EP3
7:差し出された干し肉
ゴブリンとの睨み合いは、数分間続いただろうか。彼は木の陰から半身を出したまま、大きな黄色い瞳でじっとこちらの挙動を観察している。私は努めてゆっくりとした動作で、リュックを地面に下ろした。
彼を助けたのは気まぐれだ。ここで背を向けて立ち去ってもいい。けれど、彼が引きずっていた左足の傷が気にかかった。罠の刃は深く、肉を裂いていた。あのままでは化膿して、じきに動けなくなるだろう。
「手当て、させてくれる?」
私が一歩近づくと、彼はサッと身を引いて喉を鳴らした。「グルルッ(来るな)」拒絶の色は、まだ濃い。当然だ。人間はいきなり優しくしたりしない。彼がこれまでの生涯で学んできた「人間」という生き物は、痛みを与える存在でしかないのだろう。
私は苦笑して、その場に胡座をかいて座り込んだ。そして、自分のために沸かしていた鍋のスープを、木のお椀に少しだけよそった。漂う湯気。塩と干し肉の素朴な香りが森の空気に溶け出す。
その瞬間だった。ゴブリンの鼻が、ピクリと動いた。さっきまでの鋭い警戒の眼差しが、ふっと緩む。彼の視線が、私の顔から手元のお椀へと吸い寄せられている。彼の胸のあたりから、空腹を示す「橙色」の煙が立ち上り始めた。それも、今にも爆発しそうなほど濃い色だ。
(お腹、空いてるんだ)
野生動物にとって、怪我と空腹は死に直結する。私はお椀を地面に置き、そのままズリズリと後ろへ下がった。「どうぞ。毒なんて入ってないわよ」言葉は通じないが、行動で示す。彼は私の顔とお椀を数回交互に見比べた後、意を決したように飛び出した。
速い。怪我をしているとは思えない動きでスープに飛びつくと、熱さも気にせず、お椀に顔を突っ込んでガツガツと飲み始めた。「ギャッ、ガウッ(熱い、でも美味い!)」そんな声が聞こえてきそうな勢いだ。一滴も残さず舐め尽くすと、彼は期待のこもった目でこちらを見た。「もっと寄越せ」という、強欲で真っ直ぐな要求の色。
私はリュックから、保存食の干し肉を取り出した。カチカチに硬い、安い肉の塊だ。それを放り投げてやる。彼は空中でそれを見事にキャッチし、すぐさま齧り付いた。ガリッ、ゴリッ。私の歯なら欠けてしまいそうな硬い肉を、鋭い牙で粉砕していく。
食べている間、彼の周囲からは「警戒」の棘々(とげとげ)した気配が消え、代わりに「満足」のピンク色がふわふわと漂っていた。なんて単純で、分かりやすいんだろう。彼が夢中で肉を食べている隙に、私はそっと近づいた。今度は逃げなかった。食欲が勝っているようだ。私は彼の傷ついた左足にかざした手を向けた。
「洗浄」
生活魔法が発動し、傷口の泥や錆びの汚れが綺麗に落ちる。驚いて顔を上げた彼と、目が合った。私は何もしない。ただ、汚れを落としただけ。彼は自分の足を見つめ、不思議そうに鼻を鳴らしたあと、また肉を齧り始めた。
許された。そう感じた。言葉の契約も、誓いもない。ただ「飯を食わせたから、そばにいてもいい」という、即物的な許可。けれどそれは、私が王都で交わしてきたどんな社交辞令よりも、確かな絆の第一歩に思えた。
8:咀嚼音だけが響く夜
日が沈み、森は漆黒の闇に包まれた。私の小さな焚き火だけが、世界の唯一の明かりだった。
奇妙な夜だった。焚き火を挟んで向かい側に、ゴブリンが座っている。逃げる気配はない。どうやら、ここにご飯(私)がいると認識したらしい。彼は私が追加であげた堅パンを、両手で大事そうに抱えて齧っている。
クチャ、クチャ、ガリッ、ボリッ。
行儀の悪い咀嚼音が、静かな森に響き渡る。王都の食卓なら、即座に「下品だ」と叱責され、部屋を追い出されるレベルの騒音だ。けれど、今の私には、その音が不快ではなかった。
(静かだなあ)
咀嚼音はうるさいのに、心は静寂に包まれている。王都の食事会は、沈黙が許されなかった。「このワインは素晴らしいですね」「最近の情勢は」「リゼはまだ婚約が決まらないのかね」。空虚な会話。探り合いの視線。嘘で塗り固められた笑顔。それらが嵐のように飛び交い、私はいつも酸欠になりそうだった。
でも、ここにはそれがない。ゴブリンは、料理の感想なんて言わない。「美味しいですね」というお世辞も言わない。ただ生きるために食う。「もっと食いたい」「これは硬い」「うまい」。彼の全身から発せられるのは、そんな原始的な情報の羅列だけ。私は彼を見つめる。
