EP33
96:半分こ
北嶺山脈の天候は、気まぐれな暴君のようだった。さっきまで晴れ間が見えていたかと思えば、次の瞬間には視界を奪うほどの猛吹雪が襲いかかってくる。
「ガブ!離れないで!」
「おう!リゼの背中はオレが見てる!」
私たちは轟音を立てる風雪の中、互いのポンチョの端を掴み合いながら、雪の斜面を這うように進んでいた。足元の雪は深く、一歩踏み出すたびに膝まで埋まる。体温は容赦なく奪われ、まつ毛が凍りついて視界が狭まる。
予定では三日で越えるはずだった峠道だが、この悪天候で足止めを食らい、すでに五日が経過していた。宿場町で買った保存食も、底をつきかけている。
「あそこ!岩陰がある!」
私は風の切れ目に、黒い岩の裂け目を見つけた。私たちは転がり込むようにして、その小さな洞窟へと避難した。
ヒュオオオオ。外では風が唸り声を上げているが、中は嘘のように静かだった。湿った冷気が漂う狭い空間。私たちは肩を寄せ合い、震える手で小さな焚き火を起こした。限られた燃料を燃やす、頼りない灯火だ。
「はぁ……はぁ……生きた心地がしないわね」
私はポンチョについた雪を払い、凍えた手を火にかざした。
「ガブ、大丈夫?」
「ん。鼻が凍って取れそうだけど、まだついてる」
ガブは自分の鼻をつまんで確認し、ニカッと笑おうとして顔を引きつらせた。寒さで表情筋が固まっているのだ。
「何か食べましょう。体温を上げないと」
私はリュックの中を探った。手探りで指に触れたのは、最後の硬焼きビスケットが一枚だけ。干し肉も、あの美味しかった赤土芋も、昨日の夜に食べ尽くしてしまった。
私はその一枚を取り出し、焚き火の明かりに照らした。手のひらサイズの、なんの変哲もない乾パン。今の私たちには、これが最後の生命線だ。
「これだけか」
ガブがゴクリと喉を鳴らした。彼のお腹が、グゥ〜と情けない音を立てる。ゴブリンの代謝は高い。私よりもずっとエネルギーを必要としているはずだ。しかも、彼は雪道を歩く際、私の足場を作るために先頭に立って体力を消耗している。
「ガブ、これ食べなさい」
私はビスケットを彼に差し出した。
「私はあまりお腹が空いてないの。あなたが倒れたら困るから」
『真実の眼』で見なくてもわかるバレバレの嘘だ。ガブはビスケットをじっと見つめ、それから首を横に振った。
「いらない。リゼが食え」
「何言ってるの。あなたが一番動いてるじゃない」
「リゼは人間だ。人間は弱い。リゼが死んだら、オレは一人になる。それは嫌だ」
彼は頑固に受け取ろうとしない。お互いに譲り合い、ビスケットが行き場をなくして空中で止まる。極限状態での譲り合い。それは美しいかもしれないが、今は非効率だ。
「じゃあ、こうしましょう」
私はビスケットを両手で持ち、真ん中に親指を添えた。パキッ。乾いた音がして、ビスケットは二つに割れた。少し大きさが不揃いになってしまった。右側の方が、ほんの少しだけ大きい。
「大きい方をガブ。小さい方を私」
私は大きい欠片を彼に押し付けた。
「これなら文句ないでしょう?」
ガブは欠片を受け取り、じっと見つめた。そして、自分の持っている欠片の端を少しかじり取って口に入れ、残った部分を私に見せた。
「これで、同じ大きさだ」
彼はニシシと笑った。
「ハンブンコ、だ」
私の胸の奥が、熱いもので満たされた。半分こ。それは単に食料を分けることではない。空腹も、寒さも、不安も、そして生きる希望も。すべてを等分に背負うという契約。
「そうね。半分こね」
私は自分の分の欠片を口に入れた。ボソボソして、味気ない小麦の塊。けれど、口の中で溶かしていくと、ほのかな甘みが広がった。今まで食べたどんな高級菓子よりも、深く、尊い味がした。
「うまいな、リゼ」
「ええ、最高に美味しいわ」
私たちは焚き火を挟んで、大切に大切に、最後の食料を咀嚼した。外の吹雪はまだ止まない。けれど、今の私には確信があった。この小さな相棒と一緒なら、どんな冬も越えられる。私たちは主従でも、ただの道連れでもない。喜びも苦しみも「半分こ」にできる、対等なパートナーなのだから。
私の『真実の眼』が、焚き火の向こうで揺れるガブの色を捉えた。その色は、揺るぎない黄金色。そして私の色もまた、彼と同じ色に染まり始めている気がした。
97:言葉はいらない
翌朝、奇跡的に風が止んだ。空は突き抜けるような群青色。新雪が太陽の光を反射して、目が眩むほどの銀世界が広がっている。
「行くわよ、ガブ。天気がいいうちに峠を越える」
「おう!」
