EP4
10:ガブ、と彼は言った
朝の光が森の木漏れ日となって降り注ぐ中、私たちは「朝食」と向き合っていた。正確には、ガブが捕らえてきた極彩色の怪鳥の死骸と、だ。
私は腕組みをして、その亡骸を見下ろした。屋敷では、料理といえば美しく盛り付けられた完成品が出てくるものだった。調理場に入ることさえ「はしたない」と禁じられていた私にとって、羽毛と血にまみれた「食材以前の塊」は、あまりにもハードルが高い。
「これ、どうやって食べるの?」「ギャ?」
ガブが不思議そうに首を傾げる。彼は痺れを切らしたように鳥の死骸を引き寄せると、その鋭い爪と牙を使って、バリバリと羽をむしり始めた。ブチブチ、ベリッ。生々しい音が響く。羽毛が舞い散り、鮮血が飛び散る。私は思わず口元を押さえて顔を背けた。残酷だ、野蛮だ、気持ち悪い。かつての私なら、悲鳴を上げて逃げ出していただろう。
けれど、私の『真実の眼』は、目の前の光景に一切の「穢れ」を見ていなかった。ガブの行動には「悪意」がない。そこにあるのは、ただ「食べるために加工する」という、純然たる生存のための作業プロセスだけだ。むしろ屋敷の晩餐会で、誰が殺したかも知らない肉を優雅に切り分けながら、笑顔で隣人を蹴落とす話をしていた人間たちの方が、よほどおぞましい色をしていたではないか。
(私がやらなきゃ)
私は覚悟を決めた。逃げ出して一人で生きていくと決めたのだ。汚れることを厭っていては、この先一日たりとも生き延びられない。私はナイフを取り出し、ガブの隣にしゃがみ込んだ。
「ガブ、貸して。私がやる」
ガブは一瞬、獲物を奪われると思ったのか唸り声を上げたが、私がナイフで皮を剥ぐ仕草を見せると、納得したように場所を譲った。手伝ってくれるようだ。彼が足を抑え、私がナイフを入れる。温かい血の感触。肉の重み。内臓の独特な臭気。吐き気をこらえながら、私は必死に作業を続けた。解体を終える頃には、私の手も、大切なローブも血で汚れていた。けれど、不思議な達成感があった。
切り分けた肉を鍋に入れ、香草代わりの野生のハーブ(図鑑で見た記憶を頼りに採取した)と一緒に煮込む。「浄化」と「加熱」の魔法。グツグツと煮える音が、空腹の胃袋を刺激する。
「できたわよ」
私が言うより早く、ガブはお椀を差し出してきた。熱々のスープと肉。彼はそれを一口食べると、カッと目を見開いた。そして、私の顔と鍋を交互に見比べる。
「ウマッ!ウマイ!」
言葉ではない。ただの叫び声だ。けれど、彼の全身から噴き出したのは、目が眩むような鮮やかなピンク色とオレンジ色の光だった。「幸福」「驚き」「感謝」。加熱したことで肉が柔らかくなり、ハーブで臭みが消えたことが、彼にとっては魔法のような体験だったのだろう。今まで生肉や腐りかけの肉しか食べてこなかった彼にとって、これは革命だったのだ。
「でしょ?私が作ったんだから」
私は少し得意げに胸を張った。父や母は、私の魔法を「役立たず」と呼んだ。攻撃もできない、ただお湯を沸かすだけの魔法だと。でも、目の前のゴブリンは、私の魔法が生み出した料理に、全身全霊で感動してくれている。嘘もお世辞もない。100%の称賛。それがこんなにも嬉しくて、胸を熱くさせるものだなんて知らなかった。
ガブは口の周りをべとべとにしながら、私を指差した。
「リゼ、すごい。リゼ、いい」「うん。ありがとう、ガブ」
彼が私の名前を呼ぶ。しわがれた、聞き取りにくい声。けれど、そこには「尊敬」を表す深い青色が混じっていた。彼は私を、ただの「餌をくれる存在」から、「すごいことができる仲間」へと認識を改めたのだ。
私も自分の分の肉を口に運ぶ。少し硬くて、血の味が残っている。決して上等な味ではない。それでも、向かい側でハフハフと幸せそうに食べる緑色の顔を見ていると、どんな高級料理よりも美味しく感じられた。
「ガブ」という名前。私が適当につけたその響きが、今、彼の中で確かなアイデンティティとして定着しつつある。名前を呼び、呼ばれること。それがこれほどまでに、お互いの存在を繋ぎ止める鎖になるとは。私は空になったお椀を見つめながら、この奇妙な朝食の時間を噛み締めていた。
11:ついてくる足音
食事を終え、焚き火の跡を始末すると、出発の時間がやってきた。私はリュックを背負い、立ち上がる。
さてここからが問題だ。
