EP26-II
77.1:月下の鎌舞
ヒュンッ!
風を切る鋭利な音が、私の鼻先数センチを掠めた。死の感触。一歩下がるのが遅れていたら、私の首は胴体と永遠の別れを告げていただろう。
「ギチチチチ!」
目の前で、巨大な『大王蟲』が威嚇音を鳴らす。月光草の淡い青色に照らされたその姿は、悪夢の具現化だ。身長は二メートルを超え、硬質な緑色の外殻は鋼鉄のように光っている。そして何より恐ろしいのは、その両腕についた巨大な鎌だ。
「リゼ!ボサっとするな!首、飛ぶぞ!」
ガブの鋭い警告と共に、緑色の影が私の視界を横切った。ガキンッ!金属音が響く。ガブが、例のピカピカに磨き上げた「鍋のふたの盾」で、二撃目の鎌を受け流したのだ。
「ぐぬぬ……重い!こいつ、力持ち!」
ガブが歯を食いしばり、地面を削りながら耐える。ゴブリンの小さな体躯で、あの巨体の斬撃を受け止めるのは物理的に限界がある。彼は真正面から受けるのではなく、絶妙な角度で衝撃を逸らしているのだ。野生の勘と言うべきか、戦闘の天才と言うべきか。
「ありがとう、ガブ!下がって!」
私は杖を突き出し、即座に詠唱した。
「風よ、刃となりて敵を穿て!『風刃』!」
不可視の風の刃が、カマキリの胸部めがけて飛ぶ。カィィィン!しかし、硬い甲殻に弾かれ、浅い傷一つつかない。
「嘘……魔法が効かない!?」
「硬い!あいつの皮、オレの頭より硬いぞ!」
ガブがバックステップで距離を取り、私の隣に戻ってきた。状況は最悪だ。敵は四匹。こちらは魔法使い崩れの元令嬢と、棍棒を持ったゴブリン一匹。しかも、ここは『月光草』の群生地だ。広範囲を焼き払うような炎魔法は使えない。商品を燃やしてしまっては元も子もないからだ。
「ギチッ!ギチチッ!」
四匹のカマキリが、扇状に広がりながら包囲網を狭めてくる。彼らはただの虫ではない。魔力を含んだ変異種だ。狩りの知能がある。
「リゼ、どうする?オレ、特攻して腹の下に潜り込むか?」
ガブが棍棒を握り直し、低い声で尋ねる。
「だめよ。四匹同時に相手にして、そんな隙を見せたら串刺しにされるわ」
私は冷や汗を拭いながら、右目の眼帯の下で『真実の眼』を凝らした。世界の色が変わる。感情や魔力の流れが可視化される。カマキリたちの魔力の色は、捕食本能を示す濁った赤色。その赤色が全身を巡っているが、流れが滞っている場所があるはずだ。
――見えた。関節だ。首の付け根、鎌の関節、そして足の継ぎ目。そこだけ、硬い甲殻の守りが薄く、魔力の光が漏れ出している。
「ガブ、狙いは関節よ!」
私は叫んだ。
「あの硬い殻は割れないわ。でも、繋ぎ目は柔らかい。動きを止めて!」
「関節……あの、クネクネしてるところか!」
ガブがニヤリと笑った。
「わかった。庭師の仕事、手伝ってやる!」
次の瞬間、ガブが地面を蹴った。真正面からではない。彼は泥濘んだ地面を滑るように走り、一番右端のカマキリへと肉薄した。
「そっちだ、デカブツ!」
ガブが手近な石を投げつける。カマキリが反応して鎌を振るった瞬間、ガブはその懐へと飛び込んでいた。
「足元がお留守だぞ!」
ドゴォッ!ガブの渾身の棍棒攻撃が、カマキリの細い脚の関節を捉えた。バキッ、という嫌な音がして、巨大な魔物がバランスを崩す。
「ギィィィィ!?」
悲鳴を上げる魔物。だが、残りの三匹が黙ってはいない。仲間の危機に反応し、一斉にガブへと殺到する。
「ガブ!後ろ!」
私は杖を振り上げた。攻撃魔法は通じにくい。ならば、動きを阻害するまで。
「大地よ、泥沼となりて足枷となれ!『泥濘』!」
私が杖を地面に叩きつけると、カマキリたちの足元の土が、急速に水分を含んで液状化した。ズブブッ。突進しようとした魔物たちの足が、泥に囚われる。
「ギギッ!?」
動きが止まった。一瞬の隙。
「今よ、ガブ!逃げて!」
