた。チャンピオンの怒涛の連撃。ガブはひたすら逃げ回り、盾で衝撃を逸らし、地面を転がり回っている。
「どうした、文明ゴブリン!逃げてばかりか!」
野良ゴブリンたちの野次が飛ぶ(言葉はわからないが、雰囲気でわかる)。
だが、違う。ガブは無駄に動いているわけではない。彼は相手を誘導していた。地面が抉れ、足場が悪くなった場所へ。天井から鍾乳石が垂れ下がっている場所へ。
「ハァ、ハァ……ここだ」
ガブがピタリと足を止めた。チャンピオンの目の前で。
「『死ネェェェッ!』」
好機と見たチャンピオンが、全身全霊の力を込めて棍棒を振り下ろす。上段からの唐竹割り。逃げ場はない。
ガブは逃げなかった。彼は左手の「鍋のふたの盾」を斜めに構え、自ら前へと踏み込んだ。
ガギィィィン!!耳をつんざく金属音。ガブは相手の棍棒を正面から受け止めたのではない。盾の表面で滑らせ、軌道を横に逸らしたのだ。私が教えた『受け流し(パリィ)』の技術。
勢い余ったチャンピオンの棍棒は、地面に激突。その反動で、チャンピオンの体が大きく前のめりになる。さらに、彼が踏み込んだ足元は、先ほどの攻防で砕け散った瓦礫だらけ。ズルッ!巨体がバランスを崩す。
「今だ!」
ガブが跳んだ。狙うのは脇腹ではない。足でもない。生物として共通の弱点。
ガブはチャンピオンの背中を駆け上がり、その耳元で棍棒を構えた。
「オレの棍棒は、石頭も砕くぞ!」
ゴチンッ!!!乾いた音が響き渡った。ガブの棍棒が、チャンピオンの後頭部(延髄付近)を正確に捉えた。
時間が止まったようだった。チャンピオンの巨体が、ゆらりと揺れる。白目を剥き、泡を吹き……。
ズズズ……ドォォォン!!大木が倒れるような音と共に、王者が地に伏した。
静寂。野良ゴブリンたちは、口をあんぐりと開けて固まっている。彼らの絶対的な王者が、チビで、変な服を着たゴブリンに倒されたのだ。
ガブは倒れたチャンピオンの上に立ち、荒い息をついていた。そして、棍棒を空高く掲げた。
「オレの、勝ちだ!!」
その声は、地下迷宮の隅々まで響き渡った。勝利宣言。それは単に喧嘩に勝ったというだけではない。知恵と工夫、そして勇気が、暴力だけの野生に打ち勝った瞬間だった。
ザッ……ザッ……。野良ゴブリンたちが、一斉にひれ伏した。地面に頭を擦り付け、服従の姿勢を取る。野生の掟は絶対だ。強い者がボス。勝った者が全てを支配する。
「『ボス……新しいボス……』」
彼らが口々に呻く。ガブを見る目は、さっきまでの侮蔑から、狂信的な崇拝へと変わっていた。
私は胸が熱くなった。すごい。本当に勝ってしまった。あの弱虫だったガブが。私の後ろに隠れて震えていたガブが。今、地下迷宮の王として君臨している。
ガブがチャンピオンの背中から飛び降りた。彼は盾についた汚れを払い、少しふらつきながら私の方へ歩いてきた。
「リゼ、見たか?」
彼はニシシと笑ったが、その笑顔は疲労で引きつっていた。
「ええ、見たわ。最高にかっこよかった」
「へへっ……手、痺れた」
私は彼を抱きしめようとしたが、周囲のゴブリンたちがそれを遮るように集まってきた。彼らはガブに、チャンピオンが持っていた骨の棍棒や、粗末な王冠(ガラクタで作ったもの)を差し出した。
「我らを率いてくれ」「ここに残ってくれ」という意思表示だ。
ガブは困ったように眉を下げた。
119:群れのボスにはならない
数十匹のゴブリンに取り囲まれ、ガブは困惑していた。彼らはガブの服を引っ張り、足を舐めようとし、必死に媚びを売ってくる。
「『ボス、ボス!命令を!』」
「『美味しい肉、持ってくる!一番いい寝床、あげる!』」
それはゴブリンとしての「あがり(成功)」かもしれない。群れの長となり、ハーレムを作り、安楽に暮らす。野生に生きる者にとっての最大の栄誉。
私は黙って見ていた。これはガブが決めることだ。もし彼がここで「王」になることを選ぶなら、私はそれを止める権利はない。彼にとって、それが幸せなのかもしれないから。
ガブは差し出された王冠を手に取った。じっと見つめる。ゴブリンたちが期待に目を輝かせる。
しかし。ガブはその王冠を、ポイッと後ろに投げ捨てた。
「いらない」
ガブが言った。
ゴブリンたちが凍りつく。
「『エッ……?』」
「オレ、ここのボスにならない」
ガブはハッキリと宣言した。
「こんな暗い穴の中で、カビの生えた肉を食べて、一生を終えるなんて嫌だ」
彼は自分の胸の赤いスカーフを撫でた。
「オレには、見たいものがある。食べたいものがある。行きたい場所がある。海とか、雪山とか、大きな街とか。リゼが教えてくれた、キラキラした世界だ」
そして、彼は私の方を振り返った。その瞳に、迷いは一切なかった。
「それに、オレのボスは一人だけだ」
ガブは私を指差した。
「ボスっていうか……相棒だ。オレは、リゼの隣がいい。リゼの作るシチューの匂いが好きなんだ」
私は涙が出そうになるのを堪え、腕を組んで強がってみせた。
「あら、私のシチュー目当て?現金な相棒ね」
「うん。リゼの料理、世界一だからな!」
ガブはゴブリンたちに向き直り、一喝した。
「お前ら、よく聞け!」
ビクッとゴブリンたちが直立する。
「オレは行く。でも、一つだけ命令してやる」
ガブは倒れているチャンピオンを顎でしゃくった。
「こいつが目を覚ましたら言っておけ。『もっと頭を使え』ってな。それから、二度とエルフの里に手を出すな。もし次やったら、オレがまた殴りに来る!」
ゴブリンたちは一斉に平伏した。
「『ハハーッ!!』」
それは恐怖による服従ではなく、真の強者に対する敬意だった。ガブは彼らの王にはならなかったが、彼らの心に「伝説」を刻み込んだのだ。
「行こう、リゼ」
ガブが私の隣に戻ってきた。
「あっちに、もっと臭い匂いがする。親玉がいるぞ」
「ええ。掃除の時間ね」
野良ゴブリンたちが、モーゼの海割れのように道を開ける。その間を、私たちは堂々と歩き抜けた。
ガブの背中は、前よりも少し大きく見えた。群れに属さず、孤高を選んだゴブリン。彼はもう、「ただのゴブリン」ではない。私の誇り高きパートナー、「冒険者ガブ」だ。
道の先、黒い繭が脈動を速めていた。でも、今の私たちに恐れはない。棍棒一本で王座を蹴り飛ばした男が、隣にいるのだから。




