EP29
84:似合わない、けど
ザリアの町を背にして半日ほど歩いた頃、周囲はすっかり寂れた街道の景色に変わっていた。空は曇天。風は冷たい。けれど、私の足取りはかつてなく軽かった。
ザッ、ザッ、ザッ。新しい革のブーツが、乾いた土を踏みしめる音が心地よい。底が剥がれかけた以前のブーツとは雲泥の差だ。地面の凹凸をしっかりとグリップし、足首を優しく、かつ強固にホールドしてくれる。
「リゼ」
隣を歩くガブが、不満そうに口を尖らせた。
「お前、なんか変だぞ」
「変って何よ。失礼ね」
私はフードの縁を直しながら答えた。
「どこが変なの?」
「その服だ」
ガブは私の全身をジロジロと見た。私が着ているのは、ザリアの古着屋で調達した少年用のチュニックと、厚手のズボン。その上から茶色のローブを羽織っている。銀色の髪は帽子の中に押し込み、顔には煤を少し塗って、わざと薄汚れたように見せている。
「前のヒラヒラした服(ドレスの残骸)の方が、リゼっぽかった。今は、その辺の村の小僧みたいだ」
ガブは正直だ。彼にとっての「リゼ」は、ボロボロでも気品があった公爵令嬢の姿だったのだろう。今の私は、色気もへったくれもない、ただの地味な旅人だ。
「そうね。確かに『リゼ・アルメリア公爵令嬢』には似合わないわ」私は立ち止まり、街道脇の水たまりに自分の姿を映した。そこに映っているのは、性別すら曖昧な、目つきの鋭い子供のような姿。かつて屋敷で着せられていた、最高級のシルクやレース、コルセットで締め付けられたドレスとは対極にある。
でも私は屈伸をした。ズボンが突っ張ることなく、スムーズに膝が曲がる。腕を回す。袖が邪魔することなく、杖を振るえる。
「似合わないかもしれないけど……今の私には、これが一番『馴染む』のよ」
私は水たまりの中の自分に向かって、ニッと笑いかけた。優雅さはない。美しさも減ったかもしれない。けれど、ここには「機能美」がある。生き残るための意思がある。
「ドレスじゃ走れないし、森の中で寝転ぶこともできないわ。今の私たちは『逃亡者』であり『冒険者』なんだから、これでいいの」
ガブはふーんと鼻を鳴らし、赤いスカーフをいじった。
「まあ、いいか。匂いはリゼのままだし」
「匂いで判断しないでよ」
再び歩き出す。以前なら、こんなペースで歩けばすぐに足が痛くなり、ドレスの裾が泥にまみれて悲鳴を上げていただろう。今は違う。私は大股で歩ける。岩場も飛び越えられる。この服は、私を「貴族の呪縛」から物理的に解き放ってくれた。
「それにガブ。あなただって似合ってるじゃない」
私は話題を逸らした。
「その赤いスカーフ」
ガブはパッと顔を輝かせた。
「だろ?これ、オレの宝物だ」
彼は歩くたびに、わざと首を振ってスカーフをなびかせている。
「風が吹くと、バサッてなる。これがカッコいいんだ」
緑色の肌に、鮮烈な赤。本来なら警告色のような組み合わせだが、不思議と彼にはマッチしていた。まるで、絵本に出てくる小さな英雄のようだ。
「似合わない格好の元令嬢と、洒落たスカーフのゴブリン。ふふ、変なコンビ」
私がクスクス笑うと、ガブもつられて笑った。
「変でいい。強いからいい」
街道の先には、灰色の山脈が見え始めていた。北へ向かうにつれ、風は冷たさを増していく。以前の私なら寒さに震えていたはずだが、厚手のズボンとローブのおかげで体温は保たれている。
私は懐の金貨袋の上から胸を押さえた。温かい。物理的な温かさと、経済的な余裕。そして隣にいる相棒の体温。公爵家を出てから、一番心安らかな旅路かもしれない。