「おう!死ぬかと思った!」
ガブは泥の上を軽やかに跳ねて――体重の軽い彼なら沈まない――私の元へ戻ってきた。
しかし、これで勝ったわけではない。泥の拘束など、あの巨力なら数秒で引きちぎられるだろう。私たちは包囲を崩したに過ぎない。
月光の下、四対の複眼が、怒りの色を帯びて私たちを睨みつけていた。
77.2:磨かれた盾と泥の戦術
カマキリたちが泥を振り払い、再び態勢を整える。先ほど足を砕かれた一匹も、よろめきながらも戦意を失っていない。昆虫特有の、痛覚が希薄な動きだ。これが哺乳類の魔物なら、痛みで怯むところだが。
「しぶとい。虫、嫌いだ」
ガブがペッと唾を吐く。
「首を落とさないと、止まらないみたいだ」
「ええ。でも、あの位置までどうやって攻撃を届かせるか」
私は焦っていた。私の魔力残量は半分を切っている。強力な攻撃魔法を連発する余裕はないし、ガブの体力も無限ではない。長期戦になれば、数で勝るあちらが有利だ。
その時、月が雲間から顔を出し、谷底を強く照らした。キラリ。ガブの持っている「鍋のふたの盾」が、鋭い反射光を放った。
カマキリが一瞬、ビクリと動きを止めたのを、私は見逃さなかった。
「そうか」
私は思い出した。『大王蟲』は夜行性だ。月光草の微弱な光には集まるが、強烈な光には目が眩むはず。しかも、昨日のガブの「掃除」のおかげで、あの盾は鏡のように磨き上げられている。
「ガブ、作戦変更よ。あなたの『一番綺麗な装備』を使うわ」
「え?これか?」
ガブが盾を見る。
「私が光の魔法を撃つわ。それをその盾で反射して、あいつらの顔に当てて」
「目潰しか!」
ガブは即座に意図を理解した。
「わかった。オレ、角度、合わせるの得意だ!」
「行くわよ!準備はいい?」
「いつでもこい!」
カマキリたちが、痺れを切らして一斉に飛びかかってきた。四方向からの同時攻撃。逃げ場はない。
だが、私たちは逃げない。
「光よ、集いて......いいえ、ただの閃光でいい!『閃光』!」
私は杖の先端に、攻撃力のない、純粋な光の塊を生み出した。そして、それを敵にぶつけるのではなく、ガブの盾に向けて放った。
カッッッ!!!
ガブが盾を絶妙な角度で傾ける。杖から放たれた光は、磨き抜かれた鍋のふたに反射し、増幅され、レーザーのように拡散した。夜の闇に慣れていたカマキリたちの巨大な複眼を、強烈な白い光が焼き尽くす。
「ギィィィィィィーーッ!!」
鼓膜をつんざくような絶叫。視界を奪われたカマキリたちはパニックに陥り、手当たり次第に鎌を振り回し始めた。仲間同士でぶつかり、互いの甲殻を傷つけ合う。
「今だ!チャンス!」
ガブが叫ぶ。
「各個撃破よ!まずは右の足が壊れてる奴から!」
私は指示を出しつつ、自身も前に出た。貴族令嬢が前衛に出るなんて狂気の沙汰だが、今はそんなことを言っていられない。
混乱して鎌を振り回すカマキリの懐へ、ガブが潜り込む。視界がなければ、ただの巨大な的だ。
「ここか!ここが首か!」
ガブが跳躍した。カマキリの胸部を足場にして駆け上がり、無防備な首筋に肉薄する。
「おおおおらぁぁっ!」
ドゴォッ!全体重を乗せたフルスイングが、首の関節に直撃した。グシャリ、という生々しい音と共に、一匹目の巨体が崩れ落ちる。
「あと三匹!」
私は立ち止まらず、次の一手を打つ。ガブがトドメを刺している間に、残りの敵の足止めをしなければならない。
「氷よ、地面を凍てつかせよ!『氷結』!」
先ほどの『泥濘』で濡れていた地面を、今度は凍らせる。泥だらけだったカマキリたちの足が、氷漬けになって地面に固定された。
「ギチッ!?」
視界が戻りかけていた彼らだが、今度は動けない。氷の拘束は、泥よりも強固だ。
「リゼ、すごい!こいつら、氷漬けのトカゲみたいだ!」
ガブが倒した敵から飛び降り、次の獲物へと走る。
