EP39
114:野良ゴブリンとの遭遇
先ほどの襲撃から逃れた私たちは、さらに地下深くへと潜っていた。『古き根の迷宮』という名の通り、ここは巨大な樹木の根が複雑に絡み合い、自然の回廊を形成している。
空気は淀み、カビと腐敗臭が混ざった独特の匂いが鼻をつく。ガブは先ほどの出来事を引きずっているのか、いつものような軽口を叩かない。背中を少し丸め、トボトボと歩いている。同族からの拒絶。それは私が想像する以上に、彼の心を傷つけたようだ。
「匂い、強くなった」
ガブが立ち止まり、鼻をヒクつかせた。
「さっきの奴らの匂いだ。いっぱいいる」
私の『真実の眼』も、前方の大空洞に蠢く多数の生体反応を捉えていた。避けて通れる脇道はない。一本道だ。
「行くしかないわね。覚悟はいい?」
「うん」
ガブの返事は力なかったが、棍棒を握る手には力が入っていた。
私たちが大空洞に足を踏み入れると、そこはまさに「巣窟」だった。天井の高い広大な空間。壁面には無数の横穴が開けられ、そこから何十匹もの『穴居ゴブリン』が顔を出している。中央の広場には、何かの骨や、盗んできたと思われるボロボロの武具が山積みにされていた。
彼らの生活様式は、原始的で、そして残酷だった。広場の隅で、数匹のゴブリンが争っている。獲物――巨大なネズミの死骸――を奪い合い、弱い個体を殴り飛ばし、生肉に喰らいついているのだ。火を使う様子はない。言葉らしきものも、「ギャッ」「ググッ」という唸り声だけ。
「これが、ゴブリンの村?」
私が呟くと、ガブは首を横に振った。
「違う。これ、村じゃない。獣の巣だ」
私たちが侵入したことに気づき、広場の空気が凍りついた。数十匹の視線が一斉に突き刺さる。その視線には、好奇心も知性もない。あるのは「食えるか、食えないか」「敵か、味方か」という単純な二元論だけ。
ザッ。群れの中から、一際大きな個体が歩み出てきた。他のゴブリンより頭一つ大きく、筋肉が瘤のように隆起している。手には錆びついた鉄の斧を引きずっている。この群れのボス、『ゴブリン・リーダー』だ。
リーダーは、まず私を見て舌なめずりをし、次にガブを見て、鼻で笑った。そして、しわがれた声で何かを喚いた。
「ギギッ、ゲギャア!グルルッ!」
私には意味がわからない。だが、ガブの顔色が変わった。怒りで、緑色の肌が濃くなったように見えた。
「なんて言ったの?」
私が小声で聞くと、ガブは震える声で答えた。
「『人間を連れてきたのか、弱虫。その肉、よこせ。お前は、食べ残しの骨をしゃぶらせてやる』って」
ひどい。彼らはガブを仲間として歓迎するどころか、貢ぎ物を持ってきた下っ端扱いしたのだ。それだけではない。リーダーはガブの服装――私が作ったポンチョと、あの赤いスカーフ――を指差し、腹を抱えて笑い出した。
「ギヒヒ!ギャハハ!」
周囲のゴブリンたちもつられて笑う。嘲笑の合唱。
「なんだその布切れは」
「人間ごっこか」
「弱そうだな」
言葉はわからなくても、ニュアンスは伝わる。
ガブが俯いた。自分の誇りであるスカーフを、汚れた手で握りしめる。彼の中で、「同族への憧れ」が音を立てて崩れ去っていくのがわかった。
「リゼ」
ガブがボソリと言った。
「こいつら、やっぱりダメだ。話、通じない」
「ええ。彼らは姿形こそあなたに似ているけど、中身は別物よ」
私は杖を構えた。
「彼らは『野良』よ。秩序も誇りもない、ただの野良ゴブリン」