ふと、ガブが鼻をヒクつかせた。
「ん?誰か来る」
彼の警告に、私は即座に反応した。街道の前方から、馬車の音が近づいてくる。
「隠れる?」
私が問うと、ガブは首を横に振った。
「間に合わない。オレ、マント被る。リゼ、男のフリしろ」
ガブは素早くフードを目深に被り、ただの小柄な旅人を装った。私は背筋を伸ばし、男装の少年としての演技モードに入った。
現れたのは、行商人の荷馬車だった。御台に座った中年の男が、私たちを見て手綱を緩めた。
「よう、旅人さん。こんな何もないところで奇遇だね」
男の視線が、鋭く私たちを値踏みする。女子供とわかれば絡んでくる輩もいる。私は声を一段低くして答えた。
「ああ。次の宿場まで急いでいるんだ。邪魔しないでくれ」
ぶっきらぼうに、しかし堂々と。『真実の眼』で相手を見る。敵意はない。ただの好奇心だ。
「へっ、威勢がいいねぇ、坊主。連れの方は?」
「流行り病で喉をやられててね。話せないんだ。近寄らないほうがいい」
私がガブを庇うように一歩前に出ると、商人は嫌な顔をして「そりゃあくわばらだ」と馬車を進めた。
馬車が遠ざかるまで、私たちは動かなかった。完全に姿が見えなくなってから、私はふぅと息を吐いた。
「行ったわね」
緊張が解ける。以前なら相手が誰であれ、身分の高い者としての言葉遣いが抜けなかったかもしれない。でも今は、自然と粗野な言葉が出た。この服が、私に新しい役割を与えてくれているのだ。
「リゼ、うまい」
ガブがマントの中から顔を出した。
「今の、全然『お嬢様』じゃなかった。生意気なガキだった」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
私は自分の服を見下ろした。泥のついたズボン。安物のローブ。確かに似合わない。鏡の中の私は滑稽かもしれない。けれど、この服を着ている時の私は、誰よりも自由で、強くいられる気がした。
「さあ行きましょう。日が暮れる前に、休める場所を探さないと」
私は新しいブーツで、力強く地面を蹴った。
85:満更でもない顔
旅は順調だった。順調すぎて怖いくらいだ。
ザリアを出て三日。私たちは街道を避け、森沿いの獣道を歩いていた。北へ向かうにつれ、植生が変わってくる。広葉樹が減り、針葉樹が増え、空気の透明度が増していく。
その間、ガブはずっとご機嫌だった。理由は単純。あの「赤いスカーフ」だ。
「ふふ〜ん♪」
奇妙な鼻歌を歌いながら、彼は時折立ち止まり、小川の水面や、磨かれた岩肌に自分の姿を映して確認している。そのたびに、スカーフの結び目をミリ単位で調整しているのだ。
「右が少し長いか?いや、風が吹くなら左に流したほうが……」
ブツブツと言いながら、顎を上げてキメ顔を作るゴブリン。正直、滑稽だ。でも、その顔があまりにも誇らしげなので、私は何も言えずにいた。
「ガブ、そんなに気に入ったの?」
休憩中、岩に腰掛けながら尋ねると、彼は真剣な顔で頷いた。
「ん。これがあると、力が湧いてくる」
彼はスカーフを撫でた。
「今まで、オレはただの『ゴブリンの一匹』だった。群れの中にいたら、誰がオレかわからない。でも、今は違う」
彼は胸を張った。
「オレは『赤いスカーフのガブ』だ。世界に一匹だけだ」
個の確立。魔物は通常、群れとしての意識が強い。個体名を持つことすら稀だ。けれどガブは、私との旅を通じて、そしてこの小さな布切れを通じて、確固たる「自分」を手に入れたのだ。
「そうね。あなたは世界で一番特別なゴブリンよ」