私たちは洞窟を出て、再び雪原へと足を踏み出した。目指す峠の頂上までは、あと少し。しかし、山の天気は変わりやすいだけでなく、静寂こそが最大の罠であることを、私たちはすぐに思い知らされた。
ザッ、ザッ、ザッ。雪を踏む音だけが響く静寂の中。私の背筋に、冷たい電流が走った。
(……囲まれた)
声には出さない。私の視線がわずかに動いたのを、隣のガブは見逃さなかった。彼もまた、歩調を変えずに棍棒のグリップを握り直している。
白い雪に紛れて、白い影が動く。
『雪原狼』の群れだ。高い知能と連携を持ち、獲物を音もなく包囲して狩る、雪山の殺し屋たち。その数、六匹。
普通なら、ここで「逃げて!」とか「右だ!」と叫ぶところだろう。だが、私たちは言葉を発しなかった。雪山での大声は雪崩を誘発する恐れがあるし、何より言葉を交わすコンマ数秒のロスが命取りになる。
グルルル。前方の岩陰から、リーダー格の狼が姿を現し、牙を剥いた。それが合図だった。
タンッ!左右から同時に二匹の狼が飛びかかってくる。
私は動かない。なぜならそこはガブの守備範囲だからだ。
「フンッ!」
ガブが短い呼気と共に踏み込む。右手の棍棒が一閃。右から来た狼の顎を正確に打ち抜く。同時に、左手の「鍋のふたの盾」で、左から来た狼の突進を受け止めて弾き返す。
その隙に、私は詠唱を完了させていた。狙うは正面のリーダー。
「『火矢』!」
私の杖から放たれた炎の矢が、リーダーの眉間に突き刺さる。雪原狼は火を極端に恐れる。キャンッ!リーダーが悲鳴を上げて後退する。
統率が乱れた瞬間、残りの三匹が背後から私を狙った。私は振り返らない。ガブがすでに、私の背中を守る位置に移動しているのを知っているからだ。
ドガッ!バキッ!背後で鈍い音が響く。ガブが私の死角を完全にカバーし、襲い来る牙を棍棒で叩き落としている音だ。
私はその信頼に応えるべく、追撃の魔法を放つ。今度は範囲魔法だ。
「舞え、『旋風』!」
鋭い風の刃が雪を巻き上げ、狼たちの足元の雪面を切り裂く。足場を失った狼たちが、無様に転がり落ちていく。
勝負あり。リーダーが負傷し、地の利を失った群れは、遠吠えを残して撤退していった。
静寂が戻る。戦闘時間、わずか数十秒。私たちは一度も言葉を交わさなかった。指示も、確認も、警告もなし。ただ、呼吸を合わせ、お互いの色が動く方向を感じ取って動いただけ。
ガブが棍棒を腰に戻し、私の方を向いた。怪我はないか、と目で問うてくる。私は小さく頷き、杖を下ろした。
『真実の眼』に映る私たちの連携は、まるで一本の糸で繋がれた操り人形――いや、二つの体が一つの意志で動く、完璧なユニゾンのようだった。私の思考がガブに伝わり、ガブの直感が私に伝わる。かつて、言葉巧みに嘘を重ねる貴族社会に生きていた私は、「言葉」がいかに不確かで、脆いものかを知っている。けれど今、ここにあるのは「言葉のいらない」絶対的な信頼関係だ。
「行くぞ」
ガブが短く言った。
「ええ」
それだけで十分だった。私たちは再び歩き出した。雪の上に残された二人の足跡は、乱れることなく、寄り添うように続いていた。
98:信頼の形
ついに、その時が来た。急な斜面を登りきった先、視界が一気に開けた。
「着いた!」
私は肩で息をしながら、目の前の光景に立ち尽くした。
北嶺山脈の峠、標高三千メートル。そこからは、世界が見渡せるようだった。背後には、私たちが逃げてきた南の国。灰色の雲に覆われ、小さく見える。そして前方には――。
「うおおお!」
ガブが身を乗り出した。
「リゼ、見ろ!森だ!すっげえ深い森だ!」
眼下に広がっていたのは、見渡す限りの緑の海だった。『迷いの森』。人間が立ち入ることを許されない、古き種族たちが住まう未踏の地。南の国とは植生がまるで違う。巨木が立ち並び、雲海のように霧が漂っている。
ここが国境だ。この崖を降りれば、もう父の手は届かない。公爵家の権力も、教会の追っ手も、ここでは無意味だ。
「本当に、来ちゃったのね」
私は震える手で、自分の胸元を握りしめた。安堵と、寂しさと、未知への恐怖がない交ぜになった感情。
しかし、最後の難関が待っていた。峠から森へと降りる道は、断崖絶壁によって寸断されていたのだ。かつてあった吊り橋は朽ち果て、遥か下の谷底へと消えている。
「道がないぞ」
ガブが崖下を覗き込んで言った。
「落ちたら、ペチャンコだ」
「飛ぶしかないわね」
私は風の魔力を練り上げた。『浮遊』と風魔法を組み合わせれば、滑空することはできる。だが、今の私の残りの魔力では、一人分を支えるのがやっとだ。二人同時に飛ぶには、魔力が足りない。
かといって、ガブを置いていくわけにはいかない。どうする?
