EP36
105:魔物の言葉、森の言葉
案内された「世界樹の枝」は、想像を絶する大きさだった。「枝」と呼ばれているが、それは一つの巨大な森のようだった。遥か上空、雲を突き抜ける本隊の「世界樹」から分かれた一本の枝が、地上に根を下ろし、独立した生態系を作っているのだ。
だが、その神々しい巨木は、悲鳴を上げていた。
「酷い」
私は根元に立ち、呆然と見上げた。樹皮は灰色に変色し、所々から黒い粘液が涙のように滲み出している。葉は茶色く枯れ、舞い落ちる音だけが乾いたリズムを刻んでいた。
「これが我らの守護樹だ」
ファレルが沈痛な面持ちで言った。
「半年前から急激に衰え始めた。我らエルフの魔術師たちが総出で治癒魔法をかけているが、まるで効果がない。魔力を注げば注ぐほど、逆に腐敗が進むのだ」
「それはそうよ」
私は即座に答えた。
「原因は『魔力不足』じゃない。『魔力循環の不全』だもの。詰まっているパイプに水を流し込んだら、破裂するだけよ」
私は杖――先ほど返してもらった愛用の杖――を振り、『真実の眼』を最大出力で起動した。視界が色彩を帯びた情報の渦に変わる。
見える。地下深くから、赤黒いノイズが這い上がってきている。それは木の導管を塞ぎ、正常なマナの流れを阻害し、腐らせている。やはり、私の仮説通りだ。
「地下ね。かなり深い場所に、このノイズの発生源がある」
私は地面を指差した。
「ノイズ?」
ファレルが眉をひそめた。
「我らには何も聞こえん。森の声を聞くことにかけては、人間ごときに劣るとは思わんが」
エルフのプライドだ。彼らは自分たちが最も森に近い種族だと自負している。だが、それが盲点なのだ。
「あなたたちの使う『森の言葉』は、高等すぎるのよ」
私は指摘した。
「エルフは魔力を使って、植物と『対話』をするでしょう?それは洗練された儀式のようなもの。でも、今この木が発しているのは、もっと原始的な、言葉にならない『痛み』の信号よ」
私は隣にいるガブを見た。彼はさっきから、耳を塞いで顔をしかめている。
「ガブ、聞こえる?」
「うん……うるさい」
ガブが唸るように言った。
「『痛い、痛い、痒い、熱い』って、ずっと叫んでる。地面の下で、何かが根っこを齧ってる音がする」
「なっ」
ファレルが絶句した。
「ゴブリンに森の声が聞こえるだと?馬鹿な。彼らは破壊の徒だぞ」
「違うわ。彼らは『魔物』よ」
私はガブの肩に手を置いた。
「人間やエルフが文明を持つ過程で忘れてしまった、野生の直感。むき出しの生存本能。だからこそ、装飾のない『悲鳴』をダイレクトに受信できるのよ」
エルフは詩で森と語らう。ゴブリンは本能で森を感じる。今の緊急事態に必要なのは、優雅な詩ではなく、泥臭い直感だ。
「齧っている音……それがヒントよ」
私はガブの情報を元に、思考を組み立てた。病気ではない。寄生だ。何らかの生物が、地下で根を食い荒らしている。
「ファレル、地下への入り口はある?」
「あるにはあるが、そこは『古き根の迷宮』だ。入れば二度と戻れぬ禁足地となっている」
「そこへ案内して。戻れぬかどうかは、私たちが決めるわ」
ファレルは躊躇ったが、背後で様子を見守っていたエルウィン長老が、無言で杖を突いた。「行かせよ」という合図だ。
「わかった。ついて来い」
ファレルは不承不承、巨木の裏手へと歩き出した。
私はガブに小声で囁いた。
「すごいわガブ。大手柄よ」
「そうか?ただ、耳鳴りがするだけだぞ」
「その耳鳴りが、この森を救う鍵になるの」
魔物の言葉と、森の言葉。異なる周波数の音を聞き分けることができるこの奇妙なコンビだけが、今、解決への糸口を掴んでいた。
106:意外な通訳者
