EP31
90:触れない優しさ
看板をへし折った後、私たちは言葉少なに歩き続けた。空からは白いものがチラチラと舞い降り、乾いた地面を薄っすらと白粉のように染め始めていた。初雪だ。北の冬は、挨拶もなしに突然やってくる。
日が暮れ、私たちは街道から少し離れた岩場の陰で野営することにした。風除けの結界を張り、小さく火を焚く。パチパチと爆ぜる焚き火の音が、雪の吸い込むような静寂の中で唯一の音楽だった。
「寒いな」
ガブが火に手をかざしながら呟いた。彼は赤いスカーフを鼻まで引き上げ、マントに包まっている。ゴブリンは変温動物的な性質が少し残っているのか、寒さには弱いようだ。
「くっついてもいいわよ」
私はスープを温めながら言った。
「体温を分け合った方が効率的だわ」
以前の私なら、ゴブリンと肌を接して寝るなんて気絶していただろう。だが、今の彼なら背中を預けられる。
しかし、ガブは首を横に振った。
「いや、いい。オレ、こっちで丸くなる」
彼は焚き火の反対側に座り直した。拒絶されたのかと思い、私は少し驚いた。
「どうして?遠慮してるの?」
「違う」
ガブは炎を見つめたまま、ボソリと言った。
「リゼ、怖いんだろ?」
「え?」
「誰かに触られるの。特に、見えない後ろ側から」
ガブの視線が、一瞬だけ私の背中――ローブの下にある古傷の方へと向けられた。
「さっき、温泉でオレが背中に触った時、リゼの体、石みたいに硬くなってた。『ビクッ』てしてた」
私は言葉を失った。気づかれていたのか。あの時、彼は「傷があっても好きだ」と言ってくれた。その言葉に救われたのは事実だ。けれど、体は正直だ。長年染み付いた「痛みへの恐怖反射」は、そう簡単に消えるものではない。誰かが背後に立つ気配、触れられる感触。それだけで、無意識に筋肉が強張り、心拍数が跳ね上がってしまう。
「オレはゴブリンだから、細かいことはわかんないけど」
ガブは枝で火を突きながら続けた。
「嫌なことはしない。リゼが『もう平気』って体で言うまで、オレは触らない。近くにはいるけど、くっつかない」
それは、彼なりの不器用で、最大限の配慮だった。「守る」というのは、敵を倒すことだけではない。相手の心の平穏を守ることも含まれるのだと、この小さな魔物は本能で理解しているのだ。
私の『真実の眼』に映るガブの色は、温かいオレンジ色をしていた。欲望も、打算もない。ただ純粋な、日だまりのような色。
「ありがとう、ガブ」
私はスープの入ったカップを彼の方へ滑らせた。
「その『触れない優しさ』に、救われるわ」
「優しさ?よくわからん。オレはただ、リゼにぐっすり寝てほしいだけだ。目の下にクマがあるぞ」
ガブはカップを受け取り、フーフーと息を吹きかけた。
私たちは火を挟んで、適度な距離を保って座った。手は届かない。肌も触れ合わない。けれど、焚き火の熱と、お互いの信頼感が、その隙間を埋めていた。
父は、私の心に踏み込み、土足で荒らし回った。母は、私に触れることを恐れて遠ざかった。社交界の男たちは、私の体や家柄に触れようと手を伸ばしてきた。
私の境界線を尊重してくれたのは、皮肉にも人間ではなく、このゴブリンが初めてだったかもしれない。
「ガブ、寒くない?」
「スープ飲んだら温まった。それに、この赤い布が守ってくれてる」
彼はスカーフを自慢げに撫でた。
夜が更けていく。私は岩壁に背中を預けて目を閉じた。ガブが見張りをしてくれている。彼は私の視界の外、背中側ではなく、必ず私から見える位置に座ってくれている。その気遣いに包まれて、私は久しぶりに、悪夢を見ずに眠りにつくことができた。
