EP38
111:嘘のない種族たち
翌朝。里の空気は、昨日までとは少し違っていた。ピリピリとした緊張感は変わらないが、そこに「期待」という色が混ざっていたからだ。
「これを持っていけ」
ファレル隊長が、無愛想に皮袋を差し出した。中には、エルフ特製の保存食『レンバス(葉包みパン)』と、解毒作用のある薬草が入っていた。
「ありがとう」
私が受け取ると、彼はふいっと顔を背けた。
「勘違いするな。お前たちが途中で倒れれば、我らの木が助からないからだ。あくまで、任務のためだ」
なんとわかりやすい。私の『真実の眼』には、彼の心の色がハッキリと映っていた。口では冷たいことを言っているが、心の色は「すまない」という申し訳なさと、「頼む」という切実さで揺れている。人間社会の貴族たちのように、笑顔の下でドス黒い殺意を隠しているのとは大違いだ。
「ファレル。あんた、口、への字。でも、匂いは……辛くない」
ガブが鼻をヒクつかせて言った。
「嘘の匂い、しない。あんた、本当のことしか言わない。わかりやすい」
「何だと?」
ファレルが眉をひそめた。
「人間、笑いながら嘘つく。怒りながら褒める。難しい」
ガブは首を傾げ、自分の棍棒を腰に差した。
「でも、エルフ、違う。嫌いなら嫌いって顔する。だから、オレ、嫌いじゃない」
その言葉に、ファレルは虚を突かれたような顔をした。そして、バツが悪そうに鼻を鳴らした。
「フン……野蛮なゴブリンに評価されるとはな。だが、忠告しておく。地下は、地上の常識が通じない世界だ。死にたくなければ、互いから目を離すな」
「わかってる。リゼはオレが見る。オレはリゼが見る。半分こだ」
ガブが胸を張る。
私たちは装備を整え、昨日封印した『古き根の迷宮』への入り口に立った。入り口を守っていた巨体の樹人が、ズズズ……と体を動かし、道を空ける。
「タノム……」
樹人が、重低音で呻いた。昨日は狂気じみていたその瞳に、今は理性的な光が戻っている。私たちが敵ではないと理解したのだ。
「行ってくるわ」
私は樹人の幹をポンと叩いた。
入り口の向こうは、真っ暗な闇が口を開けている。生ぬるく、カビ臭い風が吹き上げてくる。
「リゼ、暗いぞ。オレ、目、いいけど……ここは、もっと暗い」
ガブが不安そうに私の袖を掴んだ。ゴブリンは夜目が効くが、完全な闇は苦手だ。
「大丈夫よ。『灯火』」
私が杖先に小さな光を灯すと、周囲の壁が浮かび上がった。壁は土や岩ではなく、巨大な『根』が絡み合って形成されていた。血管のように複雑に分岐し、地下深くへと続いている。
私たちは一歩、また一歩と、地下への坂道を下り始めた。背後で、エルフたちが見送っている気配がする。「頑張れ」という声援はない。けれど、「生きて戻れ」という無言の祈りが、背中に刺さる視線の色から伝わってくる。
「ねえ、ガブ」
私は歩きながら言った。
「私、ここの人たち、嫌いじゃないわ」
「ん?石、投げられたぞ?」
「ええ。でも、彼らは『石を投げるふりをして握手をする』ようなことはしない。敵意が純粋なの。だから、対処しやすいわ」
私の父、クリスタル公爵は違った。「愛している」と言いながら、私を道具として扱った。「お前のためだ」と言いながら、私の自由を奪った。美しい言葉で飾られた嘘こそが、最も猛毒であることを私は知っている。
それに比べて、エルフたちはどうだ。「人間は嫌いだ」「穢らわしい」と面と向かって言う。清々(すがすが)しいほどに正直だ。『嘘のない種族たち』。彼らとの付き合いは、傷つくこともあるけれど、決して背中から刺されることはない。
「オレも、好きかも」
ガブがニシシと笑った。
「あの隊長、隠してたパン、最後にくれた。ツンツンしてるけど、手、温かかった」