ガブは満腹になった腹をさすりながら、地面にごろりと転がっている。このまま置いていくべきだろうか。昨夜と今朝の交流は楽しかった。けれど私は人間で、彼は魔物だ。私は北の果て、伝説の『楽園』を目指す旅の途中。彼はこの森で生きる住人。一時的な利害の一致で一緒に食事をしただけで、これ以上彼を巻き込むわけにはいかない。
(さよなら、ガブ)
私は心の中で別れを告げ、彼に背を向けた。言葉で説明しても通じないだろう。何も言わずに去るのが、互いのためだ。私は北へ向かって歩き出した。下草を踏みしめ、木々の間を抜けていく。一人になると、森の静けさが急に戻ってくる。鳥の声、風の音。少し寂しいけれど、これが本来の私の旅だ。
ザッ、ザッ、ザッ。私の足音。
ペタ、ペタ、ペタ。――別の足音。
私は立ち止まった。背後の足音も止まる。振り返ると10メートルほど後ろに、ガブが立っていた。手には愛用の木の棒(棍棒代わりの太い枝)を持ち、背中にはいつの間にか蔓で編んだ粗末な袋を背負っている。まるで遠足に行く子供のような格好だ。
「何してるの?」「?」ガブは首を傾げる。「なんで止まるんだ?」という顔だ。
「ついて来ちゃだめよ。私は遠くへ行くの。あなたはここが家でしょう?」
私は身振り手振りを交えて「あっちへ行け」と示した。シッシッ、と手を払う。ガブは悲しそうな顔をするでもなく、怒るでもなく、ただ不思議そうにこちらを見ている。彼から見える感情の色は、透き通るような水色。「理解不能」だ。
彼の中のロジックは、私の『真実の眼』を通して丸見えだった。
1.リゼの作る飯は美味い。
2.リゼのそばにいれば、また美味い飯が食える。
3.だから、リゼについていく。
以上。
そこには「種族の違い」も「旅の目的」も「迷惑かどうか」も介在しない。あまりにもシンプルで、強力な三段論法。
私がため息をついて再び歩き出すと、またペタペタと足音がついてくる。距離は縮まらないが、離れもしない。私が走れば彼も走り、私が止まれば彼も止まる。普通の人間なら「ストーカー」と呼んで恐怖するところだろう。けれど、彼から漂うのは「期待」と「親愛」の淡いピンク色だけ。背中を守るように、一定の距離を保ってくれているようにも感じる。
しばらく歩き続けた後、私は根負けして立ち止まった。振り返るとガブも止まる。私は手招きをした。
「わかったわよ。好きにしなさい」
私が言うと、ガブの顔がパァッと輝いた。彼は嬉々として駆け寄ってくると、私の真後ろではなく、斜め前――私の視界に入る位置に陣取った。そして、落ちていた長い木の枝を拾い、草むらをバシバシと叩きながら歩き始めた。先導してくれているのだ。「こっち、歩きやすい」「こっち、蛇いない」。そんな無言のメッセージが伝わってくる。
彼の小さな背中を見ていると、一人で歩いていた時の重圧が、ふっと軽くなるのを感じた。足音が二つある。それだけで、この広大で不気味な森が、少しだけ賑やかな場所に変わった気がした。
「行くぞ、リゼ」彼が振り返って、ニカッと笑う。「ええ、行きましょう」
私は苦笑して、その緑色の背中を追いかけた。こうして、奇妙な二人旅がなし崩し的に始まったのだった。
12:最初の契約
ガブが旅の仲間(仮)になってから、半日が過ぎた頃だった。森の様子が変わった。木々の密度が増し、空気がねっとりと肌にまとわりつくような湿度を帯びてきたのだ。図鑑の知識によれば、このあたりは「湿地帯」に近いのかもしれない。
ガブが不意に足を止めた。彼の長い耳がピクピクと動き、鼻が激しくヒクついている。「警戒」を表す焦げ茶色の煙が、彼の体から滲み出していた。
「ガブ?どうしたの?」「グルル」
彼が低く唸った瞬間、前方の茂みが爆発したように弾け飛んだ。現れたのは一匹の獣。狼に似ているが、サイズが一回り大きい。そして何より異様なのは、額からねじれた一本の角が生えていることだった。
「一角狼」。北の森に生息する、凶暴な肉食獣だ。
「ひっ!」
私は息を呑み、動けなくなった。本で読んだ知識と実物は違う。爛々と輝く赤い目。口から滴り落ちる粘液。圧倒的な捕食者のオーラ。足が震える。喉が引きつって声が出ない。魔法を。戦わなきゃ。頭では分かっているのに、体が言うことを聞かない。『お前は何の役にも立たない』父の冷たい言葉が、呪いのように脳裏に蘇る。そうだ、私は無力だ。攻撃魔法ひとつ使えない、落ちこぼれの貴族令嬢。こんなところで、魔物の餌になって終わるんだ。
狼が後ろ足を沈め、跳躍の体勢に入った。死ぬ。私は反射的に目を閉じた。
――ガキンッ!!