リーダーが斧を振り上げた。交渉決裂。いや、最初から交渉の余地などなかったのだ。彼らにとって私たちは、服を着た肉塊でしかない。
「来るよ、ガブ!」
「おう!もう容赦しない!」
ガブが顔を上げた。その目からは迷いが消えていた。同族への未練など、嘲笑と共に吹き飛んだのだ。広場を埋め尽くす「野生」の群れに対し、私たちはたった二人で対峙した。
115:文明と野生
「殺ッチマエ!!」
リーダーの号令と共に、穴居ゴブリンの群れが雪崩のように襲いかかってきた。石つぶて、骨の槍、そして剥き出しの牙と爪。圧倒的な数の暴力。
しかし。数は力だが、知恵もまた力だ。
「ガブ、正面!『閃光』!」
私は杖先から強烈な光を放った。暗闇に慣れきった穴居ゴブリンたちの目が、一瞬にして焼き尽くされる。
「ギャアアアッ!?」
彼らは目を押さえてのたうち回る。単純な生物ほど、環境の変化に弱い。
「今よ!ガブ、突っ込んで!」
「任せろ!」
ガブが飛び出した。彼が向かったのは、雑魚の群れではない。中央に陣取るリーダーだ。リーダーは光に目が眩みながらも、野生の勘で斧を振り回している。
「『デタラメな振り方だな!』」
ガブはゴブリン語で叫びながら、リーダーの懐に潜り込んだ。右手の棍棒で斧の柄を弾き、左手の「鍋のふたの盾」で体当たりをかます。
ガィィン!金属音が響く。鍋のふたは、ただの調理器具ではない。私が魔法で強化し、ガブが毎日磨き上げている「文明の利器」だ。錆びついた斧などには負けない。
「お前の斧、手入れしてない!臭い!汚い!」
ガブは叫びながら、棍棒でリーダーの足、膝、脇腹と、的確に急所を打った。力任せに振り回すだけのリーダーに対し、ガブの攻撃には「型」がある。私との旅の中で、人間の剣術や体術を見様見真似で覚えた、彼独自の戦闘術だ。
「グオオッ!?」
リーダーがバランスを崩して倒れる。
その隙に、雑魚たちが私に殺到しようとする。だが、私は動じない。
「近づかないで。汚れるわ。『風壁』!」
突風の壁を展開し、飛びかかってくるゴブリンたちを吹き飛ばす。彼らは連携も取れず、ただ我先にと突っ込んでくるだけなので、互いにぶつかり合って自滅していく。
「見なさい、ガブ」
私は戦いながら声をかけた。
「これが『野生』の限界よ。本能だけで動く者は、理知を持つ者には勝てない」
ガブはリーダーのマウントポジションを取り、棍棒を突きつけていた。リーダーは唸り声を上げ、まだ噛みつこうとしている。往生際が悪い。
「お前ら、ただの獣だ」
ガブはリーダーを見下ろして言った。
「服も着ない。風呂も入らない。美味しい料理も知らない。だから弱いんだ」
彼が言っているのは、単なる文化的なマウントではない。「工夫すること」「学ぶこと」「より良くあろうとすること」。それらを放棄した者たちへの、憐れみを含んだ宣告だった。
ガブはポンチョを翻した。その布地が、リーダーの顔をはたく。ただの布切れと笑われたポンチョが、今や勝者のマントとして輝いて見える。
「オレは、リゼに色んなことを教えてもらった。火の使い方、道具の手入れ、守る戦い方」
ガブは胸のスカーフを握った。
「それが『文明』だ。オレは野生を捨てたんじゃない。野生の上に、文明を積み上げたんだ!」
彼は棍棒を振り上げた。リーダーが恐怖に目を見開き、縮こまる。
しかし、ガブは殴らなかった。寸前で止め、棍棒を地面に突き刺した。
「殺さないの?」
私が問うと、ガブは荒い息を吐きながら言った。