ローブの裾からはみ出した緑色の足。尖った耳。決して可愛らしい生き物ではない。でも、彼の周りには「嘘の煙」が一切ない。空気が澄んでいる。私はそのことが嬉しくて、自分の分の干し肉を半分にちぎり、彼の方へ差し出した。
「食べる?」
彼は一瞬動きを止め、私を見た。黄色い瞳が焚き火の光を反射して輝く。そこに見えたのは「肯定」の色。彼は遠慮なく手を伸ばし、私の手から肉をひったくった。指先が彼のザラザラした皮膚に触れる。温かい。魔物にも体温があるのだと、初めて知った。
彼は肉を頬張り、満足げに喉を鳴らした。そしてあろうことか、そのまま焚き火のそばにごろりと横になったのだ。野生動物が無防備に腹を見せて。私を「敵」ではないと判断した証拠。あるいは、単に満腹で眠くなっただけか。数分もしないうちに、グゥグゥという高いびきが聞こえ始めた。私は呆れながらも、口元が緩むのを止められなかった。
「おやすみ。名無しのゴブリンさん」
私は膝を抱え、炎を見つめる。独りぼっちの家出の旅。昨日の夜は、孤独と恐怖で押しつぶされそうだった。けれど今夜は、向かい側で響く無遠慮な寝息のおかげで、不思議と怖くなかった。魔物がそばにいるというのに、これほど安心して眠れる夜が来るなんて。私は焚き火に薪をくべ、リュックを枕にして目を閉じた。
9:名前はまだない
翌朝。目が覚めると、ゴブリンはいなくなっていた。
焚き火の跡は冷たくなっている。周囲を見渡しても、緑色の姿はない。リュックの中身を確認する。食料が盗まれた形跡はない。
(行っちゃったんだ)
胸の中に、ぽっかりと穴が空いたような喪失感が広がった。昨夜の交流は、ただの気まぐれだったのだ。
彼は傷が癒え、腹が満たされたから、自分の巣へ帰っただけ。当然だ。魔物と人間が仲良くなれるわけがない。私は小さくため息をつき、身支度を始めた。また一人旅に戻るだけだ。そう自分に言い聞かせて。
顔を洗おうと、近くの小川へ向かった時だった。ガサガサッ!対岸の茂みが激しく揺れ、何かが飛び出してきた。
「ギャウッ!」
緑色の影。あのゴブリンだ。彼は川をバシャバシャと渡り、私の目の前まで駆け寄ってきた。その口には、極彩色の羽を持つ大きな鳥がくわえられていた。
彼は私の足元に、その死んだ鳥をドサリと落とした。そして鼻息荒く胸を張り、「どうだ」と言わんばかりに私を見上げた。彼の周りに漂うのは、「誇らしさ」を表す鮮やかな金色のオーラ。
「え、これ、私に?」
私は目を丸くした。鳥は首がへし折られ、少し無残な姿だったが、丸々と太っていて確かに食べ応えがありそうだ。彼は昨夜の食事の礼に、狩りをしてきたのだ。逃げたのではなかった。私のために、朝食を調達しに行っていたのだ。
「ギャッ(食え)」
彼は短い指で鳥を突き、私に勧めてくる。気持ち悪いとか、怖いとか、そんな感情は湧かなかった。ただ、その不器用な誠実さが、愛おしかった。言葉で「ありがとう」と飾るよりも、遥かに重みのある「事実」の提示。
「ありがとう。えっと」
呼びかけようとして、名前がないことに気づく。いつまでも「ゴブリン」と呼ぶのは味気ない。これから一緒に旅をするのなら――そう、私はもう、彼と一緒に行くことを当たり前のように考えていた――名前が必要だ。
私は彼を見た。彼は待ちきれない様子で、鳥の羽をむしり始めている。何でも噛み付く。何でも食べる。
ガブガブ、と。
「ガブ」
ふと、その音が口をついて出た。単純で、少し間の抜けた響き。でも、彼には似合っている気がした。
「あなたの名前は、ガブ。どう?」
私が指差して呼ぶと、彼は不思議そうに首を傾げた。「ガブ?」人間の言葉を真似るように、しわがれた声で繰り返す。意味は分かっていないだろう。けれど、彼――ガブは、嫌そうな顔はしなかった。「ガブ。ガブ」と数回呟き、それが自分のことだと認識したのか、ニヤリと大きな口で笑った。
「ガブ、食う。リゼ、食う」
片言の、しかし確かな意思疎通。彼が私の名前を呼んだ瞬間、私の心にかかっていた最後の鍵が開いた気がした。
こうして、家出少女リゼと、ゴブリンのガブ。世界で一番ちぐはぐで、けれど世界で一番「嘘のない」パーティが結成されたのだった。さあ、朝ごはんを食べよう。私たちの旅は、まだ始まったばかりだ。




