EP30
87:湯けむりの攻防
白濁した湯が、ボコッ、ボコッと音を立てて湧き出している。硫黄の匂いが立ち込める湯けむりの中、私たちはつかの間の平和を享受しているはずだった。
「ガブ、潜るなら一気に行きなさい。熱いのは最初だけよ」
私は岩場に身を隠し、タオルをしっかりと巻き直しながら指示を出した。私の『真実の眼』が捉えた光。それは源泉の吹き出し口付近、湯底の泥の中に埋もれていた。おそらく『硫黄結晶』だ。錬金術の素材としても、火属性の触媒としても高値で取引される代物である。
「ん、わかった。オレ、いく!」
ガブが深呼吸をし、意を決して潜った。ブクブクブクと泡が浮かんでくる。
私は湯に浸かりながら周囲を警戒した。極楽気分は捨てていないが、ここは野外だ。無防備な裸である以上、感覚を研ぎ澄ませておく必要がある。
その時。私の肌が、チリリと粟立った。湯の温度ではない。殺気だ。それも、蒸気に紛れた、湿った殺気。
「ッ!」
私は反射的に頭を下げた。ヒュッ!一瞬前まで私の頭があった場所を、白い鞭のようなものが横薙ぎに通過した。
「誰!?」
私は叫びながら、水しぶきを上げて距離を取った。湯けむりの向こう、岩の上に何かがいる。『真実の眼』を向ける。そこに見えたのは、周囲の蒸気と同化するような、白く長い体躯を持つ魔物だった。
『蒸気蛇』。温泉地帯に生息する、熱と湿気を操る蛇だ。その体表は常に高熱の蒸気を纏っており、視認しにくい上に、触れれば大火傷を負う。
「シャァァァ」
一匹ではない。二匹、三匹。岩の隙間から次々と鎌首をもたげている。彼らにとって、私たちは入浴客ではなく、茹で上がった極上の肉に見えているのだ。
「ガブ!敵よ!上がって!」
私が叫んだ瞬間、水面が爆発した。
「ぷはぁっ!とったぞー!キラキラの石……うわっ!?」
戦利品を掲げて飛び出したガブの目の前に、蒸気蛇が牙を剥いて襲いかかった。
「熱っ!なんだこいつら!」
ガブは咄嗟に持っていた石で蛇の鼻先を殴りつけたが、相手はヌルリと身体をくねらせて回避し、ガブの腕に巻きつこうとする。
「させないわよ!『氷弾』!」
私は杖を掴み、即座に魔法を放った。指先ほどの氷の弾丸が、蛇の胴体に直撃する。ジュウッ!激しい音と共に蒸気が晴れ、蛇が悲鳴を上げてのけぞった。熱を帯びた体に氷魔法は効果抜群だ。
「ナイスだ、リゼ!でも、こいつら速い!」
ガブは湯の中で足を取られながらも、必死に応戦している。武器である棍棒は陸に置いてある。今の彼は素手だ。しかも全裸だ。
「こっちに来て!陸に上がったら不利よ!」
私は叫んだ。相手は熱を好む魔物。逆に言えば、冷気には弱い。しかし、私の魔力は昨夜の戦闘で枯渇しかけており、今は少し回復した程度。強力な氷魔法を連発するわけにはいかない。
ならば、この環境を利用するしかない。
「ガブ、お湯をかけなさい!あいつらの顔に!」
「え?こいつら熱いの好きだぞ?」
「目は別よ!熱湯を目潰しにするの!」
私は手近な手桶(持参していたわけではない、岩のくぼみを利用した)でお湯を掬い、迫りくる蛇の顔面にぶちまけた。バシャッ!