私が迷っていると、ガブがポンチョを脱ぎ捨て、私の前に背中を向けた。
「リゼ、乗れ」
「え?」
「オレにおぶされ。オレが崖を降りる」
「無理よ!この垂直な壁をどうやって……」
「できる。オレの手と足を見ろ」
見ると、ガブの手足の爪が、鋭く伸びていた。それに、ゴブリン特有の身体能力。岩肌に張り付き、猿のように降りることができるかもしれない。だが、もし手が滑れば、二人とも即死だ。
「リゼ、信じろ」
ガブが振り返った。その瞳は、一点の曇りもなく私を見ていた。
「リゼの魔法は、最後の着地のために取っておけ。それまでは、オレがリゼを運ぶ」
命を預ける。文字通り、私の命を彼に預ける提案だ。魔法使いである私が、何もできない無防備な荷物になる。貴族としてのプライド、人間としての優位性、それら全てを捨てて、一匹のゴブリンの背中にしがみつく。
怖いか?いいえ。『真実の眼』に映る彼の背中は、どんな屈強な騎士よりも頼もしく見えた。
「わかったわ」
私は杖をリュックに固定し、ガブの背中に飛びついた。彼の体は小さくて硬く、そして温かかった。
「しっかり捕まってろよ!舌噛むなよ!」
ガブが叫び、崖へと身を躍らせた。
ヒュッ!内臓が浮くような浮遊感。ガキィッ!ガブの爪と足が岩肌を捉え、衝撃が走る。私たちは垂直の壁にへばりついた。
「よし、行くぞ!」
ガブは驚異的なスピードで、岩の突起から突起へと飛び移りながら降下していく。私は目を閉じたくなったが、開けていた。彼の選ぶルート、彼の筋肉の動き、その全てを目に焼き付けたかった。
風が轟々と耳元で鳴る。でも、不思議と恐怖はなかった。彼と密着している胸の鼓動が、トクン、トクンと力強くリズムを刻み、それが私を落ち着かせてくれた。
これが「信頼の形」だ。言葉も契約もいらない。ただ、相手の背中に全てを委ね、相手もそれに応える。その物理的な重みと温もりこそが、私たちがここまで旅をして築き上げたものの正体だった。
数百メートルの絶壁を降りきり、地面が近づいてくる。最後の数メートル。
「リゼ、今だ!」
「ええ!風よ、我らを包め!『軟着陸』!」
私は温存していた魔力を解放した。ふわり、と風のクッションが私たちを包み込む。
トンッ。私たちは落ち葉の積もった『迷いの森』の地面に、音もなく着地した。
「着いた」
ガブが私を下ろし、へなへなと座り込んだ。
「腕、パンパンだ」
「ありがとう、ガブ。すごいわ、あなた」
私は彼の手を取った。岩肌で擦りむけ、血が滲んでいるその手を、回復魔法で癒やす。
私たちは立ち上がり、上を見上げた。遥か高くに、白い山嶺が壁のようにそびえている。あそこを越えてきたのだ。
「さよなら、お父様」
私は山に向かって呟いた。もう、あの家は私の帰る場所ではない。
そして、くるりと回れ右をして、目の前に広がる深い森を見た。樹齢数百年はありそうな巨木たち。見たこともない色の花。漂う濃密なマナの気配。ここからが、新しい世界。
「行こう、リゼ!なんか甘い匂いがするぞ!」
ガブが鼻をヒクつかせ、元気よく歩き出す。その首には、赤いスカーフが誇らしげにはためいていた。
「ええ。私たちの冒険は、これからよ」
私は杖を握りしめ、相棒の後を追った。もう迷いはない。私の瞳には、真実の未来が映っているのだから。




