EP34
99:人間禁止の森
ふわり、と足が地面についた。風魔法『軟着陸』の効果が切れ、私たちは数百年分の落ち葉が積もった柔らかな大地を踏みしめた。
そこは、静寂よりも深い「沈黙」が支配する場所だった。頭上を覆う巨木たちの枝葉が空を完全に遮り、昼間だというのに薄暗い。空気は湿り気を帯び、濃密な魔素の香りが漂っている。
「ここが、『迷いの森』」
私は杖を下ろし、周囲を見渡した。
「リゼ、見て。木が、オレより太い」
ガブが驚いて巨木の根元を叩いた。彼の背丈の倍はある根っこが、まるで大蛇のように地面を這っている。
私は一度、背後の絶壁を見上げた。雲に霞むほどの高さ。あそこから飛び降りたのだ。本来、私たちが目指していたのは、この山脈の東側にある『鉄壁の関所』だった。そこを通れば、正規の手続きで安全に隣国へ入ることができる。だがそれは罠だ。父であるクリスタル公爵の手は、間違いなく関所に回っている。手配書が出回り、検問が強化されているはずだ。あの看板にあった「ゴブリン見つけ次第処刑」という警告も、関所に近づくにつれて現実味を帯びていた。
だから私たちは、道なき道を選んだ。関所を迂回し、誰も通らない(通れない)山脈の頂上を越え、隣国との緩衝地帯となっているこの森へ直接降り立つという、命知らずのルートを。
「これで、関所の兵士たちも出し抜けたはずよ」
私は小さく息を吐いた。
「彼らは私たちが関所に来るのを待ち構えている。まさか、頭上を飛び越えて魔境に入ったなんて夢にも思わないでしょうね」
「へへっ、オレたちの勝ちだな!」
ガブはポンチョを揺らして得意げだ。
しかし、勝負はここからだ。この『迷いの森』は、単なる未開の地ではない。古くから人間たちの間で囁かれる伝説がある。
『森へ入るべからず。そこは人の理が通じぬ、忘れられた種族の庭なり』
その伝説の正しさを、私はすぐに肌で感じることになった。
「空気が、重い」
歩き出して数分。私は胸の苦しさを覚えて立ち止まった。呼吸がしにくいわけではない。周囲の空間そのものが、私を「異物」として拒絶しているような圧迫感があるのだ。
私の『真実の眼』が捉える景色も、今までとは違っていた。木々や草花から発せられるオーラが、私に対して刺々しい形状をしている。一方で、隣を歩くガブに対しては、森の空気が優しく馴染んでいるように見えた。
「リゼ、どうした?顔色が悪いぞ」
ガブが心配そうに覗き込んでくる。
「少し、魔力酔いしたみたい。ここの魔素濃度、人間の国とは桁違いよ」
私は杖を突き、何とか姿勢を保った。
ガブは不思議そうに首を傾げた。
「そうか?オレはすごく元気だぞ。なんか、体中の穴から力が染み込んでくるみたいだ」
彼は深呼吸をし、木漏れ日の中で気持ちよさそうに伸びをした。
魔物であるゴブリンにとって、この濃密な魔素は栄養剤のようなものなのだろう。だが、人間である私にとっては毒に近い。ここは「人間禁止」の領域なのだ。
「気をつけて、ガブ。ここはあなたの故郷の森とも違う。もっと古くて、強い意思を持った森よ」
その時だった。ガサッ。近くの茂みが揺れた。
ガブが即座に反応し、私を背後に庇って棍棒を構えた。
「誰だ!」
現れたのは、一匹の小動物だった。リスに似ているが、体毛がエメラルド色に輝き、額に小さな角が生えている。『角兎』ならぬ『角栗鼠』だろうか。
その小動物は、つぶらな瞳でガブを一瞥すると、興味なさそうにプイッと顔を背けた。そして、私の顔を見た瞬間――。
「キシャーッ!!」
可愛らしい顔が一変、牙を剥いて威嚇音を上げ、全身の毛を逆立てたのだ。明確な敵意。私という「人間」に対する憎悪。
小動物は私の足元に木の実を投げつけ、木の上へと逃げ去っていった。
「痛っ」
木の実が当たったブーツの先がジンジンする。
「なんだ今の!いきなり怒りやがって!」
ガブが木の上に向かって怒鳴るが、私は彼を制した。
「やっぱりね……」
私はため息をついた。
「この森の生き物は、人間を嫌っているわ。ただの動物でさえこれなんだから、もっと知能の高い存在がいたら……」
想像するだけで背筋が寒くなる。関所の兵士からは逃げられたが、私たちは今、さらに強大な「排他的な世界」に迷い込んでしまったのかもしれない。