「リゼの服が汚れる。それに……こいつら、殺す価値もない。ただの可哀想な奴らだ」
リーダーは呆然としていた。敗北したのに、殺されない。その意味が理解できないのだろう。弱肉強食の掟しか知らない彼らにとって、「情け」という概念は未知の衝撃だった。
ガブはリーダーの胸ぐらを掴んで引き起こし、低い声で脅した。
「道を開けろ。二度とオレたちの邪魔をするな」
リーダーは震え上がり、悲鳴のような声を上げて逃げ出した。ボスが逃げれば、群れは崩壊する。数十匹の穴居ゴブリンたちは、蜘蛛の子を散らすように闇へと消えていった。
静寂が戻る。広場には、ガブと私だけが立っていた。文明の勝利だ。私たちは血を一滴も流さず、野蛮な群れを制圧したのだ。
116:ガブのプライド
敵がいなくなった広場で、ガブはふぅと大きく息を吐き、その場に座り込んだ。
「疲れた……」
「お疲れ様。見事だったわ」
私は彼に水筒を渡した。
ガブは水を一口飲み、それから自分の手を見つめた。震えてはいなかった。以前、同族に拒絶された時は泣きそうな顔をしていたが、今は憑き物が落ちたようにスッキリとした顔をしている。
「リゼ」
「なぁに?」
「オレ、もう迷わない」
彼は立ち上がり、ポンチョについた埃をパンパンと払った。
「さっきの奴らを見て、わかった。オレは、あっち側には戻れない」
彼は赤いスカーフを指で弄んだ。
「前は、ゴブリンなのに人間と一緒にいる自分が、変なんじゃないかって思ってた。どっちつかずの、半端者なんじゃないかって」
「ええ?」
「でも、違う。オレは『進化した』んだ」
ガブは真っ直ぐに私を見た。その瞳には、知性の光と、揺るぎない自尊心が宿っていた。
「オレはゴブリンの体を持ってる。でも、心はもっと広い。リゼが教えてくれた世界を知ってる。だから、オレは誰よりも強いゴブリンだ」
それが、ガブが見つけた答え。『ガブのプライド』。種族という枠組みに帰属するのではなく、自分自身の在り方に誇りを持つこと。
「そうね。あなたは世界でただ一人の、『文明的なゴブリン』よ」
私は微笑んだ。
「そして、私の自慢のパートナーだわ」
「へへっ、照れるな」
ガブは鼻の下をこすり、それから私の手を取った。ゴツゴツとした、緑色の手。でも、爪は綺麗に整えられ(私が教えた)、泥汚れもない。それは確かに、野良ゴブリンの手とは違う、紳士の手だった。
「行こう、リゼ。この先に、あの樹人が言ってた『黒い虫の親玉』がいるはず」
「ええ。その親玉を倒して、エルフたちにも見せつけてやりましょう。私たちの力を」
私たちは広場を抜け、さらに奥へと続く道を進んだ。途中、逃げ遅れた穴居ゴブリンが数匹、物陰からこちらを窺っていた。彼らの目には、もう嘲笑の色はなかった。あるのは、「畏敬」の念。未知の強者に対する、純粋な憧れと恐怖。
ガブは彼らに一瞥もくれず、胸を張って歩いた。赤いスカーフが、地下の微風に揺れる。それはまるで、彼がこの地下迷宮の新たな王であることを示す旗印のようだった。
私はその後ろ姿を見ながら、確信した。彼はもう大丈夫だ。どんなに出自を馬鹿にされようと、同族に爪弾きにされようと、彼のプライドは傷つかない。彼には「帰る場所(私の隣)」と、「守るべきもの(自分の美学)」があるのだから。
地下道はさらに狭く、急勾配になっていく。壁の根からは、黒い粘液がボタボタと滴り落ちている。元凶は近い。私たちは互いの存在を確かめ合うように、足音を重ねて闇の最深部へと向かった。