「急いで!長くは持たないわ!」
私の魔力はもう残りわずかだ。けれど、勝機は見えた。私たちには「連携」がある。そして、昨日手に入れた「清潔さ(ピカピカの盾)」という予期せぬ武器があった。
泥と光と、信頼関係。この森で生き残るための全てを総動員して、私たちは残る魔物たちへと挑みかかった。
77.3:収穫の時
戦いは、泥仕合の様相を呈していた。けれど、最後の一匹が崩れ落ちた時、立っていたのは私たちだった。
ドサァッ。最後の『大王蟲』が、断末魔と共に地に伏す。
「はぁ……はぁ……終わっ、た……?」
私は杖を支えにして、膝から崩れ落ちそうになるのを堪えた。全身汗だくだ。泥も跳ねている。せっかく昨日綺麗にした服が、また汚れてしまった。でも、不思議と不快感はない。
「勝った!オレたち、勝ったぞ!」
ガブが、動かなくなったカマキリの死骸の上で、勝利のポーズをとっている。彼もボロボロだ。頬にはかすり傷があり、緑色の血が滲んでいる。だが、その目はランタンのように輝いていた。
「ええ、大勝利よ。怪我は?」
「平気だ。舐めれば治る」
ガブは傷口をペロリと舐めると、死骸から飛び降りて私の元へ駆け寄ってきた。
「リゼ、大丈夫か?魔力、カラカラの音がする」
「ええ、すっからかんよ。もうマッチの火も灯せないわ」
私は苦笑した。でも、私たちは生きている。そして、目の前には戦利品がある。
静かになった谷底に、再び虫の声が戻り始めていた。そして、戦いの喧騒の中でも、凛として輝き続ける青白い花々。『月光草』は無傷だった。私たちは自然と顔を見合わせ、頷き合った。
「さあ、仕事の続きをしましょう」
私たちは泥だらけの手を拭い、採取作業に取り掛かった。カマキリの死骸は放っておく。彼らの肉は酸味が強くて美味しくないとガブが言っていたし、素材として持ち帰るには大きすぎる。私たちの目的は、あくまでこの小さな花だ。
私は布を取り出し、傷つけないように、一本一本丁寧に根元から掘り起こした。ガブも、その太い指先を器用に使って手伝ってくれる。
「これ、金になる。これ、肉になる」
と呪文のように唱えながら。
二十株。袋いっぱいに詰まった『月光草』は、ずしりと重かった。それは単なる植物の重さではない。私たちの「希望」の重さだ。この資金があれば、旅に必要なものが揃う。まともな食事、暖かい寝床、そして国境を越えるための力。
「終わった」
最後の株を袋に収め、私は大きく息を吐いた。空を見上げると、東の空が白み始めている。夜が明ける。長い、長い夜だった。
「帰ろう、リゼ。腹減った」
ガブが採取袋を大事そうに背負う。袋の隙間から漏れる青い光が、彼の背中を蛍のように彩っている。
「ええ。一度祠に戻って、少し休んでから町へ行きましょう」
私は立ち上がろうとして、よろめいた。すぐにガブが肩を貸してくれる。身長差があるから少し歩きにくいけれど、その体温が頼もしい。
「リゼ、歩けるか?オレ、背負うか?」
「大丈夫よ。ありがとう、ガブ」
私たちは身を寄せ合い、朝霧の立ち込める森を歩き出した。体は鉛のように重い。魔力も底をついている。けれど心は軽かった。強敵を倒し、目的を達した達成感が、疲労を心地よいものに変えてくれていた。
足元には、死闘の痕跡。砕けた氷、乾き始めた泥、そして巨大な魔物の骸。それらを乗り越えて、私たちは前へ進む。
この先に待っているのは、人間の町。そこには魔物よりも恐ろしい「悪意」や「商魂」が待っているかもしれない。でも、今の私たちなら大丈夫だ。だって、あの『大王蟲』の群れすら退けたのだから。
私は隣を歩く、世界一頼りになる小さな相棒の横顔を見た。彼もまた、満足げな顔で前を見据えている。
私たちは無言のまま、しかし確かな足取りで祠へと向かった。朝日が、私たちの泥だらけの背中を優しく照らしていた。