ガブの手には、ファレルがこっそり渡した追加の食料が握られていた。不器用な種族たち。私たちは、地上最後の光を見納め、闇の奥へと足を踏み入れた。
112:リゼの心地よさ
地下迷宮に入ってから、一時間が経過した。道は複雑に入り組み、上下左右の感覚が狂いそうになる。壁も床も天井も、すべてが巨大な植物の根でできているため、有機的なグロテスクさがある。
カサカサカサ。物陰から、小さな蟲たちが這い出てくる。昨日の『黒鉄蟲』の幼生だろうか。まだ殻が柔らかく、攻撃的ではないが、数が不気味だ。
「リゼ、足元、変な汁ある。滑る」
ガブが注意を促す。
「ありがとう。気をつけるわ」
普通なら、こんな薄暗く不衛生な場所にいれば、気が滅入るはずだ。かつての私――絹のドレスを着て、香水を振りまいていた公爵令嬢の私なら、悲鳴を上げて卒倒していたかもしれない。
でも、不思議だった。今の私は、かつてないほど「心地よさ」を感じていた。
なぜだろう?私は『灯火』の明かりに照らされたガブの背中を見ながら考えた。
ここでは、ルールが単純だ。進むか、戻るか。戦うか、逃げるか。食べるか、食べられるか。
余計な「含み」がない。「今の発言は、公爵家の利益にどう影響するか?」「この微笑みは、相手を油断させるためか?」そんな高度で疲れる計算をしなくていい。
「ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
「リゼ?何かいいことあった?」
ガブが振り返る。
「ううん。ただ、息がしやすいなと思って」
「ここ、カビ臭いぞ?リゼ、鼻、変になった?」
ガブが心配そうに私の顔を覗き込む。
「違うの。空気が……自由なのよ」
私は杖を振って、迫ってきた羽虫を風圧で追い払った。
王都の舞踏会。煌びやかなシャンデリアの下。あそこは息が詰まる戦場だった。誰が敵で、誰が味方かもわからない。全員が仮面を被り、見えないナイフで突き合っている。
それに比べれば、この地下迷宮なんてピクニックみたいなものだ。敵は「敵です」という顔をして襲ってくる。罠は「罠です」という顔をして仕掛けられている。そして何より、隣には絶対に裏切らない相棒がいる。
「ガブ、お腹空いてない?」
「空いた!さっきのパン、もう消化した!」
「じゃあ、少し休憩しましょう」
私たちは少し開けたスペースで腰を下ろした。根の隙間から、淡い光るキノコが生えていて、ほのかな明かりを提供している。
私は水筒の水と、干し肉を取り出した。硬くて塩辛い干し肉。でも、ガブと半分こして食べると、ご馳走になる。
「リゼ、これ、うまいな。噛めば噛むほど、肉の味がする」
ガブが幸せそうに干し肉をしゃぶっている。
「そうね。ねえガブ、怖くない?」
「ん?お化け、出るか?」
「お化けより怖い魔物が出るかもしれないわよ」
ガブは少し考えてから、ニカっと笑った。
「リゼがいるから、怖くない。リゼ、魔法すごい。オレ、殴るの得意。二人なら、最強だ」
根拠のない自信。でも、それが今の私には一番の安定剤だった。
私はリュックにもたれて、天井を見上げた。ここには父もいない。教会の追っ手もいない。あるのは、生存へのシンプルな欲求と、隣にある温もりだけ。
私は初めて気づいた。私が求めていた「自由」とは、誰にも干渉されず、誰の顔色も窺わずに生きることだったのだと。たとえそれが、暗い地下迷宮の底であっても。
「さあ、行きましょうか」
休息を終え、私は立ち上がった。心なしか、足取りが軽い。
「おう!虫の親玉、ぶっ飛ばすぞ!」
ガブも元気に立ち上がる。
その時だった。私の『真実の眼』が、暗闇の奥に異質な色を捉えた。
「待って、ガブ」
私は声を潜めた。
「誰かいる」
蟲ではない。もっと複雑な、知性を持ったオーラの色。それが複数、私たちを取り囲むように動いていた。
113:ガブの同族?