その予感を裏付けるように、少し進んだ先の巨木の幹に、奇妙なマークが刻まれているのを見つけた。蔦や葉を複雑に組み合わせたような模様。人間の言葉ではない。けれど、その意味は『真実の眼』を通さなくても直感的に理解できた。
『去れ。さもなくば、土に還れ』
人間に対する、明確な警告。
「ガブ、極力、音を立てないで。魔法も控えるわ」
私はローブのフードを深く被り直した。
「私たちは今、敵陣のど真ん中にいるのよ」
100:結界のほころび
警告の印を過ぎてから、森の様相はさらに変化した。木々の配置が、どこか人工的――いや、整然としているのだ。下草は歩きやすく刈り込まれているわけではないが、獣道とは違う「通り道」のような空間が続いている。
「リゼ、なんか変な匂いがする」
先頭を歩くガブが鼻をヒクつかせた。
「甘いような、腐ったような……混ざってる」
「腐敗臭?気をつけて」
私たちは警戒しながら進んだ。やがて、目の前の空間が揺らいでいる場所に突き当たった。透明な膜のようなものが、森を分断するように張られている。
「これは……結界ね」
私は足を止めた。『認識阻害』と『物理防壁』を組み合わせた、高度な術式。普通の人間の目には、ただの森の続きに見えるだろう。だが私の『真実の眼』には、緻密に編み込まれた魔力の壁がハッキリと見えた。この先は誰かの「居住区」だ。
「壁があるのか?オレには見えないぞ」
ガブが手を伸ばそうとする。
「触らないで!焼かれるわよ」
私が鋭く警告すると、ガブは慌てて手を引っ込めた。
「この結界、強力だわ。恐らく、この森の住人――『エルフ』か、それに近い種族が張ったものね」
人間嫌いで有名な長寿の種族。もしそうなら、交渉は困難を極める。
だが、私が注目したのは結界そのものではなく、その「一部」だった。ガブが言っていた「腐った匂い」の発生源。結界の下部、地面に近い部分が、黒くドロリとした粘液のようなものに侵食され、穴が開いているのだ。
「結界のほころび……」
私はしゃがみ込み、距離を取って観察した。黒い粘液は、結界の魔力を貪り食うようにジワジワと広がっている。『真実の眼』で解析する。――呪い。あるいは、病魔。自然発生したものではない。何者かが意図的に、あるいは外部から持ち込んだ「穢れ」だ。
「リゼ、これ、気持ち悪い。見てるだけで寒気がする」
ガブがポンチョの襟を合わせた。本能的に危険を感じ取っているようだ。
「ええ。これは森の住人が作ったものじゃない。むしろ、彼らが防ごうとしている『外敵』の仕業かもしれないわ」
結界に穴が開いているということは、ここから侵入できるということだ。だが、同時にここから「何か」が入り込んだ可能性も高い。
その時。ヒュンッ!風を切る音がした。
「危ない!」
ガブが反応するより早く、私は展開しておいた『風の盾』を発動させた。カァン!硬質な音が響き、私の目の前で「矢」が弾かれた。
「侵入者め!」
凛とした、しかし冷徹な声が頭上から降ってきた。
見上げると、周囲の木々の枝の上に、数人の人影が立っていた。森の色に溶け込む緑や茶色の服。長い耳。手には美しい曲線を描く弓。エルフだ。伝説通りの、森の守護者たち。
彼らは一斉に弓を引き絞り、私たち――特に私に向けて狙いを定めていた。その矢じりは、鋭く光り、魔力を帯びている。
「穢れを持ち込みし人間よ。そして、それに従う愚かなゴブリンよ」
リーダー格と思われる、銀髪の長いエルフの青年が、氷のような視線で見下ろしてきた。
「我らが聖域をこれ以上汚すことは許さん。ここで土に還るがいい」
誤解だ。私たちは今来たばかりで、この黒い汚れとは関係ない。そう言いたいが、彼らの目には「問答無用」の色が浮かんでいる。私の『真実の眼』には、彼らの心の色が「恐怖」と「怒り」で真っ赤に染まっているのが見えた。彼らは怯えているのだ。この「ほころび」の原因に。そして、タイミング悪く現れた私たちを、その元凶だと決めつけている。
「待ってください!私たちは!」
私が声を張り上げようとした瞬間、青年が手を挙げた。次の一斉射撃の合図だ。
まずい。戦えば勝てるかもしれない。でも、エルフを殺せば、この森での未来は閉ざされる。隣国へ抜ける道も失う。かといって、殺されるわけにはいかない。
どうする?リゼット。公爵令嬢としての交渉術?通用しない。彼らは人間を敵視している。魔法使いとしての威圧?火に油だ。