「シャァッ!?」
蛇が怯んだ。いくら熱に強くても、粘膜に直接40度超えの湯が入れば驚くし、視界も奪われる。
「なるほど!温泉アタックだ!」
ガブも理解し、両手で激しく水面を叩いて水しぶきを上げた。バシャバシャバシャ!湯けむりと熱湯の嵐に、蛇たちが混乱して鎌首を彷徨わせる。
「今よ!上がって武器を取って!」
私たちはその隙に湯船から飛び出した。外気は冷たい。濡れた体に風が刺さるが、今はそれが心地よい。
ガブは転がるようにして棍棒を掴み、私はローブを羽織って杖を構えた。
「よくもオレの風呂タイムを邪魔したな!」
ガブが怒りの形相で棍棒を振り上げた。
「この石は渡さない!これはリゼへのプレゼントだ!」
彼は右手の棍棒で蛇を殴り飛ばし、左手に握りしめた「キラキラした石」を死守している。あんな状況でも離さなかったのか。
「シャァァッ!」
親玉と思わしき太い蛇が、私に向かって毒の霧を吐き出した。
「風よ!『突風』!」
私は小規模な風を起こして霧を吹き飛ばし、そのまま蛇の頭上にある岩を狙った。風の衝撃で、不安定だった岩が崩れ落ちる。
ドスンッ!落石が親玉の頭を直撃し、蛇はグシャリと潰れて動かなくなった。残った蛇たちは、親玉の死と、急激に冷えていく外気(私が風で周囲の温度を下げた)に恐れをなし、湯の中へと逃げ帰っていった。
「はぁ……はぁ……」
静寂が戻る。残ったのは硫黄の匂いと、私たちの荒い息遣いだけ。
「最低の入浴タイムだったわね」
私は濡れた髪をかき上げ、ため息をついた。ローブの下はタオル一枚。びしょ濡れで、泥も跳ねている。せっかく綺麗になったのに。
「でも、これ、とったぞ」
ガブがニカッと笑い、握りしめていた手を差し出した。そこには、拳大の黄色く輝く結晶石があった。『硫黄結晶』。予想以上に大きく、純度が高い。
「すごいわガブ。これなら新しい装備代どころか、当面の宿代も賄えるわ」
私は彼の頭を撫でようとして――手が止まった。
戦闘の興奮が冷め、湯けむりが風に流されていく。その時、私の目に、あるものが飛び込んできたからだ。
ガブの視線が、私の背中に固定されていた。正確には、濡れたローブが肌に張り付き、透けて見えてしまっている「背中」に。
88:背中の傷跡
気まずい沈黙が流れた。温泉の蒸気だけが、ゆらゆらと私たちの間を漂っている。
私は反射的に背中を隠そうとしたが、遅かった。ガブの目は良い。魔物としての動体視力だけでなく、観察眼も鋭い。彼は見てしまったのだ。私の背中に刻まれた、決して消えない「醜い地図」を。
「リゼ、それ」
ガブが、珍しく躊躇いがちに口を開いた。いつもの彼なら「痛そう」とか「誰にやられた」とストレートに聞くだろう。だが、今の彼の声は震えていた。
「見ないで」
私は短く拒絶し、岩陰に入って着替えを始めた。濡れた体を拭き、新しい下着とチュニックを身につける。手早く、機械的に。けれど、心臓は早鐘を打っていた。
知られたくなかった。彼には「完璧な元令嬢」であり、「頼れる魔法使い」でいたかった。あんな、惨めで屈辱的な過去の烙印を見られたくなかった。
着替えを終えて岩陰から出ると、ガブはまだそこに立っていた。腰布を巻き直し、赤いスカーフを首に戻した彼は、手に入れた結晶石を弄びながら、地面を見つめていた。
「痛くないのか?」
彼がポツリと聞いた。
「もう古傷よ。痛くはないわ」
私は努めて冷静に答え、荷物をまとめた。
「さあ、出発しましょう。湯冷めするわ」
「嘘だ」
ガブが顔を上げた。その瞳は、私の心の奥底を見透かそうとしていた。
「リゼの背中の色、悲鳴を上げてる。紫と、黒と、ドス黒い赤だ。『真実の眼』を持ってるリゼなら、自分の色がわかるだろ?」
私は唇を噛んだ。このゴブリンは、時々鋭すぎる。
「ムチよ」
私は観念して、小さく吐き出した。
「父……クリスタル公爵による、『教育』という名の折檻の跡よ」
ガブが息を呑む気配がした。
「私は生まれつき『真実の眼』を持っていた。人の嘘が見え、本音が見え、隠された罪が見えてしまう目」
私は自嘲気味に笑った。
「貴族社会にとって、そんな子供は邪魔だったのよ。父は私に『余計なことを見るな』『見たことを口にするな』と教え込んだ。私が真実を口にするたびに、背中に一本、また一本と」
背中の皮膚が引きつるような感覚が蘇る。焼けるような痛み。父の冷徹な目。母の見て見ぬふりをする背中。背中の傷は、ただの怪我ではない。私が「人間」として扱われていなかった証だ。