私が微笑むと、ガブはニカッと笑った。そしてふと私の顔を見て、表情を変えた。
「リゼもだぞ」
「え?私も?」
「ん。リゼも、最近『顔』が変わった」
ガブは私の顔を指差した。
「前は、いつも何かに怯えてた。追いかけられてるウサギみたいな顔だった。今は、獲物を探すオオカミの顔だ」
「オオカミ……それ、女の子としてどうなの?」
私は苦笑したが、悪い気はしなかった。
「褒めてるんだ。強くなった。昨日の野営の時も、オレが言う前に薪を集めて、火を点けてた。手際が良かった」
「それは……まあ、慣れよ」
確かに、以前なら従者に任せきりだった雑用も、今では当たり前にこなせるようになった。火打石で火を起こすのも、食べられる野草を見分けるのも、簡易的な結界を張るのも。貴族の教養としての魔法知識と、サバイバルの実践が結びつき始めている。
「オレ、リゼのこと、最初は『足手まとい』だと思ってた」
ガブは悪びれもせずに言った。
「でも今は違う。リゼはいい相棒だ。背中を預けられる」
彼はスカーフをキュッと締め直し、まるで熟練の戦士が弟子を認めるような、偉そうな、でも温かい視線を向けてきた。
「ふふ、ありがとう師匠」
私はおどけて頭を下げた。
その時、私は自分の顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしさではない。誇らしさだ。厳しい自然の中で生きる彼に認められたことが、社交界でどんな褒め言葉をもらうよりも嬉しかったのだ。
私は無意識に口元が緩むのを止められなかった。水筒の水面に映った自分を見る。そこには、泥と煤で汚れているけれど、生き生きとした瞳をした少女が、ニヤニヤと笑っていた。
いわゆる「満更でもない顔」というやつだ。
「変な顔」
ガブが茶化す。
「うるさいわね。休憩終わり!行くわよ!」
私は照れ隠しに立ち上がり、リュックを背負い直した。北の山々が近づいている。空気は冷たいが、心は熱い。自分たちが「成長」しているという実感が、何よりのエネルギーだった。
しかし、その「成長」を試すかのように、自然は新たな試練を用意していた。歩き始めて数時間後。風向きが変わり、鼻を突く強烈な異臭が漂ってきたのだ。
「くさっ!」
ガブが鼻を押さえて飛び上がった。
「なんだこれ!?腐った卵の匂い!?」
「これは……」
私は匂いのする方角――岩場の陰から立ち上る白い煙を見つめた。腐敗臭ではない。これは、地学の授業で習った、大地の息吹の香りだ。
86:温泉の湧く場所
異臭騒ぎに警戒するガブをなだめつつ、私は匂いの元へと進んだ。街道から逸れ、ゴツゴツした岩場を登っていく。周囲の気温は低いのに、地面がほんのりと温かい。岩の隙間からは、シューシューと白い蒸気が吹き出している。
「リゼ、やめろ!ここ、毒の沼だ!」
ガブが私の服の裾を引っ張る。
「この匂い、吸ったら死ぬぞ!鳥も虫もいない!」
「大丈夫よ、ガブ。これは毒じゃないわ」
私は彼の手を握り、さらに奥へと進んだ。岩壁を回り込んだ先に、その場所はあった。
「あった!」
私は歓声を上げた。
そこは、岩に囲まれた天然の窪地だった。中央には、直径五メートルほどの大きな水たまり――いや、湯溜まりができている。底からボコッ、ボコッとお湯が湧き出し、水面には白い湯気がもうもうと立ち込めていた。湯の色は、美しい乳白色。
「温泉よ!」
私は駆け寄った。手を入れてみる。熱い。でも火傷するほどではない。42度くらいだろうか。冷えた体には極上の温度だ。
「オンセン?」
ガブがおそるおそる近づいてくる。