巨木の根元にぽっかりと開いた洞窟。それが地下へと続く入り口だった。しかし、そこには門番がいた。
入り口を塞ぐように座り込んでいたのは、里の入り口で見かけたあの巨大な『樹人』だった。体半分が黒く変色し、苦しげに喘いでいる。
「どいてくれ、古き友よ」
ファレルが声をかけたが、樹人は反応しない。むしろ、虚ろな目で私たちを睨み、太い枝の腕を振り上げた。
「ヴゥゥゥ……ナカ……ダメ……」
低い唸り声。言葉の断片。正気を失いかけている。
「これ以上近づけば攻撃されるぞ」
ファレルが弓を構えた。
「腐敗が進み、我々の声も届かなくなっている。強行突破するしかないか」
「待って!撃たないで!」
私はファレルの前に手をかざした。
「彼は敵じゃないわ。何かを伝えようとしている」
「だが、言葉が通じない!」
「通訳なら、ここにいるわ」
私はガブの背中を押した。ガブはおっかなびっくり前に出た。
「え、オレ?こいつ、デカくて怖いぞ」
「大丈夫。さっきの木の悲鳴と同じよ。彼もまた、エルフの言葉じゃなく、もっと単純な言葉で話しているはず」
ガブは樹人の前に立った。身長差は五倍以上ある。樹人が唸り声を上げ、巨大な拳を振り下ろそうとした、その時。
「『グルルッ!ガウッ!』」
ガブが喉の奥で、猛獣のような低い声を鳴らした。人間の言葉ではない。ゴブリン語でもない。もっと根源的な、威嚇と宥めを含んだ音。
ピタリ。樹人の動きが止まった。白濁した目が、小さなゴブリンを捉えた。
「『ガルッ、フウゥ……グルル?』」
ガブが首を傾げ、問いかけるような声を出す。
すると、樹人がゆっくりと腕を下ろし、軋むような音を返した。
「ギギィ……ゴゴ……」
奇妙な対話が始まった。エルフたちも、私も、息を呑んで見守るしかない。そこにあるのは、魔素を介さない、魂と魂の直接的なぶつかり合いだ。
数分後。ガブが振り返った。
「わかったぞ」
「何て言ってるの?」
私が尋ねると、ガブは真剣な顔で翻訳を始めた。
「『下に行くな』って言ってる。下に『黒い虫』がいっぱいいるって」
「黒い虫?」
「うん。『石を噛み砕く牙を持った、硬い虫』だ。そいつらが根っこを食べて、毒を撒き散らしてる。こいつは、オレたちが食べられないように通せんぼしてたんだ」
ファレルが目を見開いた。
「我らを守るために?我々は、彼が狂って襲いかかろうとしているのだとばかり」
エルフたちは、樹人の苦痛の声を「攻撃の意思」と誤解していたのだ。あまりに高潔で潔癖な彼らは、汚れたものの真意を読み解くことを恐れていたのかもしれない。
「ありがとう、ガブ」
私は樹人に歩み寄り、その黒く変色した幹に手を触れた。『浄化』。根本治療はできないが、痛みを和らげることはできる。
「オオォ……」
樹人が安堵のため息をつき、ズズズ……と横に移動して道を空けた。そして、その太い指先で、地下の暗闇を指差した。
「リゼ、あいつも『頼む』って言ってる」
ガブが言った。
「自分の足じゃ、虫退治に行けないから。代わりに行ってくれって」
「ええ、任せて」
私は樹人に頷いた。
ファレルが弓を下ろし、複雑な表情でガブを見た。
「ゴブリンよ。礼を言う。我らは友の声を聞き逃すところだった」
「へへん!」
ガブは鼻の下をこすった。
「オレは通訳のプロだからな!あ、でも虫は嫌いだなあ」
意外な通訳者の活躍により、私たちは最大の障害を乗り越えた。敵の正体は『黒い虫』。物理的な実体があるなら、対策の立てようはある。
「一度戻って準備を整えましょう」
私は提案した。
「地下迷宮での戦闘になるわ。食料、明かり、それに対蟲用の装備が必要よ」
長老が静かに頷いた。
「うむ。もはやお前たちは囚人ではない。我らが賓客として迎えよう。里へ戻るがよい」