その時、私の脳裏に一つの「演技プラン」が閃いた。かつて、私が生き延びるために屋敷で使い続けてきた、最強の仮面。それを、ここで使うしかない。
私はガブの袖を掴み、小声で早口に囁いた。
「ガブ、抵抗しないで。武器を捨てて。私が何とかするから、話を合わせて」
「え?でも」
「いいから!『迷子のふり』をするのよ!」
101:迷子のふり
私は杖をわざとらしく取り落とした。カラン、と乾いた音が響く。
そして、両手を上げてガタガタと震え始めた。目は大きく見開き、涙を溜める。呼吸を浅く、乱れさせる。『真実の眼』で見える自分のオーラさえも、魔力制御で極限まで薄く、弱々しいものに偽装する。
「ひっ!ご、ごめんなさい!撃たないでぇっ!」
裏返った、情けない悲鳴。先ほどまでの冷静な魔法使いの面影はどこにもない。そこには、森に迷い込み、恐怖で錯乱したただの無力な少女がいた。
エルフたちの動きがピタリと止まった。射撃のタイミングが狂ったのだ。彼らは「侵略者」を想定していた。魔法で対抗してくる強敵を。だが目の前にいるのは、武器を捨てて泣き叫ぶ子供だ。高潔なエルフの戦士として、無抵抗の子供を射殺すのは躊躇われる。
「な……なんだ、その様は」
リーダーの青年が眉をひそめた。
「道に迷ったんですぅ……ううっ、お父様に怒られて、家出したら、崖から落ちて……気がついたらここに……」
私は嘘八百を並べ立てた。半分は本当だが、文脈が違う。
「怖いよぉ……お家に帰りたいよぉ……」
私は地面にへたり込み、顔を覆って泣き真似をした。チラリと指の隙間からガブを見る。ガブは目を白黒させていた。
「リゼ、どうしたんだ?頭打ったのか?」
という顔をしている。
私はガブの足をこっそりつねった。
(あんたもやるのよ!)
と目で訴える。
ガブはハッとして、慌てて棍棒を放り投げた。そして、どう演技していいかわからず、とりあえず両手を上げてバンザイのポーズをした。
「オ、オレも迷子だ!道わかんない!リゼは友達!悪いことしない!」
大根役者にも程がある。だが、その不器用さが逆に「知能の低いゴブリンが、人間に懐いているだけ」というリアリティを生んだ。
エルフたちが顔を見合わせた。殺気の色が薄れ、困惑の色が広がる。
「隊長、どうしますか?魔力は感じますが、微弱です。脅威とは思えません」
部下の一人が囁いた。
よし、かかった。私は「無害な弱者」を演じることにかけては、誰にも負けない。十年間、あの屋敷で殺されないために磨き続けたスキルだ。
リーダーの青年が木から飛び降り、私たちの前に着地した。彼は鋭い眼光で私を見下ろした。まだ疑っている。当然だ。私が持っていた杖は、上質な魔導具だからだ。
「その杖はなんだ?ただの子供が持つものではない」
彼は切っ先を私の鼻先に突きつけた。
「こ、これは……お母様の形見なんですぅ!大事なお守りなんです!」
私は杖にしがみついて泣いた。「形見」「母」というワードは、情に厚い種族には効くはずだ。
青年はしばらく私を観察していたが、やがてふぅと息を吐き、剣を引いた。
「殺す価値もないか」
侮蔑。それでいい。軽んじられることこそが、今の最大の防御だ。
「だが、解放するわけにはいかない。貴様らが結界の『穢れ』と無関係だという証拠がない」
彼は部下たちに合図をした。
「拘束しろ。里へ連行し、長老の判断を仰ぐ」
エルフたちが私たちを取り囲み、蔦でできた縄で手首を縛り上げた。私は抵抗せず、大人しく縛られた。ガブも「痛くない?」と聞かれ、「うん、大丈夫」と答えて縛られている。
(とりあえず、即時処刑は免れたわね)
私は心の中で舌を出した。里へ連れて行かれるのは好都合だ。この森を抜けるには、彼らの協力か、あるいは知識が必要になる。それに、あの「結界のほころび」について、恩を売るチャンスがあるかもしれない。
「歩け、人間」
背中を小突かれ、私たちは森の奥へと連行され始めた。
私は涙を拭うふりをして、ガブにウインクを送った。ガブはまだ状況が飲み込めていないようだったが、私の落ち着いた色を見て、少し安心したようにニッと笑い返した。
迷いの森の旅は、手錠をかけられた状態からスタートすることになった。だが、これは私の計算通り……半分くらいは。
森の奥から、美しいけれど、どこか悲痛な笛の音が聞こえてきた。忘れられた種族たちの嘆きが、そこにはあった。