「なんだそれ?煮汁か?誰かがスープ作ってるのか?」
「違うわよ。大地が沸かしてくれたお風呂よ」
私は説明したが、ガブはいまいちピンときていない様子だ。
「風呂?お湯に浸かるのか?こんな外で?」
ゴブリンには入浴の習慣がない。雨で体を洗うか、川で水浴びをする程度だ。お湯に浸かるという概念自体が新しいのだろう。
「そうよ。このお湯には、疲れを癒して、傷を治す力があるの」
私は言った。
「硫黄の匂いがするでしょう?これは薬の匂いなの」
「薬のスープ……」
ガブは湯面を覗き込んだ。
「じゃあ、飲めるのか?」
「飲まないで。お腹壊すわよ」
私は周囲を確認した。人の気配はない。魔物の気配も、この強烈な硫黄臭のせいか感じられない。岩に囲まれていて、外からは見えない絶好のロケーションだ。
「ガブ、ここで休憩しましょう」
私はリュックを下ろした。
「というか、入るわよ。お風呂に」
「ええ?オレもか?」
「当然でしょ。せっかく綺麗好きに目覚めたんだから、温泉の良さも知るべきよ」
私はガブに背を向けさせ、素早く服を脱いだ。冷たい風が肌を刺すが、目の前の湯気が誘っている。タオル一枚を巻き、私は白濁したお湯へと足を入れた。
「ふぁぁ」
思わず声が漏れた。熱いお湯が、冷え切った足先からふくらはぎ、太ももへと染み渡っていく。肩まで浸かると、全身の毛穴という毛穴が開くような感覚。凝り固まっていた筋肉が、バターのように溶けていくようだ。
「極楽……」
私は岩にもたれかかり、大きく息を吐いた。公爵家の広い浴室も良かったけれど、この大自然の中の野趣溢れる温泉は格別だ。空を見上げると、灰色の雲の隙間から、青空が少しだけ覗いている。
「ガブ、おいでよ。気持ちいいわよ」
私が呼ぶと、岩の向こうからガブが顔を出した。彼はまだ警戒しているようで、赤いスカーフだけは外さずに、腰布一丁になっていた。
「本当に、茹でられないか?」
「大丈夫だってば」
ガブは恐る恐る、足先をちょんとつけた。
「あつっ!」
一度引っ込めたが、私の気持ちよさそうな顔を見て、意を決してドブンと入ってきた。
「うおお……あつ……でも……」
彼は肩まで浸かり、目を丸くした。
「なんか、ジンジンする。腰の痛いのが、消えてく……」
「でしょう?大地の魔力が溶け込んでいるのよ」
ガブはしばらくじっとしていたが、やがて顔がトロリと溶けたような表情になった。
「ふへぇ。これ、すごい。水浴びと全然違う。骨まで温まる」
彼は水面をパシャパシャと叩き、それから頭まで潜って、ブハッと顔を出した。緑色の顔が、少し赤らんでいる。
「リゼ、人間って天才だな。こんな遊び知ってるなんて」
「人間が作ったんじゃないってば。自然の恵みよ」
私たちは湯気の中で笑い合った。旅の疲れ、追われる緊張、未来への不安。それらが全て、白い湯気と共に空へと昇って消えていくようだった。
「このスカーフ、お湯につけてもいいか?」
「ダメよ、色落ちしちゃうから。岩の上に置いておきなさい」
ガブは大事そうにスカーフを頭に乗せた。平和だ。この瞬間だけは、私たちはただの湯治客だった。
しかし、温泉の効能は「リラックス」だけではない。私の『真実の眼』が、湯気越しにあるものを見つけていた。湯溜まりの底、お湯が湧き出している源泉の近くに、キラリと光る「何か」が沈んでいるのを。
「ガブ、ちょっと潜ってみてくれない?」
「ん?いいぞ。何があるんだ?」
温泉の湧く場所には、時として大地の贈り物が隠されていることがある。それが吉と出るか凶と出るか。まずは、じっくりと温まってからの話だ。