「綺麗なドレスを着て、着飾っていても、中身は傷だらけのボロ雑巾。それが私」
私はガブから視線を逸らした。
「幻滅したでしょう?綺麗なリゼが好きだったのにね」
ガブは黙っていた。やはり、引かれたか。魔物は本能的に、傷ついた個体、弱い個体を避ける傾向がある。あるいは排除する。彼もまた、私を「弱者」と認定したのかもしれない。
ザッ、ザッ。足音が近づいてくる。私は身構えた。
だが、次に感じたのは衝撃ではなかった。温かいものが、私の背中に触れた。ガブの手だ。服の上から、ちょうど傷跡があるあたりを、ポンポンと優しく叩いたのだ。
「リゼは、馬鹿だな」
背後から、呆れたような声が聞こえた。
「は……?」
私が振り返ると、ガブはふてぶてしい顔で鼻をほじっていた。
「オレはゴブリンだぞ?体中、傷だらけだ。ここも、ここも」
彼は自分の腕や胸にある、古傷やカサブタを指差した。
「森で生きてれば、傷なんて当たり前だ。傷がない奴は、戦ってない奴だ。逃げ回ってるだけの臆病者だ」
彼は私の目を真っ直ぐに見た。
「リゼの背中の傷は、リゼが戦った証拠だろ?その『目』で見たものを信じて、親父と戦ったんだろ?」
「戦ったわけじゃ……ただ、耐えていただけよ」
「耐えるのも戦いだ。死なずに逃げ出したのも勝利だ」
ガブは赤いスカーフを風になびかせ、ニカッと笑った。
「オレは、ツルツルの背中のリゼより、傷のあるリゼの方が好きだ。強そうだもん」
涙が出そうになった。この小さな相棒は、私の最大のコンプレックスを、「勲章」だと言ってのけたのだ。どんな慰めの言葉よりも、その単純で乱暴な理屈が、私の胸に突き刺さった。
「ありがとう、ガブ」
私は声を絞り出した。
「あんた、本当に生意気なゴブリンね」
「へへん。リゼの相棒だからな」
彼は拾った『硫黄結晶』を私に放り投げた。
「ほら、これ持ってろ。オレがとった勲章だ。リゼの傷も、勲章だ。お揃いだ」
私は黄色い石を受け取った。まだほんのりと温かい。温泉の熱か、ガブの手のぬくもりか。
私たちは再び歩き出した。背中の傷が消えたわけではない。けれど、その重さは、ずいぶんと軽くなった気がした。
89:リゼの沈黙
温泉地帯を抜け、再び冷たい風が吹く街道へと戻った。空はどんよりとした鉛色。私たちは無言で歩いていた。
いや、正確には「私が」無言だった。ガブは時折、「あそこにキノコがある」だの「雲が魚の形に見える」だのと話しかけてくるが、私は「ええ」「そうね」と短い相槌を打つのが精一杯だった。
さっきのガブの言葉。『傷のあるリゼの方が好きだ』その言葉に救われたのは事実だ。けれど、同時に、心の蓋が開いてしまったようだった。
今まで「生き延びるため」「逃げるため」という目的意識で押し殺していた過去の記憶が、背中の傷を意識したことで、どっと溢れ出してきてしまったのだ。
(お前は化け物だ)(クリスタル家の恥さらしめ)(その目を潰せば、可愛げが出るものを)
父の声。冷たい地下室の匂い。鞭の音。それらがフラッシュバックし、足取りが重くなる。私は「戦った証」と言われて喜んではいけないのではないか。私はただ、無力な子供だっただけではないか。そんなネガティブな思考が渦巻き、言葉を奪っていった。
私の沈黙を、ガブはどう受け取っているだろうか。怒っていると思っているか、それとも呆れているか。
チラリと横を見る。ガブは心配そうな顔で、私の様子を伺っていた。彼は、私がまた「殻」に閉じこもろうとしているのを察知しているのだ。
「リゼ」
ガブが私の袖を引っ張った。
「なんか、食うか?干し肉、まだあるぞ」
「いらない」
私は首を振った。
「じゃあ、歌うか?ゴブリンの歌、教えてやる。『肉、肉、うまい肉〜』ってやつ」
「今はいいわ」
私は拒絶してしまった。彼の優しさが痛い。今の自分の鬱々とした感情の色が、彼に伝染してしまいそうで怖かった。『真実の眼』で見なくてもわかる。今の私は、きっと濁った灰色をしている。
ガブはしょんぼりと肩を落とした。赤いスカーフも、なんだか元気がなさそうに垂れ下がっている。
これじゃいけない。わかっているのに、言葉が出ない。「ごめんね」の一言が、喉につかえて出てこない。
その時。ピタリ、とガブが足を止めた。
「リゼ、止まれ」
彼の声が変わった。いつもの警戒の色ではない。もっと、張り詰めた、恐怖に近い色。
「何?」
私も立ち止まり、杖を構えた。魔物か?追っ手か?