91:湯上がりの牛乳
翌朝、空は快晴だった。昨夜の雪はうっすらと積もった程度で、日差しを浴びてキラキラと輝いている。空気は冷たく澄んでいて、深呼吸すると肺が浄化されるようだ。
「ん〜っ!いい朝!」
ガブが大きく伸びをした。
「リゼ、腹減った。何かうまいものないか?」
「昨日の残りしかないわね……あ、待って」
私は街道の先、丘の上に小さな煙突を見つけた。一軒家だ。牧場のようにも見える。
「あそこで何か譲ってもらいましょう。新鮮な食料が手に入るかも」
私たちは丘を登った。近づくと、そこは老夫婦が営む小さな牧場だった。数頭の牛がのんびりと草を食んでいる。
ガブは目立つので、少し離れた木陰で待機させ、私一人で交渉に向かった。男装の少年を演じ、「旅の途中でお腹を空かせている」と伝えると、親切な夫人が焼きたてのパンと、搾りたての牛乳を分けてくれた。もちろん、適正な代金は支払ったが。
「ガブ、戻ったわよ」
私は戦利品を抱えて戻った。大きな瓶に入った、温かい牛乳。まだ湯気が立っている。
「なんだその白い水は?」
ガブが不思議そうに瓶を覗き込む。
「濁ってるぞ。泥水か?」
「失礼ね。これは牛乳。牛のお乳よ。栄養満点で、とっても美味しいの」
私は木陰に腰を下ろし、二つの木製カップに注いだ。
「そういえば、昨日の温泉の後、バタバタしてて何も飲めなかったでしょう?」
私はカップをガブに渡した。
「私の国ではね、お風呂上がりには冷たい牛乳、あるいは寒い朝には温かい牛乳を飲むのが最高のご馳走なのよ」
「お風呂の後の、儀式か?」
「そう、儀式よ。昨日は『蒸気蛇』のせいで台無しになったけど、ここでやり直しよ」
ガブは「儀式」という言葉に弱い。彼は神妙な顔つきでカップを両手で包み込んだ。
「いただきます」
ゴクリ。ガブが一口飲んだ。その瞬間、彼の目がまん丸に見開かれた。
「!!!」
彼は言葉を発さず、二口、三口と一気に飲み干した。そして、プハァッ!と大きく息を吐き、口の周りに白い髭を作って叫んだ。
「あまーい!!」
ガブが感動に打ち震えている。
「なんだこれ!肉じゃないのに濃厚!水じゃないのにトロトロ!喉が温かくて、胃袋が笑ってる!」
「ふふ、気に入った?」
「すごいぞリゼ!これ、魔法の薬か?力が湧いてくる!」
私も一口飲む。濃厚なコクと、優しい甘み。砂糖なんて入っていないのに、心が解けるような甘さがある。貴族の屋敷で飲んでいた高級なミルクよりも、この寒空の下で飲む一杯の方が何倍も美味しく感じるのはなぜだろう。
「これが『湯上がりの一杯』昨日の温泉とセットで、体が完成した気がする」
ガブは空になったカップを名残惜しそうに舐めた。
「リゼ、もう一杯くれ」
「はいはい。パンもあるから、一緒に食べましょう」
私たちは雪の残る草原に座り、白い息を吐きながら朝食をとった。遠くで牛が「モー」と鳴いている。平和だ。追っ手の気配も、魔物の殺気もない。ただ、温かいミルクと、焼きたてのパンと、頼もしい相棒。
「ねえガブ。私たちが無事に国境を越えて、新しい生活を始めたら」
私はパンを千切りながら言った。
「毎朝、こうやって温かいミルクを飲みましょうか」
「おう!絶対だ!」
ガブが目を輝かせた。
「オレ、牛を飼うのもいいな。名前は『ステーキ』にする」
「食べる気満々じゃない……」