私たちは樹人に一礼し、地下への入り口を後にした。森の空気が、少しだけ軽くなった気がした。
107:森の集落へ
里への帰路、私たちの扱いは劇的に変わっていた。行きは手縄をかけられた罪人だったが、帰りは里を救う希望の星だ。
ファレルは私とガブを挟むように歩きながら、周囲の部下たちに指示を出していた。
「おい、あそこの枝が邪魔だ。客人が歩きやすいように払っておけ」
「長老の館に連絡。至急、食事と休息の準備を」
その態度の変わり身の早さに、私は苦笑せずにはいられなかった。でも、悪い気はしない。これが実力主義の世界だ。結果を出せば認められる。
私たちは里の中心部、一般のエルフたちが暮らす「居住区」へと案内された。そこは、先ほど通った時とは違う顔を見せていた。遠巻きに見ていたエルフたちの視線に、「恐怖」だけでなく「好奇心」が混ざり始めている。
「あれが、樹人様と話したゴブリン?」
「人間なのに、森の結界を抜けてきた子でしょう?」
「本当に毒を消せるのかしら……」
囁き声が聞こえる中、私たちは長老の住まう最も高い巨木の広間へと通された。
そこは、木の幹をくり抜いて作られた美しい部屋だった。磨き上げられた木の床、柔らかな毛皮のクッション、そしてテーブルには見たこともない色鮮やかな果実や木の実が並べられている。
「座りなさい」
エルウィン長老が席を勧めた。
ガブは目を輝かせた。
「すっげー!これ食べていいのか?」
「ああ、毒見は済んでいる。好きなだけ食うがいい」
ファレルが答えると、ガブは遠慮なく果物に齧り付いた。
「甘っ!うまっ!リゼ、これ『赤土芋』より甘いぞ!」
私も席に着き、花の蜜を溶かした水を一口飲んだ。疲れた体に、優しく染み渡る。
「さて、リゼットよ」
長老が切り出した。
「地下の『黒い虫』。心当たりはあるか?」
「恐らく、『鉱石喰』の一種でしょう」
私は推測を述べた。
「通常は深い地底に住む魔物ですが、何らかの理由で地表近くまで上がってきて、世界樹の魔力を帯びた根を食料にし始めた。彼らは群れで行動し、硬い甲殻を持っています。魔法も弾くかもしれません」
「厄介だな」
ファレルが腕を組んだ。
「狭い地下道では、我らの得意な弓術も制限される」
「そこで、作戦があります」
私はテーブルの上の木の実を並べて、配置図を作った。
「前衛はガブと、あなたたちの中で剣や槍を使える精鋭。後衛は私と、狭い場所でも精密射撃ができる弓手。そして……」
私は作戦を説明しながら、エルフたちとの距離が縮まっているのを感じた。数時間前までは殺し合う寸前だった私たちが、今は一つのテーブルを囲み、同じ敵に向かって知恵を出し合っている。これが「交流」だ。種族の壁も、偏見も、共通の目的と、少しの理解があれば乗り越えられる。
「なるほど。人間にしては悪くない策だ」
ファレルが少しだけ口元を緩めた。
「認めよう、リゼット。お前はただの子供ではない。そしてそのゴブリンも、ただの魔物ではない」
「ガブだ」
ガブが果汁でベタベタになった口で訂正した。
「フン、わかった。ガブ」
ファレルは初めてガブの名前を呼んだ。
その時、広間の入り口に、一人の若い女性エルフが駆け込んできた。
「大変です!樹人様が言っていた『黒い虫』が地下への入り口から溢れ出してきました!」
「なんだと!?」
ファレルが立ち上がった。
「早かったわね」
私も杖を手に取った。
「食事は終わりよ、ガブ。敵が向こうから来てくれたわ」
「おう!デザートは虫退治だ!」
ガブが棍棒を構え、勇ましく叫んだ。
森の集落に、戦いのドラが鳴り響く。休息は一瞬だったが、私たちの心は満たされていた。背中を預けられる仲間が、二人から、里全体へと増えたのだから。