しかし、ガブが見つめていたのは、街道の前方ではなく、道端に立てられた古びた看板だった。雨風に晒され、文字が掠れている木の板。そこには、下手くそな絵と、乱暴な文字でこう書かれていた。
『この先、王都方面。ゴブリン見つけ次第、即刻処刑』
さらにその横には、串刺しにされたゴブリンの頭蓋骨が晒されていた。警告だ。ここから先は、人里の密度が増す。魔物に対する排除の意思も強くなる。
ガブが震えていた。寒さのせいではない。本能的な恐怖だ。仲間が殺され、晒し物にされている光景。彼は自分の首に巻いた赤いスカーフを、無意識に手で隠そうとしていた。
「やっぱり、オレ、行けないかも」
ガブが小さな声で言った。
「オレは、化け物だ。人間と一緒にはいられない。リゼと一緒にいたら、リゼまで殺される」
彼の心の色が、急速に青ざめていく。自信喪失。恐怖。そして、私への配慮からくる「別れ」の予感。
その色が、私の迷いを吹き飛ばした。
私は自分の過去に囚われている場合じゃない。目の前に、私よりもずっと大きな恐怖と戦っている小さな相棒がいるのだ。私が沈黙していたせいで、彼は不安になり、この看板を見て心が折れそうになっている。
私は動いた。ガブの前に立ち、その看板を背中で隠した。
「見なくていい」
私は言った。沈黙を破った私の声は、自分でも驚くほどハッキリとしていた。
「ガブ、顔を上げなさい」
彼は怯えた目で私を見上げた。
「これは、ただの脅しよ。弱い人間が、自分たちを守るために立てた案山子と同じ」
私は杖の先で、看板をコンと叩いた。
「あなたは普通のゴブリンじゃない。『赤いスカーフのガブ』でしょう?私を守って、温泉蛇を倒した英雄でしょう?」
「で、でも……人間は、ゴブリンを殺す……」
「殺させない」
私は断言した。
「誰がなんと言おうと、あなたは私のパートナーよ。もし誰かがあなたを処刑しようとしたら、私がその前に立ちはだかる。私の『魔法』と『嘘を見抜く目』で、あなたを守る」
私は彼の手を強く握った。
「だから、行けないなんて言わないで。私には、あなたが必要なの」
これは、私自身の宣言でもあった。過去の傷に怯え、世間の目を気にして沈黙するのはもう終わりだ。私は父に背き、家を捨て、魔物と手を組んだ「反逆者」なのだから。
ガブの瞳が揺れた。そして、ゆっくりと、その色に「勇気」の赤色が戻ってくる。
「リゼが、守ってくれる?」
「ええ。あなたが私を守ってくれるようにね」
ガブは鼻をすすり、それからゴシゴシと目をこすった。
「わかった。オレ、行く。リゼと一緒なら、怖くない」
彼はスカーフを隠すのをやめ、堂々と胸に広げた。
「よし。じゃあ、こんな看板、こうしてやるわ」
私は杖を一振りし、風魔法で看板を真っ二つにへし折った。バキィッ!乾いた音が響き、不吉な警告文は地面に落ちた。
「行くわよ、ガブ」
「おう!」
私たちは晒された頭蓋骨に一瞥もくれず、その先へと歩みを進めた。私の沈黙はもうない。あるのは、相棒と交わす軽口と、未来への覚悟だけだ。
空から、白いものがチラチラと舞い降りてきた。初雪だ。北の冬が、本格的に始まろうとしていた。