そんな他愛のない会話。けれど、それは「未来」の話だった。明日死ぬかもしれない逃亡生活の中で、私たちは初めて具体的な、そして平和な未来の約束をしたのだ。
温かいミルクは、冷えた体を芯から温めてくれただけでなく、私たちの希望という灯火に油を注いでくれたようだった。
92:冬の気配
至福の朝食タイムを終え、再び歩き出すと、世界の色が変わったような気がした。いや、実際に変わり始めていた。
丘を越え、視界が開けた瞬間、私たちの足が止まった。目の前に広がる光景に、息を呑んだからだ。
「でかい」
ガブが口を開けたまま呟いた。
地平線の向こうに、巨大な壁のような山脈がそびえ立っていた。『北嶺山脈』。この国と隣国を隔てる天然の要害であり、私たちが目指す『鉄壁の関所』がある場所だ。
その山々は、すでに真っ白だった。麓の雪はまだ斑だが、山頂付近は分厚い雪雲に覆われ、見るからに厳しい吹雪が吹き荒れているのがわかる。風に乗って運ばれてくる空気の味が、明らかに変わった。鋭く、冷たく、そして鉄の味がする。
「冬の気配……いいえ、冬そのものね」
私はローブの襟を合わせた。ここから先は、単なる旅ではない。自然との戦いだ。
「あそこを登るのか?」
ガブが山頂付近を指差した。
「あんな白いところに行ったら、オレ、凍ってアイス・ゴブリンになっちゃうぞ」
「頂上までは登らないわ。中腹にある峠を越えるの。でも、それでも厳しい道のりになる」
私は『真実の眼』を凝らして、遠くの山を見た。魔力の流れが見える。山脈全体が、強大な冷気の魔力を帯びている。そして、所々に淀んだ気配――強力な魔物の巣窟があることも見て取れた。
「ガブ、装備の点検をしましょう」
私は言った。
「今のままじゃ、あそこで一晩も持たないかもしれない」
ザリアの町で買った服は厚手だが、雪山登山用ではない。毛布、保存食、そして火を起こすための燃料。準備不足は死に直結する。
「金貨はまだある。次の宿場町で、もっと厚い毛皮と、雪用の靴を買うわ」
「わかった。オレも、もっと食料を集める。リスとか、蛇とか」
「できれば普通のお肉がいいけど、贅沢は言えないわね」
私たちは決意を新たに、山脈へ向かう道を急いだ。空の色が、また灰色に沈み始めていた。風が唸り声を上げ、道端の枯れ草を揺らす。
ふと、ガブが空を見上げた。
「リゼ、鳥がいない」
「え?」
「さっきまで鳴いてた鳥が、一羽もいない。虫の声もしない」
動物的勘。彼の警告は、いつも正しい。生き物たちが姿を隠したということは、何かが来るということだ。
「急ぎましょう。天候が崩れるわ」
私が言い終わるか終わらないかのうちに、突風が吹き抜けた。頬を切り裂くような冷たい風。それに混じって、大粒の雪がバシバシと叩きつけてきた。
冬の気配は、もはや「気配」ではなく、実体を持って私たちに襲いかかろうとしていた。目の前の山脈が、まるで巨大な白い魔獣のように、私たちを見下ろしている。
「『鉄壁の関所』まで、あとどれくらい?」
ガブが風に負けないように大声で聞いた。
「順調にいけば三日!でも、この天気だと倍はかかるかも!」
私は杖を突き、体を支えた。
「ガブ、はぐれないで!私の色の見える範囲にいて!」
「おう!この赤いスカーフを目印にしろ!」
ガブが私の前に出た。小さな背中が、風除けになろうとしてくれている。
本格的な冬将軍の到来。そして、その白銀の世界には、自然の猛威だけでなく、人間の悪意もまた潜んでいることを、私たちはまだ知らなかった。
旅の難易度が、一段階上がった音がした。