硬い音が響き、顔に風圧が当たった。痛みが来ない。恐る恐る目を開けると、私の目の前に、小さな緑色の背中があった。
「ガァアアッ!!」
ガブだ。彼は私が持たせていた鍋のふた(予備の金属製のもの)を盾にして、狼の突進を受け止めていたのだ。体格差は歴然。ガブの足が地面を削り、ズルズルと後退する。それでも彼は退かない。私の『真実の眼』が見たのは、燃え盛るような深紅の炎だった。「敵意」ではない。「闘志」。そして「守護」の意思。「リゼに触るな」「俺の飯係を殺すな」「俺が守る」
そんな単純で熱い感情が、彼の小さな体から迸っていた。彼は震えていた。怖くないわけがない。一角狼はゴブリンにとっても天敵のはずだ。なのに、彼は私の前に立っている。
「ガブ!」「リゼ!やれ!魔法!」
彼が叫んだ(気がした)。その必死な背中が、私の中の恐怖を吹き飛ばした。私がやらなきゃ、彼が死ぬ。私を守ってくれている、この小さな友人が。
私は震える手を杖に添え、腹の底から声を絞り出した。攻撃魔法はない。でもできることはある。狼の目は、暗闇に適応しているはずだ。
「光よ弾けろ!『閃光』!!」
本来は目くらまし程度の生活魔法。けれど、私はありったけの魔力を込めた。カッ!!視界が真っ白に染まるほどの強烈な光が炸裂した。
「キャインッ!?」暗闇に慣れていた狼が、悲鳴を上げて顔を背ける。その一瞬の隙を、ガブは見逃さなかった。彼は盾を投げ捨て、手にした棍棒を狼の鼻先――敏感な急所目掛けて、全力で叩きつけたのだ。
ゴッ!という鈍い音。狼はたたらを踏み、尻尾を巻いて茂みの奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻る。ガブは肩で息をしながらへたり込んだ。私も力が抜けて、その場に座り込む。
「助かった」「勝った!」
ガブが振り返り、ニカッと笑う。その頬にはかすり傷があり、血が滲んでいた。私は慌てて近づき、「治癒」の魔法をかける。傷が塞がっていくのを見ながら、私は彼に言った。
「ガブ。ありがとう。あなたが居なかったら、死んでた」「リゼ、光った。目、痛い。でも、すごかった」
彼はケラケラと笑う。私は彼の手を――ゴツゴツとした緑色の手を握りしめた。
「ねえ、ガブ。取引しましょう」「トリヒキ?」「そう。契約よ」
私は彼の真っ直ぐな瞳を見つめて言った。もう迷いはない。一人で生きるなんて無理だ。私には彼が必要だし、彼も私の魔法を必要としている。
「私はあなたに、美味しいご飯を作る。毎日、お腹いっぱい食べさせる」「おお!」「その代わり、あなたは私を守って。怖い魔物から、私を助けて」「肉、食えるか?」「ええ。肉も、魚も、甘い木の実も」
ガブは大きく頷いた。彼の体から黄金色の光が溢れ出す。それは「誓い」の色。いかなる魔法契約よりも強固で、いかなる騎士の誓約よりも嘘のない、魂の約束。
「わかった。ガブ、リゼ守る。リゼ、飯作る。これ、最強」
彼は私の手を握り返してきた。握力は強いけれど、痛くはなかった。これが、私たち「旅の友」の最初の契約。薄暗い森の中で結ばれた、ちっぽけで、世界一頼もしいパートナーシップの始まりだった。