私たちは身を低くし、根の陰に隠れた。『気配遮断』の魔法をかけ、息を殺す。
ペタ、ペタ、ペタ。湿った足音が近づいてくる。四足歩行の獣ではない。二足歩行だ。
「匂い、する」
ガブが私の耳元で囁く。
「獣の匂いじゃない。オレと、似てる?」
「似てる?」
私が問い返す間もなく、影たちが姿を現した。
身長はガブと同じくらい。緑色の肌。尖った耳。長い鼻。ゴブリンだ。しかし、見慣れたゴブリンとはどこか違っていた。
肌の色はもっと濃く、苔のような深緑色をしている。目は退化しているのか細く閉じられているが、代わりに耳が異常に大きい。そして何より、彼らは「道具」を持っていた。骨で作った槍や、石を削ったナイフ。ボロボロの布を体に巻きつけている。
「『穴居ゴブリン』……!」
私は図鑑の知識を思い出した。光の届かない地下に順応し、独自の進化を遂げたゴブリンの亜種。視力は弱いが、聴覚と嗅覚が鋭敏で、集団戦を得意とする。
彼らは5匹の集団で、何かを探すように鼻を鳴らしていた。その手には、不気味なものが握られていた。昨日の『黒鉄蟲』の殻で作った盾だ。
「あいつら、友達か?」
ガブが身を乗り出そうとする。
「オレと同じ、ゴブリンだ。話、通じるかも」
「待って、ガブ!様子がおかしいわ」
止める間もなく、ガブは陰から出てしまった。彼は武器を構えず、手を上げて友好的に声をかけた。
「おい!あんたたち!オレ、ガブ!ここ、通らせてくれ!」
穴居ゴブリンたちが一斉に振り返った。その瞬間、彼らの喉から発せられたのは、歓迎の言葉ではなかった。
「キシャアアアアッ!!」
耳をつんざくような金切り声。明確な殺意。
ヒュンッ!先頭の一匹が、石のナイフを投げてきた。ガブはとっさに「鍋のふたの盾」で弾いたが、その衝撃に体勢を崩した。
「えっ?なんで?」
ガブが困惑する。
「オレ、仲間だぞ?同じゴブリンだぞ?」
穴居ゴブリンたちは聞く耳を持たない。彼らにとって、地上から来た異物はすべて敵なのだ。あるいは、同族だからこそ、縄張りを荒らす侵入者として許せないのかもしれない。
「囲まれるわ!『旋風』!」
私はガブを援護すべく、魔法を放った。風の刃が地面を切り裂き、彼らの接近を阻む。
しかし、彼らの動きは速かった。壁や天井の根に爪を立て、猿のように立体的に動き回る。上から、横から、死角から襲いかかってくる。
「ガブ、戦って!彼らは言葉が通じない!」
「でも……仲間……」
ガブは棍棒を握りしめたまま、振ることができない。初めて出会う「同族」かもしれない存在。ずっと人間社会で孤独を感じていた彼にとって、ゴブリンの姿をした彼らは、無意識に求めていた「仲間」に見えたのかもしれない。
ドスッ!迷っているガブの肩に、骨の槍が突き刺さった。
「ぐっ!」
鮮血が舞う。
「ガブ!」
私は悲鳴を上げた。
相手は容赦しない。倒れたガブに、三匹が飛びかかろうとする。
「やめろぉぉぉっ!!」
ガブが吠えた。それは悲痛な叫びだった。彼は痛みに耐えながら、棍棒を横薙ぎに振るった。
バゴォォン!本気のフルスイング。飛びかかってきた三匹が、紙切れのように吹き飛び、壁に叩きつけられた。
残りの二匹が怯む。ガブの圧倒的な膂力に、生物としての格の違いを感じたようだ。
「オレは、敵じゃないのに」
ガブが肩を押さえながら立ち上がった。その目には、涙が溜まっていた。痛みからではない。同族に拒絶された悲しみからだ。
「なんで、話、聞いてくれないんだ……」
ガブの言葉は、虚しく地下道に響いた。
穴居ゴブリンたちは、仲間を担いで闇の奥へと逃げていった。捨て台詞のように、「キーッ!」と威嚇音を残して。
「ガブ、大丈夫!?」
私は駆け寄り、回復魔法『癒し(ヒール)』をかけた。傷はすぐに塞がったが、彼の心に開いた穴は塞がらない。
「リゼ……あいつら、オレのこと、嫌いだった」
ガブがポツリと言った。
「オレ、ゴブリンなのに。ゴブリンとも仲良くできないのか?」
私は彼の頭を抱きしめた。人間社会では「魔物」として迫害され。エルフの里では「野蛮」と蔑まれ。そして今、同族であるはずのゴブリンからも殺意を向けられた。
「違うわ、ガブ」
私は優しく言った。
「彼らは、あなたの言葉がわからなかっただけ。あなたは特別なの。心を持っているから」
そう、ガブは普通のゴブリンではない。人間の心と、魔物の体を併せ持つ、世界でたった一人の存在。だからこそ、彼はどこへ行っても「異邦人」なのだ。
「オレ、一人ぼっちか?」
「いいえ。私がいるわ」
私は彼の手を強く握った。
「私たちが、お互いの『同族』よ。種族なんて関係ない。魂の形が似ているもの」
ガブは鼻をすすり、私の手を握り返した。
「うん。リゼがいれば、いいや」
私たちは再び歩き出した。地下迷宮の闇はさらに深く、濃くなっていく。「ガブの同族?」という問いに対する答えは、残酷な「NO」だった。けれど、その痛みが、私たちの絆をより強固なものにした。
しかし、逃げていった穴居ゴブリンたちが、ただ逃げただけではないことを、私たちはまだ知らなかった。彼らは呼びに行ったのだ。この地下を支配する、もっと恐ろしい「主」を。




